革新的な振付
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「バスビー・バークレー」の記事における「革新的な振付」の解説
バークレーの振付曲の定番は、舞台の領域内で始まるが、すぐに撮影におさまる範囲でその領域を出て、拍手をする観客が映りカーテンが降りる。通常は4台のカメラを使用するが、バークレーは自身のビジョンをコントロールするため1台のカメラで成し遂げるため、監督はそれを編集することができなかった。振付師としてバークレーはミュージカル曲の演出を独立して進めることに同意されており、映画の筋書きから大幅にずれることも多かった。バークレーは映画の他のシーンをほとんど見ていなかった。バークレーが振り付けた曲は多くがアップビートで、要旨に反して美しさに焦点を当てたものであり、そのコストは1分間で1万ドル前後となり、映画の予算を越えることもあった。ほぼ唯一の例外は『ゴールド・ディガース』の戦争にまつわる切ない楽曲『Remember My Forgotten Man』で、世界恐慌のさなか、第一次世界大戦退役軍人への不当な扱いに抗議の意を込められた。 バークレーはワーナー・ブラザースの5作品、『四十二番街』、『フットライト・パレード』、『ゴールド・ディガース』、『泥酔夢』、『流行の王様』およびドロレス・デル・リオの『カリアンテ』、『ワンダー・バー』を掛け持ち、バークレーの人気は不況でエンタメに飢えていた人々から支えられていた。バークレーは常に演出に深い意味はないとし、自身の目標は常にトップでいることであり、過去の作品は再演しないと主張していた。 バークレーの壮大な演出は次第に流行遅れとなり、ストレートの監督も行なった。この結果、1939年の『ゼイ・メイド・ミー・ア・クリミナル』はジョン・ガーフィールドの最高ヒット映画の1つとなった。この作品はバークレーにとって唯一のミュージカルでない監督映画となった。バークレーはジュディ・ガーランドなどメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのスターたちと不仲であることで知られる。1943年、ガーランドとの不仲により『ガール・クレイジー』を解雇となった。ただし収録済みであった楽曲『アイ・ガット・リズム』はそのまま作品に残った。 1943年、20世紀フォックスの『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』でカルメン・ミランダの楽曲『Lady in the Tutti-Frutti Hat』の振付を行なった。興行的に成功したが、バークレーとフォックス上層部は製作費の問題で合意できなかった。1940年代後期、バークレーはMGMに戻り、テクニカラー時代の終盤でエスター・ウィリアムズの作品など多くの傑作を製作した。バークレーのコレオグラファーとしての最後の作品は1962年、MGMの『ジャンボ (映画)(英語版)』となった。
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