四日市・奈良区域の分離
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東京電力解散直後の1928年5月30日、東邦電力では社長の伊丹弥太郎が退任し、副社長の松永安左エ門が社長へと昇格した。その松永は同年5月1日『電力統制私見』を発表し、卸売り会社の小売り会社への統合(一区域一会社主義)や送電連系の拡大による発電力の過不足調整ならびに予備火力設備の共通化によって極力電力生産原価を切り下げ、その利益によって施設の改善を図って産業界発達に資するべき、と主張した。これら電力統制策のうち「一区域一会社」は当時実現性の低いものであったから、東邦電力では送電連系の拡大によって他の電力会社と供給力を相互補給する「電力プール」の形成を優先的に行うこととなった。そしてまず、三重合同電気との連携強化を狙った。 先に触れた通り、三重合同電気は北勢電気を除いた県下の主要電力会社3社を統合し1922年5月に発足。北勢地方には進出できなかったが、三重県内のその他地域、伊賀地方や尾鷲方面の事業者を相次いで統合し、1923年には徳島水力電気を合併して徳島県や兵庫県淡路島までも供給区域としていた。1928年には東邦電力への電力供給を行う岐阜県の濃飛電気を合併したが、一方で東邦電力から電力の供給を受けるという関係にあった。また東邦電力が北勢から南下したため、供給区域や送電設備が広い範囲で重複していた。 こうした状況の中、東邦電力では四日市・奈良両支店を分離、三重合同電気へと現物出資の形で移管するとともに同社の経営に参加し、これらの地域における送電連系の強化を図ることとなった。この提携により、両社は設備の共用が可能となり設備投資の重複が排除でき、加えて三重合同電気側としては火力設備の利用を含めた電源の安定化、東邦電力側としては余剰電力の販売に利があるとされた。1930年(昭和5年)1月6日、両社は事業譲渡契約を締結。内容は、東邦電力は四日市・奈良両支店所管の電気事業ならびに関連資産(簿価1800万円)を三重合同電気へと出資し、これを受けて三重合同電気は資本金を3603万4950円から7203万4950円へと増資、半額(25円)払込みの新株72万株を東邦電力へ交付するというものであった。同年1月31日に開催された株主総会にて、三重合同電気は契約の承認を受けるとともに地名を削って合同電気株式会社へと改称した。 1930年5月1日、東邦電力四日市・奈良両支店の事業は合同電気へと継承された。移管された設備には発電所13か所のほか変電所21か所(桑名・富田・四日市・津・松阪・山田・奈良・高田など)が含まれたが、77kV送電線は四日市 - 山田間に限られた。対象外の岩塚 - 四日市 - 高田間の送電線は合同電気との連系用に東邦電力の手に残されており、事業移管とともに桑名・富田・四日市・奈良・高田の5変電所において東邦電力から合同電気に対する計38,000kWの電力供給が開始されている。また四日市・奈良両支店の取得と同時に合同電気は京阪電気鉄道から同社和歌山支店の事業・財産を買収して和歌山県にも進出した。京阪和歌山支店は旧和歌山水力電気・日高川水力電気区域で、供給区域は和歌山市や御坊・田辺方面であった。
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