高裁(控訴審)判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:00 UTC 版)
控訴審第1回公判は1996年(平成8年)9月26日に開始され、1998年(平成10年)12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された。 控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は当時の「日記」の現物は提出されなかった。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したものと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった。そちらについては、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された。 東は、日記は懐中メモ等を後の1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)3月までに「正確に記録したもの」であると反論した 。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した 。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた。 原告側は東と同じ第三中隊の中沢の従軍日記を証拠に、同部隊は当日本件残虐事件の起こった場所にいなかったと主張した。板倉由明は、この中沢日記を訴訟を決断する決め手となった画期的な新証拠と評価し、雑誌等で喧伝していたが、東側は不審な点を挙げてその日記は偽造されたものと反論した。東側の追及に対し、原告側は中沢日記の抄録については説明が出来なくなり、他の者が書いたものだと認めた。また、裁判外のこととなるが、東側支援者の一人が中沢本人にビデオ記録をとりながらインタビューしたところ、おおもとである筈の中沢日記も、裁判前のそれに至るまでの間に、原告側関係者と貸し借りする内になくなったと語り、さらに抄録の内容は自身の日記よりもむしろ詳しく記載され、自身の知らないことも載っていると語ったという。裁判において原告は、アリバイ供述として事件の日とされる日には下関で掃討作戦に携わっていたとの主張を、反対尋問で掃討作戦をいつしていたか記憶がないと変え、南京城入城時、城内では死骸は見ていない(板倉の南京虐殺はなかったとの論拠にもなっていた)と述べていたが、反対尋問を受けて死体を見たことを認め、問題の東史郎の著書を読んだこともない事を認めたという。 なお、高裁は、出版目的については事実であれば公共性・公益目的性があると引き続き認定、当事者双方は「南京事件の真否を問題としてもいるが、 この点を判断することによって本件事件の真否が判明するものでないことは(略)明らかであるから、(略)判断しない」とした。
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