水俣病事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 05:24 UTC 版)
1970年、水俣病の被害者救済に関わり、チッソ一株運動を提案発起。チッソ株主総会場において江頭豊社長と直接対決し、患者としての名誉を回復する闘いを支援。 同年、1970年度チッソ株主総会議決取消を自ら原告として訴え、大阪地裁一審勝訴、大阪高裁二審勝訴の上、1983年最高裁判決でも勝訴する[4]。 1971年、川本輝夫ら9人の水俣病未認定患者の代理人として、熊本県知事の水俣病認定否定の行政処分の取消を求める行政不服審査請求をした。当初の請求先は厚生省だったが、同年8月7日、環境庁(1971年7月1日設立、初代長官大石武一)は、行政不服審査の棄却処分を取り消し、熊本県と鹿児島県に対し審査やり直しを命じた。 1980年、水俣病患者・川本輝夫がチッソとの自主交渉のさなかに社員ともみあいになり、傷害罪で起訴された、いわゆる「チッソ川本傷害事件」(1972年)について、最高裁で起訴そのものが違法だとして公訴棄却の決定を勝ち取る[7]。
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