革新政党による公害対策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 12:05 UTC 版)
「四日市ぜんそく」の記事における「革新政党による公害対策」の解説
四日市市議会で日本社会党や日本共産党を支持する革新系四日市市議会議員が「平田佐矩市長は、ロングビーチ(姉妹都市提携)へばかり行ってないで、公害患者救済に本腰を入れろ」と追及した。日本社会党や日本共産党など革新勢力が自由民主党政権の保守勢力による高度経済成長が公害を招いたと公害問題に取り組み、また塩浜地区出身の前川辰男市議が四日市公害の問題に熱心に取り組んだ。前川辰男議員の四日市市議会での、公害に苦しむ塩浜地区民の思いを込めた演説は、公害対策や環境問題に取り組む名演説として感動を呼び、四日市市議会の議場から拍手が鳴り響いた。塩浜地区以外の四日市市議会議員は当初他人事のように思っていた。公害が他の地区の拡大したことで四日市市議会でも公害の重要さが他地区の市議の間でも問題視された。 「このままでは、四日市コンビナートの企業と九鬼喜久男を中心とする四日市市に殺される。どうせ死ぬなら、裁判で訴えよう」の患者の思いから、塩浜地区出身で日本社会党所属の前川辰男市議は、知り合いの野呂汎弁護士と相談した結果、四日市コンビナート企業と直接関係がなかった塩浜地区の患者と、悪質で公害の加害者であると立証できる企業に絞って四日市公害訴訟を津地方裁判所に提訴した。原告全員が揃ったのは、記念撮影をした場面の1回であり、病気による欠席が頻繁にあったことや、原告の78歳の男性や、38歳の主婦が病死したことで2度と全員が揃わなかった。日本社会党は革新政党として公害問題に取り組み「四日市ぜんそくを解決した社会党」と革新政党としての実績を宣伝して、支持者の獲得活動をした。1972年7月の第一次訴訟の勝訴判決後に沢井余志郎の呼びかけで、磯津地区の公害患者による第二次訴訟が準備されたが、四日市コンビナート企業と公害患者との和解による方法で解決した。 原告患者で裁判中に38歳で病死した原告の主婦には娘(長女)がいた。しかし、母親の死亡で高校1年生の1学期に中退をして高校進学するが困難となっていた。母親の公害病死後に経済的に貧困家庭となり、やむを得ず家事手伝い(主婦かわり)となっていた。その事情を知った日本社会党に所属していた塩浜地区出身の(四日市市議会議員)の福田香史や日本社会党所属の女性団体が、四日市市の日本社会党に支援活動を呼びかけて奨学金として高校進学が可能となり、感動物語として新聞記事となった。1972年9月1日には、福田香史市議(日本社会党)と秋葉三菱油化総務部長に付き添われて高校復学の手続きをとった。学習資金は三菱油化、家政婦の給与の補填は三菱化成が援助をした。本人の意思に関らずの善行であった。 以上は 前川辰男 1981,前川辰男 1988
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