公害裁判と補償
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 08:56 UTC 版)
1967年6月12日、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。 1969年6月14日、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。 1969年7月、第1回「全国公害研究集会」が、イタイイタイ病が発生した富山県で開催された。水俣病、イタイイタイ病、三池鉱山の一酸化炭素中毒、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。 1970年11月28日、大阪厚生年金会館で行われたチッソ定時株主総会に、白装束の患者(一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒みつづけたチッソの江頭豊社長に直接会うために、一株株主として参加した。大阪・水俣病を告発する会が発足。 1971年9月29日、新潟水俣病第1次訴訟で新潟地裁は原告勝訴の判決を下した。新潟地裁は、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があると述べた。公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。 1971年、水俣病患者が新たに16人認定される。患者総数150人、うち死者48人。 1973年3月20日、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。既に熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でも初めての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。 同年、環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)は全て除去することを決める。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。水俣市の水俣病認定患者が自殺。 1987年3月30日、熊本水俣病の第三次訴訟(熊本地裁)で、相良甲子彦裁判長(当時)は原告勝訴の判決を下し、国と県の責任を認めた。 水俣病として認定された患者は原因企業であるチッソおよび昭和電工からの補償を受ける。患者の認定は1959年に開始された。ハンター・ラッセル症候群をベースに症状の組み合わせを求めるものであった。1971年(当時の環境庁長官は大石武一)の次官通知で「疫学条件(原因食品の摂取)といずれかの症状」による認定が開始された。補償内容は1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万〜1,800万円、年金、医療費の支給などで、認定患者の数は約3,000人(死者含む)である。公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。 1974年:5歳で水俣病に冒され、18年間危篤状態だった女性が死亡。水俣病患者100人目の死者。 1975年:チッソ幹部が水俣病の「殺人、傷害罪」で告訴される。 1975年3月、水俣病関西患者の会が結成される。 1976年:熊本地方検察庁、水俣病でチッソの吉岡喜一元社長と西田栄一元工場長を7人の被害者に対する業務上過失致死傷害罪で起訴。4大公害事件で初の刑事訴追。1979年3月22日、熊本地裁で2人の被害者に対する業務上過失致死傷害罪を認定した上で有罪判決(福岡高等裁判所支持)。現在の認定基準は1977年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された判断条件(昭和52年判断条件とも言われる)で、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。1971年の基準に対して1977年の基準を改悪とみなすべきかどうかについて論争が長年続いている(津田2004ほか)。 一方、この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となってきた。 1979年3月22日、チッソ刑事裁判第一審判決。熊本地裁は、吉岡喜一元社長と西田栄一元水俣工事長に業務上過失致死で禁固2年、執行猶予3年の有罪判決を下した。被告は控訴。 1980年:水俣病認定申告者が国・県も被告に加え提訴。第3次訴訟。以後申請者の提訴が相次ぐ。平成5年、地裁が国・県の発生拡大責任を全面的に認める判決。 1982年:「チッソ水俣病関西訴訟原告団(団長岩本夏義)」結成、チッソ水俣病関西訴訟提訴。 1987年:水俣病第3次訴訟で、熊本地裁がチッソとともに初めて国と県の責任を認め、総額6億7,400万円の支払いを命じる。 1988年:3月1日に行われた水俣病の刑事裁判の上告審で、最高裁が7人の被害者に対する業務上過失致死傷害罪を認定したうえでチッソ吉岡元社長と西田元工場長の上告を棄却し、禁固2年・執行猶予3年の有罪判決。刑事訴訟後から12年ぶりで、患者の公式確認以来では32年ぶりの決着である。 1989年:『週刊新潮』2月16日号pp.31–32に「水俣病「ニセ患者」も三十年」として胎児性患者・上村智子の母親の意見を掲載。 私らが裁判に勝ったら、一任派の人たちも千八百万円もらいなすった。それはまだいいのやけど、お金が出たばっかりに、〝自分もそげんとじゃ(そういう症状だ)〟と言う人の出てきたとです。それも、以前は伝染病やとか言うとった人やら、〝あそこの家は貧乏やから、魚しか食うもんがなくて病気になった〟とか、陰口叩いとった人に限って我も我もと申請ばするとです。ろくに魚も食べんのに水俣病になった人やら、四十年になった水俣に越してきた人やらが、〝水俣病や、水俣病や〟言うて…。絶対、焼酎飲みすぎてアル中になった人やら、中風やらの人が申請しとるとです 1990年12月5日、水俣病裁判の国側の責任者として、和解拒否の弁明を続けていた環境庁企画調整局長が自殺。 1992年、水俣市の中学校の調査で、水俣病の偏見から文通を断られたり、修学旅行でからかわれるなどの差別に悩むケースが多いことがわかる。 国や原因企業などを相手に損害賠償請求訴訟を起こしていた未認定被害者らは、1995年、自民党・社会党・新党さきがけの連立与党三党による調停を受け入れ、これら訴訟の大半が取り下げられた。このときの政治解決により、被害者には一時金260万円などが原因企業から支払われたほか、医療費の自己負担分などが国や県から支給されており、その対象者は約12,700人に上る。この政治解決を受け入れずに、訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟である。 1995年、政府、水俣病の未確認患者問題につき最終解決策を決定。村山富市首相、原因の確認・企業への対応の遅れを首相として初めて陳謝。国の法的責任には触れず。 2001年、水俣病事件で国・熊本県の責任を認める初の高裁判決が下り、チッソに対する除斥期間経過も撤回した。関西水俣病訴訟団が国・熊本県に上告を断念するように申し入れたにもかかわらず、国・熊本県が最高裁へ上告する。2004年、最高裁は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。また認定基準については、昭和52年判断条件は補償協定に定めた補償内容を受るにたる要件として限定的に解釈すべきであるとし、その症状の一部しか有しないものについてもメチル水銀の健康影響を認め、チッソなどに600万〜850万円などの賠償の支払いを命じた。 2005年、未確定患者が熊本地裁に集団提訴。この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。国は医療費の支給などが受けられる新保健手帳の受付を再開したが、この受給者は2006年11月末までに6,500名を超えている。このほかに公健法による患者認定の新たな申請者も4,600人にのぼっている。さらに1,000人以上を原告として、国や原因企業などを相手取った新たな損害賠償請求訴訟も提起されるなど、救済と補償問題はいまだに解決には至っていない。 2007年10月、「水俣病被害者互助会」が、胎児の時や幼少期にチッソ水俣工場が排出したメチル水銀の汚染被害を受けたとして、2億2,800万円の損害賠償を求め熊本地裁に提訴。同年、水俣病関西訴訟の81歳女性が認定求め提訴。 2007年11月19日、チッソの後藤舜吉会長は救済問題で、新救済策について「(チッソの負担分は)株主や従業員、金融機関などへの説明がつかない」として受入拒否を意向を正式表明 したが、鴨下一郎環境大臣は、チッソに負担を求めていく考えを明らかにした。 2009年7月8日、水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法(通称:水俣病救済特別措置法)が成立。その前文において「国及び熊本県が長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて、政府としてその責任を認めおわびするとともに、公健法に基づく判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者として受け止め、その救済を図る」ことが定められた。しかし同法は、具体的な救済の範囲が示されていないことや原因企業チッソの分社化を含むものであったため、批判の動きも見られた。 2010年3月、未認定患者らでつくる「水俣病不知火患者会」(約2,100人)が提訴した損害賠償請求について、熊本地裁は和解を勧告し、その和解協議において裁判所の所見が示された。所見の内容は、水俣病と判定された原告に一時金210万円および療養手当を被告の国・県・チッソが支給することとされており、原告被告双方が和解案を受け入れることを表明した。 同年4月16日、水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定。水俣病が生ずる原因となったメチル水銀を排出した事業者であるチッソ、昭和電工の責任と、いわゆる関西訴訟最高裁判決において公害防止政策が不十分であったと認められた国および熊本県の責任とを踏まえて、水俣病被害者をあたう限りすべて、迅速に救済することとし、一定の感覚障害を有する人を対象に一時金210万円および療養手当等を支給することが定められた。しかし、この一時金について、厚生労働省は「収入である」と判断し、一時金支給を受けている被害者が生活保護の支給を受けられなくなっているケースが多発している。こうした世帯は、熊本・鹿児島両県で100世帯を超える数で存在しているという。かえって生活苦が増したとの被害者からの声が相次いでおり、有識者からは「実情に合わない制度である」として問題視する意見が多い。熊本県などは制度の見直しを要望しているものの、厚生労働省は「原則通りの運用であり、変更予定はない」としている。 これに関連して、一時金や和解金の支給開始直後から生活保護の支給を打ち切られた鹿児島県出水市在住の患者ら4人が、同市の処分を不服として、2011年9月9日、鹿児島地裁に処分を取り消すよう訴訟を起こした。 2021年9月14日、水俣病被害者団体「水俣病不知火患者会」などでつくる「ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会議」は、ユージン・スミスを題材とする映画『MINAMATA-ミナマタ-』の日本公開(9月23日)に合わせ、全ての水俣病被害者の救済をめざしてインターネット署名に取り組むと発表した。署名はオンライン署名サイト「Change.org」で受け付ける。 水俣病の健康被害を訴える人とその認定問題は2020年代においても継続中である。汚染海域の沿岸に居住歴がある人は約47万人。未認定患者で認定を申請した2万2229人(2021年7月末時点)のうち認定されたのは1790人(8%)である。2013年の最高裁判決は「個々の事案を総合的に検討し判断すべきだ」と求めた。2014年に環境省が自治体に通知した認定の運用指針は同じ地域・家庭に認定患者がいるか、漁業に従事した経歴、汚染魚介類を食べていた時期の頭髪中の水銀濃度などを基準として示したが、これに対しては救済につながっていないとの批判がある。
※この「公害裁判と補償」の解説は、「水俣病」の解説の一部です。
「公害裁判と補償」を含む「水俣病」の記事については、「水俣病」の概要を参照ください。
- 公害裁判と補償のページへのリンク