境内と文化財とは? わかりやすく解説

境内と文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 03:29 UTC 版)

弥勒寺 (墨田区)」の記事における「境内と文化財」の解説

杉山和一杉山検校)墓:杉山和一伊勢生まれ鍼灸師として知られる江戸幕府5代将軍徳川綱吉鍼灸師として仕え、その病を治したことで綱吉信頼得た。和一は1694年元禄7年)に85歳没し墓所弥勒寺江の島の2か所に造られた。弥勒寺墓所1924年大正13年)に東京市史蹟指定され同年には東宮御成婚に際して一に正五位贈られた。墓の形はかつて笠塔婆であった戦火によって破損し1960年昭和35年)に五輪塔替えられた。のちに東京都指定旧跡となっている。1978年昭和53年4月、隣に鍼供養碑建立された。 戦災殉難慰霊観音尊像1967年昭和42年3月建立日展会員彫刻家片岡静観の作である。太平洋戦争による数多く殉難者の慰霊のために建てられ付近亡くなった3500遺骨納められている。 筆塚昭和期書家相沢春洋偲ぶ碑で、表面に「筆」の一字刻んでいる。相沢はかつて弥勒寺境内書道教えていた経緯があり、その縁で彼の命日にあたる毎年11月23日には「筆供養が行われている。

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浄因寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

門前本堂墓地など 浄因寺は緑豊かな寺院で、夏にはサルスベリ古木咲き秋に門前木々紅葉となって参拝者出迎える。本堂東西7間、南北7間で総造り屋根銅板葺の千鳥破風で、棟の両側据えられ鬼瓦には「五七の桐」が寺紋として使われている。 浄因寺墓地には、浅見清次郎(彫刻家)、内藤鋠策(歌人)、安達潮花安達瞳子親子華道安達家元)などの墓がある。その他に本堂東方参道の奥に小高い塚があり、旧福岡藩戊辰戦争戦没戦病死者旋忠碑が建立されている。碑の裏面には、藩士飛鳥安之丞他9名の名とその家臣たち9名(合計19名)の名が刻まれている。 境内地面積は628.41坪、墓地664.59坪、本堂5501坪、庫裏客殿97.25坪、寿光会館106.39坪を測る彫刻書画など 本堂には阿弥陀如来像木造聖観音菩薩立像聖徳太子像安置されている。脇壇にある阿弥陀如来像歴史の項で触れた妙福寺旧本尊で、江戸時代の作である。像高は55.9センチメートル台座高18.3センチメートル寄木造玉眼嵌入漆箔肉髻珠白毫それぞれ水晶製である。肉身部の金泥彩は後補によるもので、左手首及び両足先のはぎ寄せ緩んでいて接着剤での補修見られた。 木造聖観音菩薩立像聖徳太子像高村光雲の作で、それぞれ77歳83歳の折のものである。。木造聖観音菩薩立像1928年昭和3年)の作で像高23センチメートル台座6センチメートル一木造である。聖徳太子像像高54.5センチメートル台座15.3センチメートル一木造で髪を角髪結い上げ袈裟をかけた姿である。胸の前で柄香爐とっているが、香爐付け根部分第二次世界大戦中防空壕避難の際に折損したという。この聖徳太子像は、第13住職良雄発願によって造立された。 他の寺宝としては「歴史」の項で既に触れたとおり、江戸詰め福岡藩士菩提寺であった縁で黒田長成山号扁額寿光山」を揮毫している。長成は漢詩や書に優れた人物として知られていた。

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真龍寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

境内で目を惹くのは、歴史の項でも触れた大きな天狗の面である。この面は高さ3メートル、幅約2メートルあり、長い鼻は「商売繁盛」を、うちわは「平和」、そして高下駄何事にも負けず踏み越えていく「勇気」表していると伝えられている。この天狗道了尊化身でもあり、威徳神通力をもって厄災を除く利益があるという。「しもきた天狗まつり」のメインイベント天下一天狗道中では山車乗って行列とともに商店街練り歩いている。 真龍寺本尊は、歴史の項で述べた道了薩埵十一面観音)で、観音11ある顔貌1つ天狗すなわち道了の姿である。この天狗の姿をもって現世の苦を救う利益もたらすことから、人々信仰集めている。 境内はさほど面積広くなく、閑静な寺院である。「しもきた天狗まつり」に伴って開催されるイベント以外にも、毎年7月下旬にはここを会場として縁日大会開かれ賑わい見せる。1991年平成3年)に始まった下北沢音楽祭でも、かつては境内ステージイベント使用されるなどして人々親しまれていた。

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善養寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

丸子川にかかる赤い橋大日橋)を渡って石段上ると、一対の海駝(かいだ)の坐像出迎える。海駝は架空神獣火除けの神といい、世界で5つしかない珍しいものという。本堂奈良唐招提寺金堂模したもので、鴟尾一対載った瓦葺き寄棟造り屋根特徴である。 本堂前には、善養寺のカヤ呼ばれるカヤ大木生育している。このカヤには豪族の娘が助けた沢蟹親子恩返し伝説があり、そばには沢蟹、そして河童石像設置されている。その他に境内にはガネーシャ神、石羊、布袋像などがある。 本堂内には、本尊大日如来坐像の他、秘仏不動明王立像制多迦童子矜羯羅童子などが祀られている。古くはこの地の鎮守である六所神社神輿堂や閻魔堂境内存在していた。1998年平成10年)には、善養寺中興400年記念として梵鐘梵鐘堂が完成した

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専光寺 (世田谷区北烏山)」の記事における「境内と文化財」の解説

専光寺入り口付近に江戸時代浮世絵師である喜多川歌麿(秋圓了教信士)の墓への案内がある。歌麿の墓がこの寺にある理由は、専光寺浅草にあった頃に北川家の菩提寺であった縁といい、そのため「歌麿寺」の通称でも知られる歌麿の墓は4段の石が積み重なったのであるが、「北川」と刻され中段台石が本来の墓石である。歌麿の子孫は既に絶えているが専光寺はその墓を守り続け毎年9月20日命日には供養営んでいる。歌麿の墓は、1956年昭和31年3月3日東京都旧跡指定受けた専光寺は、歌麿自身の作品関連文化財所蔵している。そのうち喜多川歌麿像は、鳥文斎栄之1825年文政8年)に描いた肖像画大英博物館所蔵)を宮原柳僊がその写真をもとに模写した作品で、日本国内にはこの1枚だけが現存するその他に近現代後刷であるが「辻君図」、「高名寛政三美人図」などの作品所蔵する。なお、1980年昭和55年4月20日専光寺執り行われ歌麿追善会の際に世田谷区南烏山在住浮世絵刷師熊谷善一が、その実演を行った専光寺には実演参考資料として、工程見本残されている。 歌麿の墓の近くには、和唐紙創始者として知られる中川右衛門の墓もある。中川1771年明和8年山城国生まれで朝正亭義楽と号し1804年文化元年)頃に江戸下って神田住まい定めて紙の商い行っていた。彼は中国から輸入されていた唐紙をもとに、和唐紙を創り出した中川和唐紙の他にも「燃え」といわれた石油日本初め販売した人物である。1838年天保9年)に68歳没し専光寺葬られた。戒名は「仁誉慈雲義楽居士」という。なお、『刑事コロンボ』吹き替え知られる俳優小池朝雄専光寺墓地がある。小池の墓は、歌麿の墓からやや奥まったところに存在している。

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善養寺 (江戸川区)」の記事における「境内と文化財」の解説

江戸川堤防沿いに12000平方メートルという広大な敷地を持つ。境内目を引くのは、本堂前で四方八方伸ばし繁茂面積800平方メートルに及ぶ「影向のマツ」である。岡野マツとの「日本一マツ争い」が解決した後、春日野親方は「日本名番付横綱推挙状」のプレート贈呈したマツ根元には、このプレートと「影向の石」という石が置かれている。その昔善養寺忍び込んで不動明王像盗もうとした男がいた。その男が像を抱えて逃げようとしたとき、石に足が張りついたために動けなくなってしまった。翌朝になって男は捕まり、像も無事だった。男を捕えた石がこの影向の石であるといい、今でもの上に人の足型のような窪み見受けられる本堂弘化2年1845年再建で、間口26メートル奥行き22メートル木造葺の建物である。入り口左側の「びんずる尊者」像は、江戸時代から「善養寺なでぼとけ」として親しまれた。仁王門は、木造平屋建瓦葺朱塗とし、天保年間1741年-1744年)の建築である。昭和57年1982年)に解体復元修理行った左右にある仁王像制作年代作者不明だが、明治年間昭和仁王門解体修理時に修理されている。不動堂には、高さ1.2メートル不動明王像祀られている。この像は三国伝来毘首摩作といわれ、「小岩不動尊」として霊験あらたかとされる。 西の山門不動門前には高さ1.15メートル、幅33センチメートル厚さ21センチメートルの「天明3年浅間山噴火横死供養碑」が建っている。この供養碑は、浅間山噴火災害の凄まじさと往時の下小岩村人々温かい心情伝えるものとして、昭和48年1973年)に東京都指定有形文化財となった供養碑には、今でも香華手向ける人が絶えないという。 不動門右わきには、「和傘の碑」がある。かつて小岩和傘名産であった。この碑は昭和5年1930年)に和傘業界発展尽力した川野竹松功績称えて建立されたもので、高さ2.4メートル、幅1メートル厚さ17センチメートルに及ぶ大きな碑である。 江戸川区文化財 善養寺影向のマツ - 国指定天然記念物江戸川区登録天然記念物植物 天明三年浅間山噴火横死供養碑 - 東京都指定有形文化財金石文江戸川区登録有形文化財歴史資料 小岩不動逆井道向石造道標小岩不動市川石造道標 - 江戸川区登録有形文化財歴史資料

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:34 UTC 版)

森巌寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

1877年明治10年)の『浄土宗明細簿』という資料によれば檀家60戸、境内は5反8畝18歩とあり、当時本堂庫裏、施灸堂(淡島堂)、虚空蔵堂不動堂などを擁していた。2013年現在時点では、境内には本堂の他に淡島堂や不動堂閻魔堂弁財天墓地開山堂、そして淡島幼稚園などがある。本堂1964年昭和39年)に建立されたもので、本尊阿弥陀三尊像とともに秀康の位牌厨子納められている)を安置している。『新編武蔵風土記稿』は本尊阿弥陀如来像を「春日ノ作」と記述し、二菩薩像については「宇治平等院造作彫物ナリ」としている。 淡島堂は1836年天保7年再興時の姿を残す森巌寺最古建物で、灸と針供養名高い淡島堂は一見すると仏堂のように見えるが、拝殿幣殿本殿形成する神社形式成り立っていて、正式名は「北沢淡島明神社」という。不動堂閻魔堂は、堂の向かって左閻魔大王、右に不動明王祀っていて毎週日曜護摩祈祷執り行っている。弁財天は8本の手を持つ「一面八臂」の姿であり、頭上には体は頭部老人の「宇賀神」像を乗せている。この弁財天の姿については、農業神穀物神として民間信仰されていた宇賀神弁財天習合し形態推定されている。 本堂の裏手には、墓地開山堂がある。もともと森巌寺徳川家にゆかりの深い寺院だったため、境内正式な墓地存在していなかった。時の経過とともに増えてきた飛び墓地家墓などあちこち散在していた墓地を、以前住職本堂の裏一度移転して整備したのが森巌寺墓地始まりであった。この場所は盛り土をした富士塚があるなど傾斜した土地で、道路整備なども不十分だったことから、森巌寺開創400年記念事業として2003年平成15年)に境内の整備計画着手して富士塚切り崩すなどのさまざまな整備実施し2007年平成19年)に基本工事完了した新し墓地は、バリアフリー設計配慮したものとなっている。開山堂墓地整備計画伴って切り崩され富士塚跡地一部利用して建立され2008年平成20年秋に落成したのである淡島幼稚園1952年昭和27年)に開園した幼稚園の名称は、森巌寺付近淡島明神淡島の灸で有名だったため「淡島」と呼ばれていたことに由来する幼稚園前身となったのは、1925年大正14年)に開校された「森巌寺日曜学校であった。この学校昭和期入って継続していたが、太平洋戦争時期一時閉鎖余儀なくされていた。終戦後当時住職改め幼児教育必要性重視して幼稚園設立動き1952年昭和27年5月淡島幼稚園開園した境内には1対のイチョウ大木生育している。このイチョウ森巌寺開山当時からのものといわれ、樹齢400年あるいは600年以上と推定されている。1988年昭和63年)に発行された『世田谷名木百選』ではこのうちの1本について世田谷で一番幹廻りの太い木である」と記述した当時樹高20メートル、幹廻りは6.25メートル張り16メートルを測っていた。なお、森巌寺界隈は、世田谷区民による投票によって「淡島の灸の森巌寺」として1984年昭和59年)に「せたがや百景」に選定された 。

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福昌寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

歴史の節で既に述べたとおり、福昌寺にあった建物梵鐘・百体観世音など多く文化財1975年昭和50年)の火災焼失している。旧本堂にあった龍の彫刻は古い時期作られたものであったが、やはり火事焼失した福昌寺梵鐘は、1759年宝暦9年)に西村和泉守という人物作り檀家75軒の主婦寄贈したものであった形状は「朝鮮型」といわれ、音色良い梵鐘であった第2次世界大戦時金属供出によって手放すことになったが、その音色良さ当局使い続けていたために残り終戦後福昌寺戻ってきた。この梵鐘も、1975年昭和50年)の火災焼失している。 旧本堂の横には、閻魔堂存在していた。かつて旧本堂改築する際に、4尺ほどの棟札発見された。棟札には1755年宝暦5年11月建立の旨が記されていて、棟梁深沢柏木長右衛門経堂河野右衛門とあった。旧庫裏1765年明和2年秋の大風大破し1773年安永2年)に松原円吉という大工改築したと伝わる。 福昌寺に残る仏像のうち、薬師如来坐像寄木造江戸時代)、地蔵菩薩半跏像(寄木造江戸時代)、伝文殊菩薩坐像寄木造江戸時代)は、1978年昭和53年4月1日から1981年昭和56年3月31日までの世田谷区社寺調査及びその後3か年わたって実施され追加調査の対象となったそのうち地蔵菩薩半跏像は、1975年昭和50年)に起きた福昌寺火災の後、1976年昭和51年)に仏具屋から寄進されたものであるその他の文化財には、1660年万治3年)に建立され念仏供養塔がある。この供養塔多く村人喜捨によって作られたもので、総高118センチメートル測る墓地入口にはこの寺の開基であり、祖先でもある松原家を伝える碑がある。碑の正面及び左右側面には、松原家6人の戒名没年月日などが記されている。 福昌寺の隣には、かつて付属幼稚園があった。後に幼稚園建物改築されホールとなり、葬祭式場として使用されている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 23:20 UTC 版)

常徳院 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説

常徳院参道入り口には、「十一面観世音像」と刻まれ石碑建てられている。山門を入ると、右側鐘楼南向き本堂があり、本堂北東側には庫裏配する本堂屋根入母屋造鉄板瓦棒葺、間取り方丈系の八間取である。建立年代は、棟札墨書などの裏付けがないため不詳とされる1958年昭和33年)に改修行ったときは削ってやや細くしたのみで、間取り等は以前の状態を保っている。化政文化期(1804年から1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』の巻之四十八 荏原郡之十に、「十間ニ七間南向」という記述があって、現在の本堂とほぼ同じ規模であるため、少なくとも『新編武蔵風土記稿』が編纂された化政文化以前建立されたことが推定されている。なお、本堂内陣上にある木鼻などが世田谷区喜多見5丁目にある宝寿院江戸時代中期建立)のものと類似していることから、同時期の建立とも考えられている。 本堂天井部分には、花鳥描いた極彩色板絵施されていて、その数は143面に上る内訳本堂内陣44面、外陣99面である。内陣板絵はほとんど獣類画題としているが、全般に画調洗練欠いている上に雨漏り影響剥落が多い。外陣板絵花鳥のみを題材取り上げていて、内陣板絵比較して彩色などに端正さが見られる。 『世田谷区社寺史料 第三集 絵画・彫刻II目録編』では、すべての板絵作者同一推定している。内陣板絵のうち一面に、「緑峰」という款印があるが、この人物については未詳である。板絵制作年代については、画風などから見て江戸時代末期から明治時代にかけてとされている。 鐘楼屋根入母屋造鉄板瓦棒葺であり、建立年代は『新編武蔵風土記稿』などによって化政文化以前推定されている。鐘楼1958年昭和33年)に改修した際も、基壇の高さを上げて彩色補ったのみであった鐘楼使われる木鼻渦紋風化状況などからも、本堂とほぼ同時期の建立とみられている。 本尊十一面観音像は、『曹洞宗明細簿』によると木製坐像で丈は1尺8寸(約54.5センチメートル)という。この十一面観音像について、『新編武蔵風土記稿』の巻之四十八 荏原郡之十では、「相伝フ此本尊吉良氏朝ノ信仏ニシテ当寺寄附スト」との記述がある。ただし、『新編武蔵風土記稿』は続けて「按ニ下ニノスル古文書ノ趣ニヨルニ氏朝ノ寄附セシト云ハ疑フベシ」としている。さらに「此観音ハモトヨリココニタテタルヲ、元亀四年氏朝ノ田地寄附セシ状アルニヨリ、カク言伝フルナルベシ」として、中地山城守署名入った吉良氏印判状存在言及している。 本尊の他にも、十王像・達磨像・韋駄天尊像いずれも木像)、釈迦誕生仏銅像)、釈迦涅槃像画像)などを所有している。その他に寄付による仏像や、廃寺となった善徳院旧所蔵仏像等常徳院所蔵する善徳院旧所蔵仏像等は、1876年明治9年3月5日常徳院所蔵となった常徳院所蔵する仏像のうち、閻魔王坐像十王像、釈迦三尊像1978年昭和53年4月1日から1681年昭和56年3月31日までの世田谷区社寺調査及びその後3か年わたって実施され追加調査の対象となった常徳院には、古い地蔵菩薩像いくつか残されている。1735年享保20年10月造立の高さ150センチメートル余の地蔵立像女中念仏講26名の寄進よるものであり、1865年慶応元年)の地蔵立像村中寄進である。1777年安永6年)に造立された六地蔵台座には、多くの銘が刻み込まれている。

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