電波少年
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電波少年に出演する前、所属事務所が主催するライブのオーディションに全く受からなくなり、途方に暮れていた。マネージャーに「事務所を辞める」と告げた日、最後の仕事として依頼されたのが、電波少年の前説だった。前説の数日後、自宅からマネージャーとの打ち合わせに向かう最中、道路に駐車されてあったマイクロバスのドアが突然開き、土屋敏男プロデューサーから『何やってるんだ乗れ。飯奢ってやるよ』と促された。パスポートを渡され、目隠しとヘッドフォンを付けられて情報を遮断され、3日ぐらい連れ回された後、ヘッドフォンが外されて、5、6人の聞いたことのない外国の言葉が飛び交っていて、ここはあたかも外国の空港から出発するかのように番組側が演出していた。「電波少年的無人島脱出」の企画は、愛媛県の無人島から、自分たちで筏を作って脱出し、人が住んでいる場所まで行くというのがゴールだったが、案の定、Rまにあは自分たちがいる無人島が海外だと信じ切っていた。この無人島は、後にDASH島となる。この企画をチャレンジした理由について宿輪は「僕も相方も正直、テレビですからいろんなサポートがあって、実際は楽なんじゃないかなと思っていたのと、「電波少年」ってその頃人気あったので、出演できたらおいしんじゃねえかっていう、安易な感じで引き受けました」と完全に若気のノリで引き受けてしまったという。 「電波少年的スワンの旅」で使用されたスワンボートは池で貸し出されているスワンボートとは違い、航洋向けにヨットデザイナー高井理に設計を依頼した番組オリジナル。国内用に2隻、インド洋用に1隻建造された。国内用は純然たる人力航行のシステムで、2人で漕ぐことで最高耐水速力5ノットの設計であったが実際は海況にもよるものの2〜3ノットと実に微速であり、また人力船ゆえに軽量が求められ、構造上脆弱なため緊急時の曳航もままならず、よって番組の収録は過酷を極める結果となった。なお当初の予定では目的の島や港の付近のみ実際に人力で漕ぎ、それ以外の大半の航程はサポート艇で曳航する計画だったが、前記の理由で早々に断念されている。続く海外版では、1回の航行距離が長くなることと、先の過酷さから学び、特別設計の推進システムを採用し、船体も補強して臨むものの故障が多く、結果としてオール等の人力主体となり、熾烈なロケを強行せざるを得なくなった、とされている。こうした事のため企画の経費が当初予定を遥かに超えてしまい、Rまにあ自身はもちろんスタッフの多くも疲労困憊してこの企画そのものに疑問を呈する者も少なくなかったという。 この「電波少年的スワンの旅」で使用した脚力を使い、今度は雷波少年の企画「シドニーへの道」において競輪競技の世界へ挑戦することになり、競輪の学校に2人で短期入学をした後、東京ドームで行われた競輪の選手権に出場するが、ケガで断念。 翌年に2回目の挑戦をして、宿輪はサポート役で中嶋が出場して見事に芸能界で1位に輝いて企画終了となった。 こうして一連のRまにあの企画は、電波少年と雷波少年合わせて約2年に渡る最長記録になった(「無人島生活」105日間。「スワンの旅」愛媛~東京=75日間、東京~仙台=85日間、インド~インドネシア=283日間)。
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