原因物質の特定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 08:56 UTC 版)
原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。しかも有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった[要出典]。 しかし翌1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類、患者の体内から水銀が検出されたことによる。 同年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内猫実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(この時点ではメチル水銀の抽出までには至っていない)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。 1962年8月11日、当時は東京大学工学部大学院生であった宇井純は、写真家の桑原史成とともに水俣工場附属病院の医師小嶋照和を訪ねた際、猫の実験に関するノートを発見。桑原は小嶋が中座した隙に接写レンズでノートを撮影。1963年3月、宇井は、現代技術史研究会『技術史研究』に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで「水俣病」の連載を開始。連載は1967年8月の第38号まで13回にわたり、水俣病とチッソの関係が多くの論文、データのとともに明かされた。 公式見解としてメチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そしてそれに対する再反論作成の必要に迫られるなどして、原因特定の遅れを招くことになったためである[要出典]。 なお当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に「有機水銀」と表記されていることがある。
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