水俣病との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 01:26 UTC 版)
1965年、30分テレビ番組の水俣病特集の為に訪れた水俣病患者多発地区の水俣市湯堂で患者家族から言われた「なして(フィルムに)撮るか」「撮ったって少しも体が良くならんばい、この子は。人を見せ物にして」という言葉が「茫然自失」となるほど深く突き刺さったという。その言葉は今まで撮り逃げしていたのではないかと自問し、魂の入った作品を制作することを決意させることとなる。その後、本格的に水俣に入り、家を借り現地の人々と生活を共にしながら撮影を行い、1971年「水俣 - 患者さんとその世界」を発表した。その後も水俣病やそれに関する作品を制作し続け、患者支援運動の関係者から「空気のようなカメラ。それが患者家族の外に向かって重く閉ざした扉の1つを開けた」と評された。 患者の遺影収集にも取り組んでいた。1996年に開催した「水俣・東京展」では、不知火海沿岸にある患者の遺族を一軒一軒尋ねて、約500人の遺影を集めた。 2021年9月23日、ユージン・スミスを題材にした映画『MINAMATA-ミナマタ-』が日本で全国公開。これにあわせて、土本の『水俣 - 患者さんとその世界』と『水俣一揆 - 一生を問う人々』が同月から全国6つの劇場で特別上映された。
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