公家の姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:44 UTC 版)
9歳から三崎町の姉小路家邸内で教える跡見花蹊の寺子屋に寄宿して学び、さらに猿楽町に作った塾(跡見女学校前身)で15歳まで勉強した。この頃、中山家では明宮(のちの大正天皇)を預かって養育しており、学校から帰った南加は、侍女たちと4人で身体の弱い明宮の病気平癒を祈り、日比谷の大明神で百度参りをする習慣を雨風の日も欠かさず4年ほど続けたという。また女子学習院第一期卒業生となる。 19歳の4月、嵯峨公勝に嫁ぎ、実勝・実英・淑子・幾久子の二男二女をもうける。嵯峨家は中山家と婚姻関係など親密な間柄であり、幕末には両家とも勤皇運動で幕府に睨まれる同志であった。この縁談は伯母である中山慶子の熱心な勧めによるものだった。
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