四日市市長選挙に当選
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1965年(昭和40年)に四日市市長の平田佐矩が急死した。1966年(昭和41年)1月21日の四日市市長選挙は、保守系有力候補と日本共産党候補による激しい選挙戦となり、平田の前任の吉田勝太郎以前に市長を務めた吉田千九郎に対し、若さを強調したことと四日市コンビナート企業や財界の支持を受けたこと、また名門九鬼家の財力で九鬼喜久男が接戦の末に勝利をした。 平田は九鬼家と並ぶ四日市の二大財閥の一方である四日市平田家の出身であり、四日市の重工業化を推し進めた一方、四日市コンビナートの工場排煙による公害という負の遺産も残した。四日市市民からは、九鬼喜久男は市長として公害対策を行うのが当然と思われており、また若さと改革への期待、財界のエースとしての期待から、四日市のケネディと呼ばれた。就任当時47歳で、初の大正生まれの若い市長であった。 こうした期待に対して九鬼は、塩浜地区での四日市喘息の公害患者との懇談会で「塩浜地区はいつまで漁業をするのか。今は工業化の時代であり、自分は四日市市長として石油化学産業の誘致をする工業化を進めており、工業が四日市市にとって最も重要であり農業と漁業は時代遅れで、塩浜地区は工業地区に向いていており、塩浜地区民は漁業をやめるべきである。漁業は近代化に遅れた古代・中世・近世から続く封建的な時代遅れな産業であるから漁業は廃業して、工業が四日市市にとって最も必要な産業であり、工業のためには漁業が犠牲となっても良い」と発言した。 四日市市議会では「経済発展のために四日市コンビナートが必要である。四日市市は石油化学産業による経済発展をすべきである。工業化政策が四日市市の最重要課題であり、少々の公害被害が発生して、四日市市民が病気となり健康被害で死亡するのも、急増する交通事故による死亡者や広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下や四日市空襲や戦死の損害と比べたら四日市市が経済発展するための代償だからやむを得ない」と発言した。 九鬼は霞ヶ浦地区に第3コンビナートを建設をすることを推進した。自民党系の市議会議員に働きかけて、市議会で第3コンビナートの建設条例案の強行採決をした。第3コンビナートが建設されると、すでに公害があった塩浜地区・日永地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区・羽津地区以外、市北部の富田地区・富洲原地区にも公害が拡大する可能性が指摘され、四日市ぜんそくによる健康被害が富田地区でも発生するかもしれないと問題となった。公害拡大の危機感が富田地区民から叫ばれた。九鬼はプラント設備の安全性と、人工島による建設計画であり陸続きでなく地理的に安全であることを強調した。九鬼は市民の健康被害より市の経済成長を優先した。そのため、公害患者が多い塩浜地区民と対立した。
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