境内と文化財
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杉山和一(杉山検校)墓:杉山和一は伊勢の生まれで鍼灸師として知られる。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉に鍼灸師として仕え、その病を治したことで綱吉の信頼を得た。和一は1694年(元禄7年)に85歳で没し、墓所は弥勒寺と江の島の2か所に造られた。弥勒寺の墓所は1924年(大正13年)に東京市史蹟に指定され、同年には東宮御成婚に際して和一に正五位が贈られた。墓の形はかつて笠塔婆であったが戦火によって破損し、1960年(昭和35年)に五輪塔に替えられた。のちに東京都指定旧跡となっている。1978年(昭和53年)4月、隣に鍼供養碑が建立された。 戦災殉難慰霊観音尊像:1967年(昭和42年)3月の建立。日展会員の彫刻家、片岡静観の作である。太平洋戦争による数多くの殉難者の慰霊のために建てられ、付近で亡くなった3500柱の遺骨が納められている。 筆塚:昭和期の書家、相沢春洋を偲ぶ碑で、表面に「筆」の一字を刻んでいる。相沢はかつて弥勒寺の境内で書道を教えていた経緯があり、その縁で彼の命日にあたる毎年11月23日には「筆供養」が行われている。
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境内と文化財
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「浄因寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
門前、本堂、墓地など 浄因寺は緑豊かな寺院で、夏にはサルスベリの古木が咲き、秋には門前の木々が紅葉となって参拝者を出迎える。本堂は東西7間、南北7間で総欅造り、屋根は銅板葺の千鳥破風で、棟の両側に据えられた鬼瓦には「五七の桐」が寺紋として使われている。 浄因寺の墓地には、浅見清次郎(彫刻家)、内藤鋠策(歌人)、安達潮花・安達瞳子親子(華道安達流家元)などの墓がある。その他に本堂の東方、参道の奥に小高い塚があり、旧福岡藩戊辰戦争戦没戦病死者旋忠碑が建立されている。碑の裏面には、藩士飛鳥安之丞他9名の名とその家臣たち9名(合計19名)の名が刻まれている。 境内地の面積は628.41坪、墓地664.59坪、本堂5501坪、庫裏客殿97.25坪、寿光会館106.39坪を測る。 彫刻、書画など 本堂には阿弥陀如来像、木造聖観音菩薩立像、聖徳太子像が安置されている。脇壇にある阿弥陀如来像は歴史の項で触れた妙福寺の旧本尊で、江戸時代の作である。像高は55.9センチメートル、台座高18.3センチメートルで寄木造、玉眼嵌入、漆箔、肉髻珠と白毫はそれぞれ水晶製である。肉身部の金泥彩は後補によるもので、左手首及び両足先のはぎ寄せが緩んでいて接着剤での補修が見られた。 木造聖観音菩薩立像と聖徳太子像は高村光雲の作で、それぞれ77歳、83歳の折のものである。。木造聖観音菩薩立像は1928年(昭和3年)の作で像高は23センチメートル、台座6センチメートルの一木造である。聖徳太子像は像高54.5センチメートル、台座15.3センチメートルの一木造で髪を角髪に結い上げ袈裟をかけた姿である。胸の前で柄香爐をとっているが、香爐の付け根部分は第二次世界大戦中、防空壕避難の際に折損したという。この聖徳太子像は、第13世住職良雄の発願によって造立された。 他の寺宝としては「歴史」の項で既に触れたとおり、江戸詰めの福岡藩士の菩提寺であった縁で黒田長成が山号扁額「寿光山」を揮毫している。長成は漢詩や書に優れた人物として知られていた。
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「真龍寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
境内で目を惹くのは、歴史の項でも触れた大きな天狗の面である。この面は高さ3メートル、幅約2メートルあり、長い鼻は「商売繁盛」を、葉うちわは「平和」、そして高下駄は何事にも負けずに踏み越えていく「勇気」を表していると伝えられている。この天狗は道了尊の化身でもあり、威徳と神通力をもって厄災を除く利益があるという。「しもきた天狗まつり」のメインイベント、天下一天狗道中では山車に乗って行列とともに商店街を練り歩いている。 真龍寺の本尊は、歴史の項で述べた道了大薩埵(十一面観音)で、観音の11ある顔貌の1つが天狗すなわち道了の姿である。この天狗の姿をもって現世の苦を救う利益をもたらすことから、人々の信仰を集めている。 境内はさほど面積が広くなく、閑静な寺院である。「しもきた天狗まつり」に伴って開催されるイベント以外にも、毎年7月下旬にはここを会場として縁日大会が開かれて賑わいを見せる。1991年(平成3年)に始まった「下北沢音楽祭」でも、かつては境内がステージやイベントに使用されるなどして人々に親しまれていた。
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「善養寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
丸子川にかかる赤い橋(大日橋)を渡って石段を上ると、一対の海駝(かいだ)の坐像が出迎える。海駝は架空の神獣で火除けの神といい、世界でも5つしかない珍しいものという。本堂は奈良の唐招提寺金堂を模したもので、鴟尾一対が載った瓦葺き、寄棟造りの屋根が特徴である。 本堂の前には、善養寺のカヤと呼ばれるカヤの大木が生育している。このカヤには豪族の娘が助けた沢蟹親子の恩返し伝説があり、そばには沢蟹や蛙、そして河童の石像が設置されている。その他にも境内にはガネーシャ神、石羊、布袋像などがある。 本堂内には、本尊の大日如来坐像の他、秘仏の不動明王立像と制多迦童子、矜羯羅童子などが祀られている。古くはこの地の鎮守である六所神社の神輿堂や閻魔堂が境内に存在していた。1998年(平成10年)には、善養寺中興400年記念として梵鐘と梵鐘堂が完成した。
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「専光寺 (世田谷区北烏山)」の記事における「境内と文化財」の解説
専光寺の入り口付近に、江戸時代の浮世絵師である喜多川歌麿(秋圓了教信士)の墓への案内がある。歌麿の墓がこの寺にある理由は、専光寺が浅草にあった頃に北川家の菩提寺であった縁といい、そのため「歌麿寺」の通称でも知られる。歌麿の墓は4段の石が積み重なったものであるが、「北川」と刻された中段の台石が本来の墓石である。歌麿の子孫は既に絶えているが専光寺はその墓を守り続け、毎年9月20日の命日には供養を営んでいる。歌麿の墓は、1956年(昭和31年)3月3日に東京都旧跡の指定を受けた。 専光寺は、歌麿自身の作品や関連の文化財を所蔵している。そのうち喜多川歌麿像は、鳥文斎栄之が1825年(文政8年)に描いた肖像画(大英博物館所蔵)を宮原柳僊がその写真をもとに模写した作品で、日本国内にはこの1枚だけが現存する。その他に近現代の後刷であるが「辻君図」、「高名寛政三美人図」などの作品も所蔵する。なお、1980年(昭和55年)4月20日に専光寺で執り行われた歌麿の追善会の際に世田谷区南烏山在住の浮世絵刷師熊谷善一が、その実演を行った。専光寺には実演の参考資料として、工程見本が残されている。 歌麿の墓の近くには、和唐紙の創始者として知られる中川儀右衛門の墓もある。中川は1771年(明和8年)山城国の生まれで朝正亭義楽と号し、1804年(文化元年)頃に江戸に下って神田に住まいを定めて紙の商いを行っていた。彼は中国から輸入されていた唐紙をもとに、和唐紙を創り出した。中川は和唐紙の他にも「燃える水」といわれた石油を日本で初めて販売した人物である。1838年(天保9年)に68歳で没し、専光寺に葬られた。戒名は「仁誉慈雲義楽居士」という。なお、『刑事コロンボ』の吹き替えで知られる俳優の小池朝雄も専光寺に墓地がある。小池の墓は、歌麿の墓からやや奥まったところに存在している。
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「善養寺 (江戸川区)」の記事における「境内と文化財」の解説
江戸川の堤防沿いに12000平方メートルという広大な敷地を持つ。境内で目を引くのは、本堂前で四方八方に枝を伸ばし、繁茂面積が800平方メートルに及ぶ「影向のマツ」である。岡野マツとの「日本一のマツ争い」が解決した後、春日野親方は「日本名松番付横綱推挙状」のプレートを贈呈した。マツの根元には、このプレートと「影向の石」という石が置かれている。その昔、善養寺に忍び込んで不動明王像を盗もうとした男がいた。その男が像を抱えて逃げようとしたとき、石に足が張りついたために動けなくなってしまった。翌朝になって男は捕まり、像も無事だった。男を捕えた石がこの影向の石であるといい、今でも石の上に人の足型のような窪みが見受けられる。 本堂は弘化2年(1845年)再建で、間口26メートル、奥行き22メートル、木造銅葺の建物である。入り口左側の「びんずる尊者」像は、江戸時代から「善養寺のなでぼとけ」として親しまれた。仁王門は、木造平屋建瓦葺で朱塗とし、天保年間(1741年-1744年)の建築である。昭和57年(1982年)に解体復元修理を行った。左右にある仁王像は制作年代と作者は不明だが、明治年間と昭和の仁王門解体修理時に修理されている。不動堂には、高さ1.2メートルの不動明王像が祀られている。この像は三国伝来毘首葛摩作といわれ、「小岩不動尊」として霊験あらたかとされる。 西の山門(不動門)前には高さ1.15メートル、幅33センチメートル、厚さ21センチメートルの「天明3年浅間山噴火横死者供養碑」が建っている。この供養碑は、浅間山噴火災害の凄まじさと往時の下小岩村の人々の温かい心情を伝えるものとして、昭和48年(1973年)に東京都指定有形文化財となった。供養碑には、今でも香華を手向ける人が絶えないという。 不動門右わきには、「和傘の碑」がある。かつて小岩は和傘の名産地であった。この碑は昭和5年(1930年)に和傘業界の発展に尽力した川野竹松の功績を称えて建立されたもので、高さ2.4メートル、幅1メートル、厚さ17センチメートルに及ぶ大きな碑である。 江戸川区文化財 善養寺影向のマツ - 国指定天然記念物、江戸川区登録天然記念物・植物 天明三年浅間山噴火横死者供養碑 - 東京都指定有形文化財・金石文、江戸川区登録有形文化財・歴史資料 小岩不動尊逆井道向石造道標、小岩不動尊市川向石造道標 - 江戸川区登録有形文化財・歴史資料
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境内と文化財
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「森巌寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
1877年(明治10年)の『浄土宗明細簿』という資料によれば、檀家は60戸、境内は5反8畝18歩とあり、当時は本堂、庫裏、施灸堂(淡島堂)、虚空蔵堂、不動堂などを擁していた。2013年現在の時点では、境内には本堂の他に淡島堂や不動堂・閻魔堂、弁財天、墓地と開山堂、そして淡島幼稚園などがある。本堂は1964年(昭和39年)に建立されたもので、本尊の阿弥陀三尊像とともに秀康の位牌(厨子に納められている)を安置している。『新編武蔵風土記稿』は本尊の阿弥陀如来像を「春日ノ作」と記述し、二菩薩像については「宇治平等院造作ノ彫物ナリ」としている。 淡島堂は1836年(天保7年)再興時の姿を残す森巌寺最古の建物で、灸と針供養で名高い。淡島堂は一見すると仏堂のように見えるが、拝殿・幣殿・本殿で形成する神社の形式で成り立っていて、正式名は「北沢淡島明神社」という。不動堂・閻魔堂は、堂の向かって左に閻魔大王、右に不動明王を祀っていて毎週日曜に護摩祈祷を執り行っている。弁財天は8本の手を持つ「一面八臂」の姿であり、頭上には体は蛇、頭部は老人の「宇賀神」像を乗せている。この弁財天の姿については、農業神・穀物神として民間で信仰されていた宇賀神と弁財天が習合した形態と推定されている。 本堂の裏手には、墓地と開山堂がある。もともと森巌寺は徳川家にゆかりの深い寺院だったため、境内に正式な墓地は存在していなかった。時の経過とともに増えてきた飛び墓地や家墓などあちこちに散在していた墓地を、以前の住職が本堂の裏に一度移転して整備したのが森巌寺墓地の始まりであった。この場所は盛り土をした富士塚があるなど傾斜した土地で、道路の整備なども不十分だったことから、森巌寺開創400年記念事業として2003年(平成15年)に境内の整備計画に着手して富士塚を切り崩すなどのさまざまな整備を実施し、2007年(平成19年)に基本の工事が完了した。新しい墓地は、バリアフリー設計に配慮したものとなっている。開山堂は墓地整備計画に伴って切り崩された富士塚の跡地の一部を利用して建立され、2008年(平成20年)秋に落成したものである。 淡島幼稚園は1952年(昭和27年)に開園した。幼稚園の名称は、森巌寺付近が淡島明神と淡島の灸で有名だったため「淡島」と呼ばれていたことに由来する。幼稚園の前身となったのは、1925年(大正14年)に開校された「森巌寺葵日曜学校」であった。この学校は昭和期に入っても継続していたが、太平洋戦争の時期は一時閉鎖を余儀なくされていた。終戦後に当時の住職は改めて幼児教育の必要性を重視して幼稚園設立に動き、1952年(昭和27年)5月に淡島幼稚園を開園した。 境内には1対のイチョウの大木が生育している。このイチョウは森巌寺開山当時からのものといわれ、樹齢は400年あるいは600年以上と推定されている。1988年(昭和63年)に発行された『世田谷名木百選』ではこのうちの1本について「世田谷で一番幹廻りの太い木である」と記述した。当時の樹高は20メートル、幹廻りは6.25メートル、枝張りは16メートルを測っていた。なお、森巌寺の界隈は、世田谷区民による投票によって「淡島の灸の森巌寺」として1984年(昭和59年)に「せたがや百景」に選定された 。
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境内と文化財
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「福昌寺 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
歴史の節で既に述べたとおり、福昌寺にあった建物や梵鐘・百体観世音など多くの文化財は1975年(昭和50年)の火災で焼失している。旧本堂にあった龍の彫刻は古い時期に作られたものであったが、やはり火事で焼失した。 福昌寺の梵鐘は、1759年(宝暦9年)に西村和泉守という人物が作り、檀家75軒の主婦が寄贈したものであった。形状は「朝鮮型」といわれ、音色の良い梵鐘であった。第2次世界大戦時の金属供出によって手放すことになったが、その音色の良さに当局が使い続けていたために残り、終戦後に福昌寺に戻ってきた。この梵鐘も、1975年(昭和50年)の火災で焼失している。 旧本堂の横には、閻魔堂が存在していた。かつて旧本堂を改築する際に、4尺ほどの棟札が発見された。棟札には1755年(宝暦5年)11月建立の旨が記されていて、棟梁は深沢柏木長右衛門、経堂河野七右衛門とあった。旧庫裏は1765年(明和2年)秋の大風で大破し、1773年(安永2年)に松原円吉という大工が改築したと伝わる。 福昌寺に残る仏像のうち、薬師如来坐像(寄木造、江戸時代)、地蔵菩薩半跏像(寄木造、江戸時代)、伝文殊菩薩坐像(寄木造、江戸時代)は、1978年(昭和53年)4月1日から1981年(昭和56年)3月31日までの世田谷区社寺調査及びその後3か年にわたって実施された追加調査の対象となった。そのうち地蔵菩薩半跏像は、1975年(昭和50年)に起きた福昌寺の火災の後、1976年(昭和51年)に仏具屋から寄進されたものである。 その他の文化財には、1660年(万治3年)に建立された念仏供養塔がある。この供養塔は多くの村人の喜捨によって作られたもので、総高は118センチメートルを測る。墓地入口にはこの寺の開基であり、祖先でもある松原家を伝える碑がある。碑の正面及び左右の側面には、松原家6人の戒名と没年月日などが記されている。 福昌寺の隣には、かつて付属の幼稚園があった。後に幼稚園の建物は改築されてホールとなり、葬祭式場として使用されている。
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境内と文化財
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「常徳院 (世田谷区)」の記事における「境内と文化財」の解説
常徳院の参道入り口には、「十一面観世音像」と刻まれた石碑が建てられている。山門を入ると、右側に鐘楼、南向きに本堂があり、本堂の北東側には庫裏を配する。 本堂の屋根は入母屋造で鉄板瓦棒葺、間取りは方丈系の八間取である。建立の年代は、棟札や墨書などの裏付けがないため不詳とされる。1958年(昭和33年)に改修を行ったときは柱を削ってやや細くしたのみで、間取り等は以前の状態を保っている。化政文化期(1804年から1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』の巻之四十八 荏原郡之十に、「十間ニ七間南向」という記述があって、現在の本堂とほぼ同じ規模であるため、少なくとも『新編武蔵風土記稿』が編纂された化政文化期以前に建立されたことが推定されている。なお、本堂の内陣上にある木鼻などが世田谷区喜多見5丁目にある宝寿院(江戸時代中期に建立)のものと類似していることから、同時期の建立とも考えられている。 本堂の天井部分には、花鳥を描いた極彩色の板絵が施されていて、その数は143面に上る。内訳は本堂内陣に44面、外陣に99面である。内陣の板絵はほとんど獣類を画題としているが、全般に画調は洗練を欠いている上に雨漏りの影響で剥落が多い。外陣の板絵は花鳥のみを題材に取り上げていて、内陣の板絵と比較して彩色などに端正さが見られる。 『世田谷区社寺史料 第三集 絵画・彫刻II・目録編』では、すべての板絵の作者を同一と推定している。内陣の板絵のうち一面に、「緑峰」という款印があるが、この人物については未詳である。板絵の制作年代については、画風などから見て江戸時代末期から明治時代にかけてとされている。 鐘楼の屋根は入母屋造で鉄板瓦棒葺であり、建立年代は『新編武蔵風土記稿』などによって化政文化期以前と推定されている。鐘楼は1958年(昭和33年)に改修した際も、基壇の高さを上げて彩色を補ったのみであった。鐘楼に使われる木鼻の渦紋や柱の風化状況などからも、本堂とほぼ同時期の建立とみられている。 本尊の十一面観音像は、『曹洞宗明細簿』によると木製の坐像で丈は1尺8寸(約54.5センチメートル)という。この十一面観音像について、『新編武蔵風土記稿』の巻之四十八 荏原郡之十では、「相伝フ此本尊ハ吉良氏朝ノ信仏ニシテ当寺ニ寄附スト」との記述がある。ただし、『新編武蔵風土記稿』は続けて「按ニ下ニノスル古文書ノ趣ニヨルニ氏朝ノ寄附セシト云ハ疑フベシ」としている。さらに「此観音ハモトヨリココニタテタルヲ、元亀四年氏朝ノ田地ヲ寄附セシ状アルニヨリ、カク言伝フルナルベシ」として、中地山城守の署名が入った吉良氏印判状の存在に言及している。 本尊の他にも、十王像・達磨像・韋駄天尊像(いずれも木像)、釈迦誕生仏(銅像)、釈迦涅槃像(画像)などを所有している。その他に寄付による仏像や、廃寺となった善徳院旧所蔵の仏像等も常徳院が所蔵する。善徳院旧所蔵の仏像等は、1876年(明治9年)3月5日に常徳院の所蔵となった。常徳院が所蔵する仏像のうち、閻魔王坐像、十王像、釈迦三尊像は1978年(昭和53年)4月1日から1681年(昭和56年)3月31日までの世田谷区社寺調査及びその後3か年にわたって実施された追加調査の対象となった。 常徳院には、古い地蔵菩薩像がいくつか残されている。1735年(享保20年)10月造立の高さ150センチメートル余の地蔵立像は女中念仏講中26名の寄進によるものであり、1865年(慶応元年)の地蔵立像は村中の寄進である。1777年(安永6年)に造立された六地蔵の台座には、多くの銘が刻み込まれている。
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