演芸ブーム
(お笑い第一世代 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 13:42 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動演芸ブーム(えんげいブーム)とは主に1962年頃から1970年頃にかけて起こった、テレビの演芸番組を中心としたお笑いブームを指す。
概要
「お笑いタッグマッチ」(フジテレビ系)「大正テレビ寄席」(NETテレビ、現・テレビ朝日系)など演芸番組が数多く放送され、テレビにおけるお笑いの地位を確立した。現在も放送している「笑点」(日本テレビ系)もこのブームのさなかに放送が開始された。
主な演者としては、「昭和の爆笑王」こと初代 林家三平や落語四天王(七代目 立川談志、五代目 三遊亭圓楽、三代目 古今亭志ん朝、五代目 春風亭柳朝など)、上方落語四天王(三代目 桂米朝、三代目 桂春団治、六代目 笑福亭松鶴、五代目 桂文枝)などの落語家を筆頭に、Wけんじ、獅子てんや・瀬戸わんや、コロムビア・トップ・ライト、Wヤング、若井はんじ・けんじ、正司敏江・玲児、夢路いとし・喜味こいし、晴乃チック・タックなどの漫才師、コント55号、てんぷくトリオ、漫画トリオ等のコントグループが人気を博した。
また、コミックバンドとしてはハナ肇とクレージーキャッツの後を受けて活動していたザ・ドリフターズがコントグループへと転換し不動の地位を得た。
これらの芸人は「お笑い第三世代」という概念が出現した1980年代後半以降、「お笑い第一世代」と称されるようになった。
第一世代(演芸ブーム)代表番組
関連項目
お笑い第一世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
詳細は「演芸ブーム」を参照 1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。 演芸ブームの後、テレビ界のお笑いはコント55号・ザ・ドリフターズが台頭することとなる。コント55号は活動休止後、萩本欽一がピン芸人として数多くの番組で司会を務め、冠番組の視聴率合計から「視聴率100%男」の異名をとることとなる。1969年に開始したドリフ司会の『8時だョ!全員集合』(TBS)は、最高視聴率50.5%というバラエティ番組史上の最高記録を叩き出す人気を誇った。このほか、せんだみつおや桂三枝(現・6代目桂文枝)、てんぷくトリオ出身の三波伸介・伊東四朗、そして小松政夫などが人気を博したが、当時のテレビ界の中心は歌手と俳優であり、お笑いは添え物、脇役に過ぎず、全体的には萩本とザ・ドリフターズの2強が長く続くこととなる。 一方大阪では演芸ブーム以降Wヤング、コメディNo.1、中田カウス・ボタンといった吉本興業の漫才師が台頭し、特に若者に人気の高かった中田カウス・ボタンを筆頭に笑いの潮流が吉本側に傾きつつあった。しかしながら、この傾向はまだ関西ローカルに止まっており、全国向けの関西の演芸は依然としてかしまし娘やレツゴー三匹などが起用され、松竹芸能の力が強かった(松竹でも笑福亭鶴光や笑福亭鶴瓶などが登場していた)。 2021年発売の『ギャグ語辞典』では、テレビ用のコントを作るようになったコント55号とザ・ドリフターズに代表されるこの世代をお笑い第一世代と定義している。
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