四日市周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 15:13 UTC 版)
神戸から伊勢参宮街道を北上してきた一揆集団は三重郡河原田村(現在の四日市市河原田町)から、鈴鹿郡下大久保村(現在の鈴鹿市下大久保町)方面を北上してきた一揆集団は三重郡山田村(現在の四日市市山田町)から、三重郡日永(現在の四日市市日永)に達し、四日市で東海道から来た一揆隊に合流した。山田村では一部の一揆隊が菰野方面(現在の三重郡菰野町)へ向かった。鈴鹿山脈の麓にある三重郡水沢村(すいざわむら、現在の四日市市水沢町)にも一揆隊が進入したが、水沢村で一部の村人を引き連れ、もと来た鈴鹿郡大久保村(現在の鈴鹿市大久保町)へ引き返していった。稲葉三右衛門の『暴動日記』によれば、四日市中心街では午前中に電信局放火を皮切りに焼き討ちが始まり、三重県庁四日市支庁や郵便会所を攻撃した後、桑名郡桑名(現在の桑名市中心街)へ向けて進んだが、夜には別の一揆隊が四日市に入って高砂町で無差別放火を行い、築港所や海運会社を放火して地元民と対立したという。四日市では三井銀行はかろうじて放火を阻止できたが、三菱銀行は犠牲になった。 四日市を出た一揆隊が次に入ったのは、朝明郡(あさけぐん)羽津村(現在の四日市市羽津町)で区扱所を打ちこわし、仮戸長宅を放火、更に朝明郡大矢知村(現在の四日市市大矢知町)に進み、懲役場を包囲した。獄吏はやむを得ず囚人を解放し、懲役場にいた150人のうち50人ほどがそのまま一揆に加わった。 朝明郡の中野村・竹成村・田光村(たびかむら)・永井村(いずれも現在の三重郡菰野町内)では、前月に「全村団結」して改租を承諾したが、北勢での一揆がこの4村で最も激しくなったことから、全村民の総意で改租を承諾したわけではなかったことが表面化した。4村の一揆は更に員弁郡鳥取村(現在の員弁郡東員町鳥取)へ広がり、一部は四日市中心部付近まで進んだ。 現在の四日市市域では、建物への毀損だけでなく、明治政府と関係する公文書が多数焼却された。特に地租改正関連と学校関連の文書がその対象となった。処分された者は三重郡・朝明郡で合計7,840人に及び、全戸数の43%に及んだ。
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