お笑い第二世代
お笑い第二世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
詳細は「漫才ブーム」および「お笑い第二世代」を参照 1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。 澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の傍流であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業はこのブームに乗じて多くの漫才師を送り出し、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。 東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。 お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、ギャランティの向上もあり、歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。 この他、一方言に過ぎなかった関西弁は漫才ブームの影響で全国的な知名度を得るようになった。また、それまで放送業界でタブー視されていた「楽屋ネタ」「(出演者の)内輪ネタ」の一般化や、裏方スタッフ(ディレクター・プロデューサー・AD等)が演者としてテレビに登場するようになったのもこの時期であり、現在まで与える影響は数知れないものがある。
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