お笑い第四世代
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お笑い第四世代(おわらいだいよんせだい)とは、1989年以降にデビュー[1]した若手お笑い芸人を総称した俗称。
- ^ “千原兄弟、FUJIWARA、極楽とんぼ…なにかと“もめ事”が多い平成元年結成コンビ”. リアルライブ. 2019年5月20日閲覧。
- ^ お笑い第四世代 1995年7月号 VOL.1、ビクターエンターテイメント
- ^ 2008年6月号「日経エンタテインメント!」
- ^ 2008年4月号「日経エンタテインメント!」
- ^ “「お笑い3.5世代」ゆえの苦悩とは?”. エンタMEGA. 2020年9月27日閲覧。
- 1 お笑い第四世代とは
- 2 お笑い第四世代の概要
お笑い第四世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
詳細は「お笑い第四世代」を参照 1990年代に入ると、これまでのバラエティ番組人気の中心となっていたフジテレビに倣う形で、ターゲットおよび内容をサブカルチャー的観点に絞り込んだ多種多様なバラエティ番組が多く制作されることとなった。 ボキャブラ天国シリーズ 視聴者投稿を元に作られていたテレビ番組『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ)が、「大勢の若手芸人がネタを競い合う番組」に変化すると、若い女性などを中心とする特定層の支持を集めた。この番組をきっかけに知名度を得た世代をお笑い第四世代と呼ぶことが多い。爆笑問題、ネプチューン、海砂利水魚(現:くりぃむしちゅー)などは、のちに各局で冠番組を持つことになる。 電波少年シリーズ 『進め!電波少年』(日本テレビ、松本明子らが司会)は、アポイントメントなしの突撃インタビューをはじめとして、台本のないドキュメンタリーの味わいを取り込んだドキュメントバラエティであったが、特に後半は若手芸人に私生活を犠牲にした体験・チャレンジ企画をさせて笑いの種とする構成となり、過剰演出(やらせ)の傾向が強くなる。 そんな中で、過酷なヒッチハイク旅行を行なった猿岩石が、お笑いというよりも共感できる等身大の若者といった位置付けで人気を博し、彼らが唄った楽曲が一定の売り上げを集めたり、旅行中に記した日記をまとめた書籍が売り出され版を重ねるなど社会現象化する。 しかし、その後同様のコンセプトでドロンズ、なすび、ロッコツマニア、矢部太郎(カラテカ)らを起用して話題を提供しつづけたが、あくまで芸人よりも企画自体の面白さが中心であったために、企画自体がパターン化すると飽きられるのも早く、企画終了と同時に芸人も人気がなくなりテレビから消えることが非常に多かった。芸人を育てるというよりも消費し尽くすといった側面が強く、視聴者からの苦情や批判も殺到するようになり、これも番組が終了するきっかけにもなった。 ナインティナインとロケの多様化、同時代性 広告代理店やジャーナリズムによる造語「第四世代」という定義に厳密に合致していないが、ほぼ同時期のものとして、フジテレビ『とぶくすり』(のちの『めちゃ2モテたいッ!』→『めちゃ2イケてるッ!』)や日本テレビ『ぐるぐるナインティナイン』などがあり、これらの番組からナインティナイン、よゐこらが1993年頃から知名度を得た。これらに通底しているのはロケーション撮影(ロケ)の多用、そして同時代性である。 1990年代初頭に漫才スタイルがダウンタウンのもとで飽和に達し、それ以降の芸人やお笑い番組は違うスタイルを築きあげる必要にせまられた。その経済学的にいう(商品)差別化の中でたどり着いたのが、街に繰り出し現場や社会を笑いのネタにするというロケーションの手法であり、「リアル」を笑いにして視聴者を惹きつけるとともに、テレビに映る若者が参加しているという同場所性や、それを通して若者と同世代を生きているという同時代性が親近感を醸成し、ヨコの繋がりを生み出して、漫才やコントとは違う人気に結びついた。 その結果、お笑い第一世代から第三世代までの時代に全盛を極めたコント番組が減少し、コント番組以外でもブレイクする芸人やタレントが非常に多くなったのもこの世代からである。 その他 前述の通り、この時代は芸人がブレイクするきっかけとなった人気番組はロケ企画が中心のものがほとんどであったため、ロンドンブーツ1号2号や猿岩石などのように、お笑い芸人でありながら自身の漫才やコントをテレビでほとんど披露せずにブレイクした芸人が前後の世代と比較して多いことが特徴であるといえる。 ロケ企画中心だったのはジャニーズの番組も例外ではなく、V6の『学校へいこう』やTOKIOの『鉄腕ダッシュ』などがヒットしている。 バラエティ番組におけるテロップが頻繁に使われだしたのがこの頃である。出演者の発した言葉を逐一字幕化する手法が多用された一方、『電波少年』『めちゃイケ』などでは補足テロップ(『探偵!ナイトスクープ』が発祥とされているツッコミテロップ)を挿入する手法が取られ、以降の番組制作に多大な影響を与えた。 吉本興業が東京・銀座に進出し、「銀座7丁目劇場」を開場。当初は吉本印天然素材の東上が売りであり、日本テレビやテレビ朝日でタイアップ番組も作成されたが、間もなく他に劇場に出演していたココリコ、ロンドンブーツ1号2号らがテレビ番組に集中的にフィーチャーされることになる。また、NSC東京校が1995年に開校し、東京でも本格的なタレントの育成を手がけるようになった。 ジャニーズ事務所の所属のグループSMAPが自身の冠番組『SMAP×SMAP』において、当時衰退し始めていたスタジオコントに積極的に取り組み、視聴率30%超の人気を博し「平成のクレージーキャッツ」の異名を取る。その後の所属事務所の後輩のTOKIO、V6、KinKi Kids、嵐、関ジャニ∞等のジャニーズ事務所の所属のタレント・アーティスト等がお笑い系のバラエティ番組等に進出する契機となった。 鈴井貴之、大泉洋、安田顕らがディレクターと過酷な旅を行う、北海道テレビの『水曜どうでしょう』で、深夜23時の放送にも拘らず最高視聴率18.6%を記録。全国で番販され、全国の他のローカル局でも同様のスタイルによる番組が制作されるようになった。
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