女性の名字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:03 UTC 版)
戸籍が作られなくなった中世からは、居住地を取って「稲毛女房」などという呼称が見られるようになる。これを名字+仮名 (通称)とみるときは、夫婦別姓だが夫婦同名字だということになる。 また当時の文書の比較検討から、鎌倉時代には「藤原氏女」のように実家の姓(本姓)を名乗る人名表記が依然主流だったが、南北朝時代には衰退し、個人名のみを名乗るか、既婚女性は「~後家」のようにもっぱら妻としての名称を名乗ることが一般化していったことが明らかにされている(細川涼一)。摂関家でも正室は婚家の主要な一員と認識され、婚家の名字+妻の社会的地位で呼ばれるようになり(例:九条尚経の娘、二条尹房正室経子=二条北政所、伏見宮貞敦親王の娘、二条晴良正室位子女王=二条北政所など)、夫婦同名字だったと主張されている(後藤みち子)。 しかし、女房、妻、後家などをその人自身の名前の要素と認めない立場も主張されている。もっとも、仮名(けみょう)は本来固有名詞ではなく続柄を表すもので、「太郎」は長男、「大姫」は長女、「小太郎」は太郎の長男の字義である。 それらの呼称によらずに婚家の名字を名乗った室町時代の妻の例として、1471年(文明3年)の丹波国山国荘に残された資料によると、井戸村の江口家が菩提寺に「江口沙弥道仙禅門、同妙珠禅尼夫婦」と記したケース、1528年(大永8年)、同荘枝郷の下黒田村の坊家において、坊姫・坊又二郎の夫婦が娘に田地を与える譲り状に署名したケース、1545年(天文14年)同村の鶴野兵衛二郎が井本家に嫁いだ姉の「井本さいま」に山林を譲ったケースが確認され、少なくとも同地では夫婦同名字が一般的だったことが論証されている。 また江戸時代の例として野村望東尼、梁川紅蘭、勾田香夢、只野真葛など。もっとも、本人の意識しだいでどちらを名乗っても良かったので、竹村多勢子のように婚姻後も実家の名字を署名した例がある。どちらが主流だったかは学説上争われているが、名字+実名の例が少な過ぎるため決め手を欠いている。竹村多勢子についても、それが掲載されている『平田先生門人姓名録』では、生家の名で登録されている既婚女性が多勢子含め5名であるのに対し、婚家の名で登録されているのは10名であるため、不適切な例証だとの批判がある。 中世が夫婦同名字だったとすると、なぜ近世に別名字の事例も登場したか問題となるが、源平藤橘などの姓(本姓)が廃れる中で、家名としての名字が父系血統の標識たる姓の役目も吸収して同化したことへの表れではないかという説がある(大藤修)。このような考え方にも批判があり、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを得るという」(貝原益軒『女大学宝箱』)とされるように、当時の社会通念上、正室にとっての家は婚家であり(側室や妾は妻の範疇に入らない)、婚家の墓に埋葬されるのが主流だったことや、宗門人別帳も夫婦同宗とされたことを無視しているとの批判がある。もっとも、父子継承原理説の立場からも、近世後期には婚家への帰属意識から妻が夫の名字を称する女性も現れていたことは否定されない。
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