公害訴訟との対決と謝罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 23:05 UTC 版)
「九鬼喜久男」の記事における「公害訴訟との対決と謝罪」の解説
1967年(昭和42年)2月の市議会で、霞ヶ浦海岸を埋め立てて第3四日市コンビナートを誘致する議案が、九鬼のリーダーシップで保守系議員の賛成により強行採決された。同年12月25日の市議会で九鬼は、公害訴訟企業の三菱油化四日市事業所の総務部長加藤寛嗣を四日市市の助役に選任する議案を提出した。加藤は三重県知事田中覚の従兄弟であった。四日市公害訴訟では、四日市市などの行政は被告となっていなかったが、市は四日市コンビナート企業と同様に、塩浜病院に入院する原告患者側と敵対して戦う意思を表明した。 1968年(昭和43年)9月30日に住民と企業の対話集会があり、公害対策のための住民・企業の対話をうたい文句に「四日市地域公害防止対策協議会」の第1回総会が四日市商工会議所のホールで開催された。同協議会は会長が田中知事、副会長が九鬼であった。記者会見で九鬼は「四日市公害訴訟を取り下げて、公害防止協議会での話し合いによる解決を望む」と発言した。 1972年(昭和47年)7月の四日市コンビナート企業6社の民事責任を認めた四日市公害訴訟の判決時には、四日市の行政責任を認めて塩浜地区民など市南部の住民に謝罪した。 この間、1971年(昭和46年)に霞ヶ浦緑地公園に霞ヶ浦緑地由来碑を建立した。
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