女性の地位と刀自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
日本の律令制は唐律令を手本にしているが異なる部分もあり、男女の扱いについては日本の方が性差が小さかったと言える。日本では女性にも男性の三分の二の田が班給され、賦課については女性が有利になっていたため、後に偽籍が増える一因となった。また女性が私有財を持つことも認められていた。女性を意味する表現に注目すると、唐律令では常に家族(男性)との関係(ヨメ、ムスメ、ツマ等)で表されるが、女性の権利として日本で追加された部分には家族関係に左右されない「女」の表現が見られ、女性を独立した人格とみなす日本の風習が取り入れられたと考えられる。 地方社会においては刀自(トジ)と呼ばれる女性指導者を中心に女性も村の政治に関わっていた。寺院には寺刀自がいて寺院の女性労働を率い、村々には里刀自と呼ばれる女性が里長(さとおさ)と共に村の運営にかかわっていた。村では春夏には祭祀が行われるが、神事は男女対になって行われた。神事が終了すると宴(直会)となるが、宴は同時に国家の方針などが告げられる村の政治の場であった。そこでも男女差なく年齢順で座った。 また一族を束ねる役割を果たしたのは家刀自と呼ばれる女性であった。金井沢碑は他田君目頬刀自とその夫を中心に女系で繋がる3世代の一族が祖先を供養した石碑である。他田君は地方豪族の氏名(ウジナ)と姓(カバネ)であり、刀自が一帯の指導者であった可能性がある。
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