水俣病研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:30 UTC 版)
1956年、熊本大学医学部水俣病医学研究班に加わり、喜田村正次と疫学調査を担当する。1960年10月、新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジを採取し、1962年8月、アセトアルデヒド酢酸工場の水銀滓と水俣湾のアサリから塩化メチル水銀を抽出と論文で発表。 1963年2月16日、熊本大学研究班の報告会で「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表した。同年2月20日、熊本大学研究班は入鹿山の研究結果を公式に発表した。 1964年1月、白木博次東京大学医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表、これが1968年9月の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった。
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