バスビー・バークレー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/31 15:48 UTC 版)
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Busby Berkeley バスビー・バークレー |
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1935年頃のバスビー・バークレー
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本名 | ウィリアム・バークレイ・イーノズ (William Berkeley Enos) |
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別名義 | バズ (Buzz) | ||||||||||
生年月日 | 1895年11月29日 | ||||||||||
没年月日 | 1976年3月14日(80歳没) | ||||||||||
出生地 | ![]() |
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死没地 | ![]() |
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国籍 | ![]() |
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職業 | コレオグラファー、映画監督 | ||||||||||
ジャンル | 舞台、映画 | ||||||||||
活動期間 | 1927年 - 1971年 | ||||||||||
活動内容 | 1900年 5歳で初舞台 1925年 ブロードウェイで舞踊監督 1930年 映画界に進出 1933年 監督デビュー |
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配偶者 | エスター・ミューア 1929年 - 1931年 マーナ・ケネディ 1934年 - 1936年 クレア・ジェイムズ 離婚 マイラ・ステッフェンズ 離婚 マーグ・ペンバートン 1945年 - 1945年 エッタ・ダン 1958年 - 1976年 |
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主な作品 | |||||||||||
コレオグラファー 『四十二番街』 『フットライト・パレード』 『踊る三十七年』 監督 『ゴールド・ディガース36年』 『私を野球につれてって』 |
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バスビー・バークレー(Busby Berkeley、1895年11月29日 - 1976年3月14日[1])は、アメリカ合衆国のミュージカル・コレオグラファー、映画監督である。
幾何学模様の複合的なパターンの複雑なミュージカル演出を考案した。大勢のショーガールを多用し、映像の中で万華鏡のようなファンタジックな世界を作り出した。
人物・来歴
1895年(明治28年)11月29日、アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。
1900年(明治33年)、演劇一家の家族の劇団で、5歳で初舞台を踏む。第一次世界大戦では、野戦砲隊の中尉として従軍した。1920年代にはブロードウェイで舞踊監督として20本以上の舞台で活躍し、1925年(大正14年)には『ホルカ・ポルカ』のコレオグラファーとしてクレジットされている。
1930年(昭和5年)、映画界に進出、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオで製作されたソーントン・フリーランド監督のミュージカル・コメディ映画『ウーピー』の舞踊演出をする。1933年(昭和8年)には、ジョージ・エイミーとの共同監督作『シー・ハド・トゥ・セイ・イエス』で映画監督としてデビューした。1936年(昭和11年)から3年連続で、アカデミー賞のダンス監督賞を受賞している。
1954年(昭和29年)のマーヴィン・ルロイ監督の『ローズ・マリー』を振付演出した以降は、ブロードウェイに戻り、もともとの舞台の演出に腕を振るった。映画界での最後の仕事は、1962年(昭和37年)、チャールズ・ウォルターズ監督の『ジャンボ』であった。
1976年(昭和51年)3月14日、カリフォルニア州パームスプリングスで死去した。満80歳没。
生い立ち
1895年11月29日、アメリカ合衆国、カリフォルニア州ロサンゼルスにて父フランシス・イーノズと母で舞台女優のガートルード・バークレー(1864年 - 1946年)のもとに生まれた。バークレーが8歳の時に父が亡くなった。フランシスが運営する劇団ティム・フローリーズ・ストックにガートルードの友人たちが所属しており、うち2人にちなんで名付けられた。女優エイミー・バズビーから「バズ」、「バズビー」の呼び名を得て[2][3]、シャーロック・ホームズ役を演じた俳優ウィリアム・ジレットから「ウィリアム」を得て「バズビー・バークレー・ウィリアム・イーノズ」[4]、また一説によると「バズビー」をニックネームに「バークレー・ウィリアム・イーノズ」と名付けられた[2][5]。出生証明書の幼名欄は空白であった[4]。
バークレーがまだ子供の頃、ガートルードは舞台だけでなくサイレント映画でも母親役を演じていた。バークレーは5歳の頃に舞台デビューした。1917年、バークレーはマサチューセッツ州アソルに住み、広報営業の職に就いていた[6]。第一次世界大戦中、バークレーは野戦砲隊中尉となり、1,200名の兵士の複雑な訓練を指揮した[7]。
キャリア
初期
1920年代、バークレーはヒット作『A Connecticut Yankee』など20作前後のブロードウェイ・ミュージカルのダンス演出を行っていた。振付師として、バークレーはコーラスガールたちのダンスのスキルはあまり問題にせず、力量に合わせて魅力的な幾何学模様のフォームを形作った。バークレーの振り付けた楽曲はブロードウェイにおいて最大かつ最も訓練されたものであった[8][9]。
初期の映画作品ではサミュエル・ゴールドウィンによるエディ・カンターのミュージカルにおいて、コーラスガール個々の顔に次々とクローズアップする「parade of faces」、舞台中あるいは舞台外にもダンサーを動かし万華鏡のようなパターンを形作るなどの技術を向上していった[10] 。バークレーの万華鏡のような演出を頭上から撮影する技術は、カンターの出演作や、1932年のユニバーサル・ピクチャーズのドラマ映画『夜の世界』の楽曲『Who's Your Little Who-Zis?』でみられるように独創的で影響力のあるものであった。
革新的な振付
バークレーの振付曲の定番は、舞台の領域内で始まるが、すぐに撮影におさまる範囲でその領域を出て、拍手をする観客が映りカーテンが降りる。通常は4台のカメラを使用するが、バークレーは自身のビジョンをコントロールするため1台のカメラで成し遂げるため、監督はそれを編集することができなかった[11]。振付師としてバークレーはミュージカル曲の演出を独立して進めることに同意されており、映画の筋書きから大幅にずれることも多かった。バークレーは映画の他のシーンをほとんど見ていなかった[11]。バークレーが振り付けた曲は多くがアップビートで、要旨に反して美しさに焦点を当てたものであり、そのコストは1分間で1万ドル前後となり、映画の予算を越えることもあった[11]。ほぼ唯一の例外は『ゴールド・ディガース』の戦争にまつわる切ない楽曲『Remember My Forgotten Man』で、世界恐慌のさなか、第一次世界大戦退役軍人への不当な扱いに抗議の意を込められた。
バークレーはワーナー・ブラザースの5作品、『四十二番街』、『フットライト・パレード』、『ゴールド・ディガース』、『泥酔夢』、『流行の王様』およびドロレス・デル・リオの『カリアンテ』、『ワンダー・バー』を掛け持ち、バークレーの人気は不況でエンタメに飢えていた人々から支えられていた。バークレーは常に演出に深い意味はないとし、自身の目標は常にトップでいることであり、過去の作品は再演しないと主張していた。
バークレーの壮大な演出は次第に流行遅れとなり、ストレートの監督も行なった。この結果、1939年の『ゼイ・メイド・ミー・ア・クリミナル』はジョン・ガーフィールドの最高ヒット映画の1つとなった。この作品はバークレーにとって唯一のミュージカルでない監督映画となった[12]。バークレーはジュディ・ガーランドなどメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのスターたちと不仲であることで知られる。1943年、ガーランドとの不仲により『ガール・クレイジー』を解雇となった。ただし収録済みであった楽曲『アイ・ガット・リズム』はそのまま作品に残った[13]。
1943年、20世紀フォックスの『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』でカルメン・ミランダの楽曲『Lady in the Tutti-Frutti Hat』の振付を行なった。興行的に成功したが、バークレーとフォックス上層部は製作費の問題で合意できなかった[9]。1940年代後期、バークレーはMGMに戻り、テクニカラー時代の終盤でエスター・ウィリアムズの作品など多くの傑作を製作した。バークレーのコレオグラファーとしての最後の作品は1962年、MGMの『ジャンボ (映画)』となった。
後年
1960年代後期、キャンプの流行により、バークレーのミュージカルは再び脚光を浴び、各地の大学で講義を行なった。「Gold Diggers of 1933」をもじった「"Cold Diggers of 1969"」として風邪薬であるコンタック・カプセルの1930年代風コマーシャルの監督を行ない、時計の針に見立てたダンサーたちを頭上から撮影した[14]。75歳となったバークレーはブロードウェイに復帰し、『ノー・ノー・ナネット』再演の演出をし、ワーナー時代の同僚で『四十二番街』のスターであるルビー・キーラーが主演しヒットした。1970年、バークレーとキーラーは映画『The Phynx』にカメオ出演した。
私生活
バークレーは6回結婚した[15]。その中には女優マーナ・ケネディ、エスター・ミューア、エッタ・ダンがいる。1938年、愛情のもつれによりキャロル・ランディスに関わる訴訟を起こされた。ロレイン・スタインとは婚約はしたが結婚にはいたらなかった[16]。
バークレーは飲酒を好み、しばしば風呂に浸かりながらマティーニを飲んでいた。母親が亡くなると仕事に身が入らなくなり、自殺未遂を企て、1946年7月、睡眠薬を過剰摂取し手首を切った[17]。長期入院し、精神状態に大きな影響が出た[18]。
1935年9月、バークレーは交通事故を起こし、5人が怪我をし、2人が亡くなった[19]。バークレーは負傷し、法廷に向かう際ストレッチャーに載せられた[20]。『タイム』誌によると、以下の証言によりバークレーは表情を曇らせた。「目撃者は、ある夜ロサンゼルス郡のルーズベルト・ハイウェイで運転者のバークレーが速度を落とし、車線を変えた時に1台の車に衝突し、他の車に横から衝突した。他の目撃者はバークレーから酒の匂いがしたと語った[19]」。
最初の2回の裁判では求刑第二級殺人であったが評決不能陪審で終了し、3回目の裁判で罪を逃れた。
1976年3月14日、80歳でカリフォルニア州パームスプリングスで自然死した[21]。カリフォルニア州カセドラルにあるデザート・メモリアル・パークに埋葬された[1][22]。
レガシー
1988年、全米ダンス殿堂博物館に殿堂入りした。
ブロードウェイ
- 『コネチカット・ヤンキー』 A Connecticut Yankee(1927年)(コレオグラファー)
- 『フーピー』 Whoopee!(1928年)(コレオグラファー)
- 『ノー・ノー・ナネット』 No, No, Nanette(1971年)(production supervisor)
フィルモグラフィ
- 『ウーピー』 Whoopee! : 監督ソーントン・フリーランド、1930年 - コレオグラファー
- 『お転婆キキ』 Kiki : 監督サム・テイラー、1931年 - コレオグラファー
- 『突貫勘太』 Palmy Days : 監督エドワード・サザーランド、1931年 - コレオグラファー
- 『青空狂騒曲』 Flying High : 監督チャールズ・F・ライズナー、1931年 - コレオグラファー
- 『カンターの闘牛師』 The Kid from Spain : 監督レオ・マッケレー、1932年 - コレオグラファー
- 『天国爆撃隊』 Sky Devils : 監督エドワード・サザーランド、1932年 - コレオグラファー
- 『夜の世界』Night World : 監督ホバート・ヘンリー、1932年 - コレオグラファー
- 『南海の劫火』 Bird of Paradise : 監督キング・ヴィダー、1932年 - コレオグラファー、ネイティブ・ダンス
- 『シー・ハド・トゥ・セイ・イエス』 She Had to Say Yes : 共同監督ジョージ・エイミー、1933年 - 監督デビュー
- 『四十二番街』 42nd Street : 監督ロイド・ベーコン、1933年 - コレオグラファー
- 『ゴールド・ディガース』 Gold Diggers of 1933 : 監督マーヴィン・ルロイ、1933年 - コレオグラファー
- 『フットライト・パレード』 Footlight Parade : 監督ロイド・ベーコン、1933年 - コレオグラファー
- 『ローマ太平記』 Roman Scandals : 監督フランク・タトル、1933年 - コレオグラファー
- 『流行の王様』 Fashions of 1934 : 監督ウィリアム・ディターレ、1934年 - 監督、コレオグラファー
- 『ワンダー・バー』 Wonder Bar : 監督ロイド・ベーコン、1934年 - コレオグラファー
- 『ブラウンの千両役者』 Bright Lights : 1935年 - 監督
- 『泥酔夢』 Dames : 監督レイ・エンライト、1934年 - 監督、コレオグラファー
- 『ゴールド・ディガース36年』 Gold Diggers of 1935 : 1935年 - 監督・コレオグラファー
- 『カリアンテ』 In Caliente : 監督ロイド・ベーコン、1935年 - 監督、コレオグラファー
- 『アイ・リブ・フォー・ラブ』I Live for Love : 1935年 - 監督
- 『踊る三十七年』 Gold Diggers of 1937 : 監督ロイド・ベーコン、1936年 - 監督、コレオグラファー
- 『ステージ・ストラック』Stage Struck : 1936年 - 監督
- 『就職戦術』 The Go Getter : 1937年 - 監督
- 『唄う陸戦隊』 The Singing Marine : 監督レイ・エンライト、1937年 - 監督、コレオグラファー
- 『映都万華曲』(『聖林ホテル』) Hollywood Hotel : 1937年 - 監督
- 『大学祭り』 Varsity Show : 共同監督ウィリアム・ケイリー、1937年 - フィナーレの監督
- 『夜は巴里で』 Gold Diggers in Paris : 監督レイ・エンライト、1938年 - 監督、コレオグラファー
- 『メン・アー・サッチ・フールズ』 Men Are Such Fools : 1938年 - 監督
- 『コメット・オーバー・ブロードウェイ』 Comet Over Broadway : 1938年 - 監督(ジョン・ファローが後継)
- 『ゼイ・メイド・ミー・ア・クリミナル』They Made Me a Criminal : 1939年 - 監督
- 『ファスト・アンド・フューリアス』 Fast and Furious : 1939年 - 監督
- 『ブロードウェイ・セレナーデ』 Broadway Serenade : 1939年、フィナーレの監督
- 『青春一座』 Babes in Arms : 1939年 - 監督
- 『ストライク・アップ・ザ・バンド』 Strike Up the Band : 1940年 - 監督
- 『フォーティ・リトル・マザーズ』Forty Little Mothers : 1940年 - 監督
- 『美人劇場』 Ziegfeld Girl : 1941年 - ミュージカル監督
- 『ブロードウェイ』 Babes on Broadway : 1941年 - 監督
- 『レディ・ビー・グッド』 Lady Be Good : 1941年 - ミュージカル監督
- 『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』 For Me and My Gal : 1942年 - 監督
- 『キャビン・イン・ザ・スカイ』 Cabin in the Sky : 1943年 - "Shine"シーケンスの監督
- 『ガール・クレイジー』 Girl Crazy : 1943年 - フィナーレ「アイ・ガット・リズム」監督
- 『バズビー・バークリーの集まれ!仲間たち』 The Gang's All Here : 1943年 - 監督
- 『婿探し千万弗』 Cinderella Jones : 1946年 - 監督
- 『洋上のロマンス』 Romance on the High Seas : 1948年 - コレオグラファー
- 『私を野球につれてって』 Take Me Out to the Ball Game : 1949年 - 監督
- 『アニーよ銃をとれ』 Annie Get Your Gun : 1950年 - 監督(クレジット無し)
- 『トゥ・ウィークス・ウイズ・ラブ』 Two Weeks with Love : 1950年 - コレオグラファー
- 『コール・ミー・ミスター』 Call Me Mister : 1951年 - コレオグラファー
- 『ブロードウェイへの2枚の切符』 Two Tickets to Broadway : 1951年 - コレオグラファー
- 『百万弗の人魚』 Million Dollar Mermaid : 監督マーヴィン・ルロイ、1952年 - コレオグラファー
- 『スモール・タウン・ガール』 Small Town Girl : 1953年 - コレオグラファー
- 『イージー・トゥ・ラブ』 Easy to Love : 1953年 - コレオグラファー
- 『ローズ・マリー』 Rose Marie : 監督マーヴィン・ルロイ、1954年 - コレオグラファー
- 『ジャンボ』 Billy Rose's Jumbo : 監督チャールズ・ウォルターズ、1962年 - コレオグラファー
関連項目
脚注
- ^ a b Palm Springs Cemetery District, "Interments of Interest"
- ^ a b Joseph F. Clarke (1977). Pseudonyms. BCA. p. 112
- ^ Amy Busby portrait gallery; New York Public Library Retrieved April 28, 2015
- ^ a b Spivak, Jeffrey, Buzz, The Life and Art of Busby Berkeley (University Press of Kentucky, 2010), pp. 6–7.
- ^ “Busby Berkeley – Hollywood's Golden Age”. 2021年12月12日閲覧。
- ^ U.S., World War I Draft Registration Cards, 1917–1918 for Busby Berkeley Enos
- ^ Spivak, Jeffrey (2010-11-29) (英語). Buzz: The Life and Art of Busby Berkeley. University Press of Kentucky. ISBN 978-0-8131-4008-7
- ^ Spivak, Jeffrey (2011). Buzz : the life and art of Busby Berkeley. Lexington: University Press of Kentucky. ISBN 9780813126449. OCLC 703155214
- ^ a b Rubin, Martin (1993). Showstoppers : Busby Berkeley and the tradition of spectacle. New York: Columbia University Press. ISBN 0231080549. OCLC 26930276
- ^ Mackrell, Judith (2017年3月23日). “A kaleidoscope of legs: Busby Berkeley's flamboyant dance fantasies” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077 2018年12月10日閲覧。
- ^ a b c Turan, Kenneth (2008年8月1日). “Busby Berkeley's dance numbers are still eye-popping” (英語). Los Angeles Times. ISSN 0458-3035 2018年12月10日閲覧。
- ^ McGrath, Patrick J. (2006-08-23) (英語). John Garfield: The Illustrated Career in Films and on Stage. McFarland. ISBN 978-0-7864-2848-9
- ^ Hugh Fordin, The World of Entertainment: The Freed Unit at MGM, 1975
- ^ Kenneth., Roman (2009). The king of Madison Avenue : David Ogilvy and the making of modern advertising (1st ed.). New York: Palgrave Macmillan. ISBN 9781403978950. OCLC 256763859
- ^ Hanley, Robert (1976). "Busby Berkeley, the Dance Director, Dies", in the New York Times, March 15, 1976, p. 33
- ^ Fleming, E.J. (2005). Carole Landis: A Tragic Life in Hollywood. Jefferson, N.C.: McFarland and Co. ISBN 978-0-7864-2200-5, p. 49
- ^ “1583 Alvito Way 18Jul1946 Busby Berkeley Suicide Attempt p1”. Los Angeles Times: pp. 2. (1946年7月18日) 2020年2月25日閲覧。
- ^ Spivak, Jeffrey, Buzz, The Life and Art of Busby Berkeley (University Press of Kentucky, 2010), p. 221.
- ^ a b People, Sep. 30, 1935, from Time magazine
- ^ Choreographer and film director Busby Berkeley being carried into his manslaughter trial on a stretcher, a Los Angeles Times photo from the website of the UCLA Charles E. Young Research Library
- ^ Johns, Howard, (2004). Palm Springs Confidential: Playground of the Stars. Fort Lee, New Jersey: Barricade Books. ISBN 1-56980-297-1
- ^ Brooks, Patricia; Brooks, Jonathan (2006). “Chapter 8: East L.A. and the Desert”. Laid to Rest in California: a guide to the cemeteries and grave sites of the rich and famous. Guilford, CT: Globe Pequot Press. pp. 240–2. ISBN 978-0-7627-4101-4. OCLC 70284362
外部リンク
- バスビー・バークレイ - allcinema
- バスビー・バークレー - KINENOTE
- バスビー・バークレー - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)
- バスビー・バークレー - IMDb(英語)
- バスビー・バークレー - TCM Movie Database(英語)
- バスビー・バークレー - オールムービー(英語)
-
"バスビー・バークレー". Find a Grave. 1 January 2001. 2011年6月29日閲覧。
- Hooray for Hollywood: Busby Berkeley
- Busby Berkeley at Classic Movie Favorites Tribute site: galleries, bio, filmography and more.
- Contac capsule cold commercial "Cold Diggers of 1969".
- Busby Berkeley Collection includes mainly correspondence between Busby Berkeley and Gen Genovese, held by the Jerome Lawrence and Robert E. Lee Theatre Research Institute, The Ohio State University Libraries.
固有名詞の分類
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