公家としての足利将軍家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:06 UTC 版)
「足利将軍家」の記事における「公家としての足利将軍家」の解説
足利義満の時代になると、足利将軍家(室町殿)は朝廷内においてもその地位を高め、最終的には太政大臣まで昇って公家社会の頂点に立った。次代の義持以降も一部修正はあるものの、足利将軍家は公卿に昇進して応仁の乱までは大臣にまで昇進可能である摂家・清華家級の家格となった。このため、足利将軍家も摂関家や清華家と同じように中下級の公家、特に将軍家と婚姻関係を結んだ日野流や実務に長けた勧修寺流の公家などを自己の家司として家政を補佐させるなど、公家社会の有力な一員となった。 応仁の乱後に幕府の衰退が明らかになると、朝廷との関係に変化が生じた。明応の政変以降に将軍家が事実上分裂し、幕府から朝廷への財政援助も望めなくなると、朝廷はどちらの陣営からでも正式な申請と御訪(必要経費の献上)があれば任官申請を認めるという一種の機械的処理を行うことで、将軍家の内紛が朝廷に影響するのを回避しようとした。 ところが、足利将軍家の義稙系(足利義稙―足利義維―足利義栄)と義澄系(足利義澄―足利義晴―足利義輝・義昭兄弟)への分裂は摂関家にも影響を及ぼした。近衛家が娘を義晴・義輝の正室として連携を深め、これに対抗して九条家が義稙系と結んだからである。その結果、「義稙系将軍家・九条流摂関家(九条家・二条家・一条家)」対「義澄系将軍家・近衛流摂関家(近衛家・鷹司家)」という政治対立の構図が成立した。このため、義澄系将軍家が力を持っている時は、九条流は摂関の解任や地方への下向を余儀なくされ、反対に義澄系将軍家が京都を追われた時には、近衛流が力を失い近衛家が義澄系に随行して地方に下向する状況になった(鷹司家は戦国時代中期に一時断絶)。 その後、永禄の変が発生すると、近衛前久は近衛家の血を引く義輝が殺害されたにもかかわらず、対立してきた足利義栄への支持に傾き、二条晴良がそれに対抗するため義輝の弟である義昭の支持に切り替えた。その結果、義昭が織田信長の後ろ盾を受けて上洛すると、近衛前久は関白の地位を失って亡命を余儀なくされ、代わりに二条晴良が関白に任ぜられ、亡命していた九条稙通が京都に帰還した。 その後、義昭は信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡し、足利将軍家は実体を喪失するが、摂関家の争いはその後の関白相論につながることになる。
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