水俣病に出会うまで
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東京都新宿区出身。大日本帝国陸軍少将の小嶋時久は祖父。「純」の名前は6月(June)生まれに由来する。2歳の時、父が茨城県の女学校に就職したため東京を離れ、以後、父の転勤に従って引っ越しを繰り返した。すでに、この2歳ごろから新聞を読み、神童といわれた。太平洋戦争中、両親の郷里である栃木県壬生町へ疎開し、敗戦後はそこで開拓団生活を送った。栃木県立栃木高等学校卒業。 1956年3月、東京大学工学部応用化学科卒業。同年、日本ゼオンに就職。同社勤務時代、高岡工場の塩化ビニールの製造工程で使用した水銀を夜中に川に流す経験をする。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班が「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」と発表。この発表に強い衝撃を受ける。同年、日本ゼオンを退職。 1960年3月30日、新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場を訪問。事件解明を決意。同年4月、東京大学大学院応用化学専攻修士課程に入学。 1962年8月11日、宇井は、アマチュアの写真家の桑原史成を誘い、水俣工場附属病院の医師小嶋照和に取材。小嶋が中座した際に書類を接写レンズで桑原に撮影させた。それは「ネコ400号」実験の結果に基づき、酢酸工程の水銀廃液を濃度別に多数のネコに与え、水俣病になるまでの日数の違いまでも確認した追試の記録だった。 1963年3月、現代技術史研究会の『技術史研究』に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで「水俣病」の連載を開始。連載は1967年8月の第38号まで13回にわたった。 1964年3月1日、宇井と桑原は、郷里の愛媛県大洲市に引退した水俣工場附属病院長の細川一を訪問。チッソに奉職してきた細川を困らせる気は二人にはなかった。宇井は言った。「私たちが実験データを一方的に述べますから、細川先生は黙ったままで結構です。私たちが間違っていたら『違う』とだけ言ってくださいませんか」。 二人を自宅に泊めた細川が「ネコ400号」の実験を口にしたのは翌朝だった。追試実験が終わった時点より2年も前に会社が発病を知っていたことが明かされた。 同年11月、合成化学産業労働組合の機関誌『月刊合化』に富田八郎のペンネームで「水俣病」の連載を開始。この記事も13回にわたった。
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