生い立ち・九鬼家の婿養子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 23:05 UTC 版)
「九鬼喜久男」の記事における「生い立ち・九鬼家の婿養子」の解説
飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。 四日市市の名門家系である四日市九鬼家は、九鬼水軍を率いた九鬼氏の末裔で、江戸時代に商業に転じて栄え、製油業の九鬼産業グループを経営していた。四日市九鬼家の当主は代々九鬼紋十郎(別名は九鬼紋七)を襲名し、8代目九鬼紋七・九鬼紋十郎・9代目九鬼紋七親子は2代続けて衆議院議員と参議院議員を務めていた。 田中喜久男は1941年(昭和16年)に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。横浜正金銀行の勤務中に日本軍に応召され、病気のため1943年(昭和18年)に除隊して療養した。その後、九鬼産業に入社し、才覚を買われて九鬼紋十郎の娘(妹の実子で紋十郎の養女となった)高子と結婚し婿養子となった。喜久男は養父紋十郎の経営する九鬼肥料所の経営に参画して九鬼肥料工業の社長となり、三陽化成株式会社を設立して社長や会長を務め、1973年(昭和48年)にはホテルサンルートを設立して社長を務めた。 喜久男はまた、四日市市教育委員会の委員や三重県教育委員会の委員などの教育行政、ボーイスカウト三重県連盟会の設立にも関わった。 妻の高子との間には、1947年(昭和22年)に長男の九鬼通夫(CBC本社勤務)、1950年(昭和25年)に九鬼十三男(電通名古屋勤務)、1951年(昭和26年)に九鬼史夫(近鉄百貨店大阪勤務)が誕生した。
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