公家の召使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 06:22 UTC 版)
「ステーファン・フメレーツィクィイ」の記事における「公家の召使」の解説
ステーファン・フメレーツィクィイの生年月日は明らかになっていない。父コルネーリイ・フメレーツィクィイはクヌィン村の役人で、ルーシの公家、名高いオストロージクィイ家とコレーツィクィイ家に仕えていた。おそらく、若い頃のステーファンは召使としてその公たちに雇われており、後に彼らと共にロシア・ツァーリ国との戦争(1609年-1612年)に参陣した。その戦争中に名を揚げたフメレーツィクィイは傭兵部隊の隊長の一人となり、その部隊の代表としてワルシャワの全国議会を訪れた。そこで、彼はスタニスワフ・ジュウキェフスキに出会った。戦争が終わると、フメレーツィクィイは再びオストロージクィイ家に仕えるようになった。 1616年、フメレーツィクィイは公たちの命に従って800人のコサック部隊を率いてトランシルヴァニア公国の内戦に参加した。その後4年間、ジュウキェフスキの下で活躍し、ポーランド・リトアニア共和国の国境地帯であったウクライナをクリミア・タタール人の来襲から守った。敵との小競り合いを続ける中で、タタール人の戦術を学んだ。勉強熱心であったフメレーツィクィイは早くもジュウキェフスキの寵愛を受け、大切にされていた。しかし、1620年、ツェツォーラの戦いではポーランド・リトアニア共和国の軍勢を率いるジュウキェフスキは数で優るオスマン帝国軍に破れて討死し、フメレーツィクィイは敵の強いの圧迫のまえに自分の軽騎馬隊をやむなく退却させた。後ほどフメレーツィクィイは、その面目なき行為を打ち消すために数多の戦のなかで努力しつづけた。 1621年には、フメレーツィクィイはオストロージクィイ公家を去り、ザモシチのオルディナト・トマシュ・ザモイスキに仕官した。新しい主人は彼の働きぶりを高く評価し、クラースネ郡とノヴィーイ・メジビージュ郡の両郡の支配と防御を任せた。
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