お笑い第二世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/28 05:42 UTC 版)
![]() |
お笑い第二世代(おわらいだいにせだい)は、1970年代にデビューしたお笑い芸人の俗称。
概要
1980年代前半に『花王名人劇場』『THE MANZAI』(ともに関西テレビ制作・フジテレビ系列)などの番組から、B&Bを筆頭に漫才ブームとなり、従来のザ・ドリフターズや萩本欽一から新世代の芸人達がテレビの主役となった。
1980年代から『笑ってる場合ですよ!』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』などの番組が人気となった。吉本興業や松竹芸能などの関西のプロダクションは、活動を大阪限定ではなく東京へ移した。
「漫才ブーム」は1980年代前半の短期間で、「お笑い第二世代」と異なる。第二世代はコントグループやピン芸人などが台頭している。「第二世代」は、1990年代末期から2000年代前半に雑誌などが、1990年代前半に台頭した芸人を「お笑い第三世代」と称し、のちに世代別区分した際の造語である。ビートたけし・明石家さんま・タモリらが『BIG3』と称された世代である。
一方で2021年発売の『ギャグ語辞典』では漫才ブームは第二世代に含まれると定義しており[1]、BIG3を筆頭とするのは変わらずも「若者から熱狂的な支持を受けたニューウェーブ」、「それまで地位の低かった笑いを飛躍的に向上させた立役者」と紹介している[1]。この解釈の誤差は第三世代からさかのぼり考えた区分であることが原因である。
1970年代のオイルショックによるコスト削減で1970年代に新人若手だったお笑い芸人が大量起用されたことが「お笑い第二世代」の原動力となっている。
関連人物
脚注
[脚注の使い方] |
関連項目
![]() |
この項目は、お笑いタレント・コメディアン(これらの関連記事を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:お笑い/PJ:お笑い)。 |
お笑い第二世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
詳細は「漫才ブーム」および「お笑い第二世代」を参照 1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。 澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の傍流であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業はこのブームに乗じて多くの漫才師を送り出し、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。 東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。 お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、ギャランティの向上もあり、歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。 この他、一方言に過ぎなかった関西弁は漫才ブームの影響で全国的な知名度を得るようになった。また、それまで放送業界でタブー視されていた「楽屋ネタ」「(出演者の)内輪ネタ」の一般化や、裏方スタッフ(ディレクター・プロデューサー・AD等)が演者としてテレビに登場するようになったのもこの時期であり、現在まで与える影響は数知れないものがある。
※この「お笑い第二世代」の解説は、「日本お笑い史」の解説の一部です。
「お笑い第二世代」を含む「日本お笑い史」の記事については、「日本お笑い史」の概要を参照ください。
- お笑い第二世代のページへのリンク