ガチンコ!
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ガチンコ! | |
---|---|
ジャンル | バラエティ番組、リアリティ番組 |
出演者 | TOKIO ほか |
製作 | |
プロデューサー | 合田隆信、吉田裕二 |
編集 | OJ、ザ・チューブ |
制作 |
TBSエンタテインメント (制作) ハウフルス (制作協力) |
製作 | TBS (製作著作) |
放送 | |
放送国・地域 | ![]() |
放送期間 | 1999年4月13日 - 2003年7月29日 |
放送時間 | 毎週火曜 21:00 - 21:54 |
放送分 | 54分 |
『ガチンコ!』は、TBS系列で1999年(平成11年)4月13日から2003年(平成15年)7月29日まで放送されたバラエティ番組、リアリティ番組である。
概要
1999年の春改編で『うたばん』が木曜夜8時枠に移動し、木曜夜8時の毎日放送制作枠が水曜夜7時枠に移動したことを受け、それらの枠と入れ替わる形で放送を開始した。
番組開始当初はTOKIOのメンバーが司会となり、様々な社会問題に体当たりし、「世の中のためになろう」というコンセプトで色々な職人やプロを養成するという企画を行っていた[1][注 1]。主に不良少年を集めてプロボクサーをスパルタ風に育成するという建前の「ガチンコ・ファイトクラブ」が始まった2000年から番組の方向性が固まり、垂木勉(番組開始当初から担当していた)のナレーションによる「と、その時!」や「一体どうなってしまうのか!?」などの独特の言い回しやテロップの数々、参加者の不良達による罵声やつかみ合いが頻繁に始まり、すぐに乱闘騒ぎへと発展する描写が視聴者に受け、真剣勝負を意味する相撲界の隠語である「ガチンコ」という言葉が広く知れ渡るようになった。特に2000年前半は、裏番組の『人気者でいこう!』(ABCテレビ制作 テレビ朝日系)のコア企画の芸能人格付けチェックが週一コーナーとなり、人気を呼び、互角な戦いを繰り広げた。
放送当時は高視聴率を記録し続けて人気番組となった反面、やや過激な場面が度々見られ、それらに対して苦情が寄せられたり、出演者の品の無い態度や言葉遣いなどから低俗番組と批判されることも多かった。また、出演者の口調は拙い物であることが多く、過激な演出と相まって真実に見せかけた虚構の内容の多い「やらせ番組」として広く認識されることになった。「ファイトクラブ」「ラーメン道」など人気コーナーはシリーズ・派生化されることもあった。スタッフが『学校へ行こう!』と一部共通であり、ドッキリ企画や末期の旅企画など企画の流用もあった。
深夜番組では一般的だった番組ロゴの常時表示をはじめてゴールデンタイムに取り入れたのもこの番組である(番組ロゴの表示位置は画面左上)。
なお、当番組のBGMの大半がヘヴィメタルばかりだったためか、ヘヴィメタル専門誌『BURRN!』の編集長である広瀬和生のインタビューによれば「マニア向けの楽曲ばかり流れる、良くも悪くもとんでもない番組だ」と評されたこともあった。劇中BGMは、番組の公式ウェブサイトで毎回楽曲リストを掲載していた[2]。BGMの中にはTOKIOに楽曲を提供したことのある清水昭男が在籍しているANTHEMのHEAVY METAL ANTHEMが流れた事もある[3][4]。
出演者
- TOKIO(メインパーソナリティー)
- 番組初期から出演。主に「ガチンコ晩餐会」「ガチンコモザイクLOVERS」「ガチンコバリバリ伝説」に出演していた。途中降板。
- 番組初期から半年間出演した後、降板。
主なコーナー・企画
バラエティ系
- 一日一善隊
- 視聴者の悩み事を解決させるコーナー。タイトル通り、基本的に丸一日以内に完結する内容の、単発企画。漫画家の江川達也が出演していた漫画家志望者(実際はデビュー済みの成年漫画家で、ロケ直前まで内容を聞かされず、やらせ演技を強要された)にアシスタント体験及びアドバイスする企画は、このコーナーの一つ。
- お水の鉄人
- キャバ嬢2人が対決を行うコーナー。3週勝ち抜けば「お水の鉄人」となるが、2週勝ち抜いた挑戦者が鉄人を賭けた対決に敗れ、さらに鉄人を阻止した挑戦者も別の参加者に敗れ、このコーナーは終了した。
- 献血キャンペーン
- 初期の企画。城島・長瀬・さとう珠緒・輪島功一・江頭2:50らが献血の大切さを訴えるコーナー。
- 包丁道(講師:平野寿将)
- 初の料理系の企画。優勝者には京懐石の料理店「下鴨茶寮」への入店が認められる。講師の平野以外に、日本料理界の第一人者である小倉久米雄、「下鴨茶寮」の料理長が審査員として参加した。
- だが、準決勝の審査中に参加者の1人が倒れ、病院に運ばれるトラブルが発生した。その審査は中断し、再度再戦することを決めたが結局、本人の意思で辞退することになった。
- 講師陣はあくまで参加者の料理・技術・技量に対してのみ批評のみを行い、参加者の人格を罵倒する等は一切行わない・駄目な料理には酷評する一方で、しっかりとした料理には高評価を与える・参加者のやる気、熱意を認めるなど大人の対応をし、参加者もそれらの批評に対して反抗する素振りを一切見せなかったことから同じ料理系企画でも後のラーメン道に見られるような講師や参加者同士の衝突等は一切無かった。
- このため、やらせの企画が多かった当番組で数少ない「ガチンコ」の企画であったと言えるものの、故に盛り上がりに欠けたことから、その後番組側では講師の人選や参加者の仕込みを露骨に行うことになる。
- 火の玉イレブン(コーチ:松木安太郎)
- サッカー選手を育成する企画というよりもギャグ的要素の多いコーナー。
- 出演した選手に「国体」「熱血」「バイト」「モヤシ」「ちゃんこ」などといったニックネームをつけるなど松木らしさが随所に表れていた。totoカップ東日本大会準優勝。国分は当時totoのイメージキャラクターだった。
- ダイエット学院、ダイエット学院・レディース(講師:田中良)
- ダイエット学院シリーズは当初肥満体だった山口の体質改善を目的としたコーナーだったが、のち「レディース」と銘打ち女性向けに変更された。田中の毒舌、罵倒ぶりに批判は集まったが、ダイエットというプロスポーツなどに比べて真剣度の低い企画であったため、あまり問題視されなかった。
- 玉の輿学院・芸能人玉の輿学院
- 公募された女性(実際には売れないタレントの仕込みが大半であった。)を対象とし、所謂富裕層や芸能人との合コンやゲームをブッキングするコーナー。誕生したカップルは一組もなかった。元ミスコンや素人名義で参加したタレントなどの他には、いちご姫やきこうでんみさといったアキバ系電波アイドルも混じっていた。
- ドッキリクラブ
- 芸能人をドッキリにはめる企画。いつもここから、ダンディ坂野、山田花子、中川家、やるせなすの石井康太など、多彩な人物を罠にかけた。一方で、ドッキリの仕掛け人として呼び出され、本当はその人をターゲットとする逆ドッキリも行われた。そして、ドッキリをメインとしたスペシャルも放送され、DonDokoDonの山口智充や山咲トオルなどがターゲットになった。元々は2002年10月1日に特番「TOKIO!史上最大ドッキリウォーズ〜エピソードI〜」として放送されたものが、2003年4月1日放送の第2弾が「ガチンコ!史上最強のドッキリウォーズII!!桜満開バカ全開SP」となり、その後「ドッキリクラブ」としてレギュラーのコーナーになったものである。
- モザイクLOVERS
- 2回で終了。第一回目は風俗で働く女性。付き合っている彼氏にその事を伝えられずに居た。城島が仲介に入り彼氏に伝えるが彼氏は「これからの付き合い方を考えたい」と伝え、結局その後はどうなったか不明。
- 日本一モテない男
- テーマ曲として、TOKIOの「Neighbor」が使われた。真面目に恋愛を成就させるよりも男性参加者を笑い者、晒し者にするいじめ、ギャグ的要素が主であったため、結局カップルは誕生しなかった。コウメ太夫が本名の赤井貴で出演、全身赤で統一されたファッションで「レッド」と呼ばれていた。このコーナー中に、国分が恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』を侮辱した発言をし、ゲームファンから大きく反感を買った[要出典]。
- 晩餐会
- カップルがレストランで食事をしながら本音を打ち明けるコーナー。特別編として「バトルロワイヤル」(この企画で関係がこじれたカップルに相手を考え直すための企画)、「突入せよ」があった(だまされている男の救済のための企画であった)。出演者による公序良俗に反する発言がBPOで問題になった。
- 鉄人トラベル(1/10、食いだおれスペシャル)
- 道行く人に所持金をたずね、その1/10の金額をもらって(金額は番組から支給される)目的地まで移動する。もらった金額は次の移動までに使いきらなければならない。後に移動手段をタクシーのみとするルールが加えられた。食いだおれスペシャルでは飲食店で料理を1人前ずつ食べ、その代金と同じ額の金額で移動する(チャレンジャーはできるだけ高く、量の少ないものを選ぶことが重要であった)。しかしやらせ発覚により、ドキュメント系企画が続行出来なくなったことから開始したつなぎ企画であったため、結局打ち切りまで続けざるを得なかった。
- TOKIOオヤジNo.1決定戦
- TOKIOの体質改善(体力測定・肌年齢の検診)を目的としたコーナー。
ドキュメント系
メイン企画
- ファイトクラブシリーズ(コーチ:竹原慎二)
- 全コーナー中、最多の5シーズンに渡って放映されたため、本番組を象徴する企画となった。血気盛んな不良達をボクシングプロテストの合格までをサポートし、実際に数人のプロボクサーを誕生させた(プロテストに合格したクラブ生の試合が、前座ではあったが番組中に放送された)。収録のロケ地とボクシングのトレーニングは、基本的に沖ボクシングジムで行っていた(同ジムは2004年に閉鎖)。企画タイトル名の由来は開始当時に公開されていたブラッド・ピットの主演映画『ファイト・クラブ』から[注 2]。
- 各シリーズの初回は、国分・長瀬のどちらか一方(第2シリーズは国分、第3・4シリーズは長瀬)がスタッフと方針について会議をしているときに、もう一方がチアリーダーとともに現れオープニングのコールをする。あらすじで起用されていたBGMはアンスラックスの『King Size』。
- しかし、放送期間中に3期生のA、5期生のTが傷害事件に関与していたとして逮捕され、番組を降板した[注 3]。この時、4期生のTも番組途中で何の説明もなく脱退した(Tは脱退後、週刊誌に番組のやらせがあったことを告白。後に2006年に詐欺罪、2008年に恐喝罪で逮捕されている)。
- 番組終了後にも5期生のKが2005年に車内から散水車に向けてエアガンを撃ったとする器物損壊の容疑で逮捕・起訴された[5]。更にKは2015年5月にも犯人蔵匿罪により、またしても逮捕・起訴された[6]。
- 2010年4月には、3期生のKが飲食店従業員を殴打したとする傷害容疑[7] で、更に2014年6月24日にも詐欺容疑で逮捕・起訴されている[8]。2019年には、5期生のIが副業に失敗して後に脱税の容疑で逮捕された。
- 特別コーチとして、畑山隆則(全シリーズ)、辰吉丈一郎(第3シリーズ以外)、戎岡彰(第4シリーズのみ)、佐藤修、大嶋宏成(何れも第5シリーズのみ)が参加し、坂本博之も第3シリーズに出演したことがある。他にも第3シリーズでは候補生と直接の絡みは無かったが、オークラボクシングジム所属の練習生との練習試合のため、会長である西城正三が沖ジムに来訪した。
- 漫才道(講師:オール巨人)
- 芸人養成企画。「やらせを絶対にしない、演出も極力控えること」を条件にオール巨人が講師を引き受けた。後に有名になった山里亮太(後に南海キャンディーズとして活動)、ナイツ、レギュラー、天津、ザ・プラン9のヤナギブソンが同期の藪田真宏とお笑いコンビ「君と僕」でお笑いコンビ「烏龍パーク」や当時は別の相方とコンビを組んでいた又吉直樹なども参加していた。
- 最初に、このコーナーに参加するにあたってオール巨人より、「一番になったコンビ以外は漫才の世界から足を洗うように」という言葉があったが、このコーナー終了後もレギュラーや天津などは芸人を辞めることなく活動を続け、年に違いはあったが数年後にブレイクしてその後も活動を継続している。
- 1度目の収録で巨人が芸人達が集まる会場に登場した際、ほとんどの芸人が立って挨拶をしたが2組(いずれもコンビを組んでオーディションに参加したため、人数としては4人)は席を立たず座ったまま挨拶もしくはお辞儀すらしなかった[注 4]。そのコンビに巨人が「何故立って挨拶しなかったのか?」と指摘。1組は謝罪したがもう1組は反抗的な態度を取ったため、2組とも会場から出ていくように命じた。さらに巨人は悪態を取った芸人に対して「弟子やったらな、もうパンパンやな」と発言し、怒りを露わにした。しかしその後、2回目の収録にて巨人が、「ある番組を見ていた際に1度目の収録に出演していた態度の悪い芸人が出演しており、その番組では真面目な好青年であった」と説明する様子が放送された。巨人は、番組側が芸人に仕込んだやらせであると確信して、2回目の収録直前に番組スタッフに問い詰める事態となった[注 5]。本人はこれを機に番組を降板したかったが、1度目の収録・放送が行われた以上そういうわけにもいかず、今後は自分の好きにさせて貰い、やらせを絶対にしないことを条件にその後も講師を続けた。しかし、実際にはその後も番組側が初回の収録や他の企画ほど露骨ではなかったものの、巨人に気付かれない範囲でやらせを行い、巨人自身もなんばグランド花月での撮影で後輩芸人にビンタをするなどの仕込みを要求され、スタッフに激怒することがあった。そのため、番組スタッフは露骨なやらせ・仕込みを行えなかったことから「テレビ的な盛り上がりに欠けてしまう」と判断した。参加芸人に対し、露骨な嫌味・当てつけを行っていた(後程)。
- 大検ハイスクール(講師:大和龍門)
- 短期間で大学入学資格検定の合格を目指す不良などの問題児を取り上げた企画である。全寮制で大和が講師(生活指導)として抜擢された他、複数の塾講師も招かれた。勉学に励む内容であったが、番組内でクローズアップしたのは、生徒間の問題や大和との衝突が殆どである。が、最終的には全員不合格という結果で幕を下ろした。
- 大検に出演したNが「やればできる」、「やっても無駄だということは絶対にない」などの言葉を残している。内気な性格から寮生Sにいじめられた後、寮を脱走し自宅に引篭もってしまったこともあったが大和が強制的に連れ戻し、Nは最後までこの予備校に通い続けた。番組の最終回スペシャルで出演し、中学・高校時代のいじめの経験等を語り「夢は新聞配達をしながら記者になることです」と決意表明をした。
- BE-BOP予備校(講師:大和龍門)
- 大検ハイスクールと同じ、短期間で大学合格を目指す不良などの問題児を取り上げた企画である。大検ハイスクールと同様、複数の塾講師や学習指導者も招かれたものの番組内でクローズアップしたのは生徒間の問題や大和との衝突が殆どである。最終的には、3人の大学合格者を出した。
- 大和の「全員志望校1本だよ! 滑り止めなし!!」の方針に不服を訴えた2人を除く多くのメンバーが離脱した。最終回には全員集合したが、ほぼ全員が志望校1校しか受験しなかった。なお、残った2人のうち塾生Wは大学に合格し、もう1人の塾生Kも中卒であったため、模擬試験という形ではあったものの合格している。2008年10月30日、塾生として出演していたMが、振り込め詐欺の罪で逮捕された(Mは逮捕後も容疑を否認している)。
- 大和が「宇宙の果てまで追いかける!!」と離脱・脱走を許さない方針を示していたが、途中で2人が離脱し最終的には13人から11人になっていた[注 6]。
- 大和の行為が教育上不適切という理由でPTAから抗議が殺到した。その後に「大和龍門大苦情SP」という、不良と大人、大学生達が大和を批判する企画が行われた(後程)。
- 大和の「お前らホームラン級の馬鹿だな!」「『いただきます』が言えなかったからよ、メシ喰うな!!」といった独特の発言が特徴だった。企画の最後は、大和が「どいつもこいつも馬鹿ばかり[注 7]」と唄いながら締めた。
- 企画タイトル名の由来は漫画『ビー・バップ・ハイスクール』。
- 女子プロ学院(コーチ:神取忍、特別コーチ:風間ルミ)
- 3ヶ月で女子プロレスデビューを目指すコーナー。LLPWでプロレスデビューできるのは優勝者のみと説明されていた。33人から最終的に5人が残り、神取との10分1本勝負の試合形式のスパーリングで最終選考が行われ、唯一の既婚者だった大畠春美が合格した[9]。なお、大畠は2001年にデビューしたものの、契約違反にあたる行為を再三繰り返したため、同年11月にLLPWとの契約を解除されている。この事態を重く見たLLPWは、「事前連絡もなくイベントに不参加する事態が続き、各関係者の方々にこれ以上のご迷惑をおかけする事はできないという理由から、やむなく契約解除に至りました。」と発表している。その後、本来ならデビューできないはずの落選者の一人である桑田真理が練習生を経てLLPWでデビューしているが、それについては何の説明もされていない(桑田は2004年に引退)。あらすじで起用されていたBGMはSquealerの『End of the world』。
- ラーメン道シリーズ(講師:佐野実)
- 志望者の中からラーメン店主を育成するコーナー。3人の合格者を輩出し、第1シリーズは渋谷、第3シリーズはラ チッタデッラにラーメン店を開店、第2シリーズでは佐野の「支那そばや」の暖簾分けをした。講師の佐野以外に特別講師として、大阪府門真市のたこ焼きチェーン「ひっぱりだこ」の社長である揚野雅史(第3シリーズのみ)が参加した。
- 第3シリーズでは椅子に座ったままスタッフ二人に担がれた3期生の藤井英次が、「神輿やないねんから!」や、佐野にしがみつきながら「オレはラーメンに胡椒はかけませんけど、命は懸けられるんです!」と発したやりとりや、何を思ったのか冷水を体に浴びせるなどの奇行をした。なお、藤井は現在、滋賀県大津市で「支那そば 天下ご麺」を経営している(毎日放送制作の「水野真紀の魔法のレストランR」で当時の映像と共に紹介された)。さらに、第2シリーズでも2期生の今泉真一郎(後にラーメン道IIの優勝者)が「犬です」、「今までの私(過去)は死んだんです」など佐野を極端に尊敬する台詞を発した。第2シリーズの1回目で、オーディション前に弟子(本コーナーの塾生ではない。)が経営していた店(暖簾分けした別の「支那そばや」)を訪問した際、山口・国分と塾生候補者達が見ている前で弟子を厨房裏で説教する様子が放送された。
その他の企画
- ビジネス学院
- 最初のドキュメント(学院もの)企画。定職に就かず、働こうとしなかった人たちを立派な社会人として就職させる企画。いわゆる不良の仕込みはこの企画開始当時からあったが講師がしっかりした大人であったため、さほど盛り上がらなかった。この反省から番組は、その分野の実績よりもインパクト重視の講師の人選をすることとなる。
- 女優学院(監督:井筒和幸)
- 映画女優を育成する企画。アイドル学院同様、既に女優として活動している無名女優も素人と偽って参加させられていた。納得のいかない演技に対して容赦ない罵声を浴びせる井筒のキャラクターは当時大きな話題となり、後にコメンテーターなどで起用される。
- アイドル学院(講師:森岡利行)
- 文字通りのアイドル育成企画。歌の指導を笠木新一が、ダンス・振付の指導を小野恵子が担当した。オーディションは真ん中に円形のステージがある部屋に行き、100人程度の男性の前で何かをする(何をするかの指定はない、自己紹介なし)形だった。優勝者は1日だけ日本武道館でアイドルとして活動できる。
- 歌の指導を担当した笠木が、学院生のあまりのレベルの低さに「もう降りる!!」と激怒したが、学院生が必死に練習したため降板は食い止められたという筋書き。
- バリバリ伝説(コーチ:藤本泰東)
- 鈴鹿8耐を目標にバイクレーサーを育てる企画。初回放送ではコーチの藤本は登場せず、オーディション会場にて特攻服を着た一部の候補生(番組では元暴走族と紹介された)が横柄な口調と態度で企画説明をしていた城島・山口を威嚇し、対立する様子が見られた。
- 企画タイトル名の由来は漫画『バリバリ伝説』。
- 男どアホウ大リーグ(コーチ:池田豪)
- メジャーリーガーの育成企画。初回放送で候補者の目の前で池田が、「日本球界の落ちこぼれ」と罵倒してスタートした。その後も甲子園優勝経験のある候補者に対して、「メジャーリーグの試合見たことある?」と挑発し、140km/hのストレートを投げる投手にも「140km/h、打ちごろ」と厳しい罵倒を繰り返した。最も有力視された候補生でさえ、最終的には現地のアカデミー止まりに終わった。候補生が、プロ野球OBの川口和久、駒田徳広と対決する審査があった他、特別コーチとして当時現役メジャーリーガーの吉井理人が参加したことがあった。結果はマイナー契約も含めて誰一人メジャーリーグの球団との契約を取れなかったが、高校中退の17歳の青年がフロリダ・マーリンズの練習生として呼ばれた(その後の消息については不明である)。
- 企画タイトル名の由来は漫画『男どアホウ甲子園』。
トークバトル系
- トーククラブ(出演者:神取忍、佐野実、オール巨人、大和龍門、竹原慎二)
- 『ファイトTV24・やればできるさ!』内の企画で、当番組の名物講師陣達が会場に集められた若者達(ほとんどが暴走族風、チーマー風の参加者であった)と討論とは名ばかりの罵詈雑言・口喧嘩合戦を繰り広げた。生放送であったが、放送禁止用語も何度か飛び交った。しかしその後、何の謝罪も無かった。その後の第2弾が「ガチンコ!全面抗争SP」でも放送された(第2弾ではオール巨人のみ不参加。変わってTOKIOからの主張も発表された)。不良達の他にオブザーバーとして良識派の大人達30名も参加となった。講師陣が会場に入場した際には良識派の大人達30名以外の参加者が興奮のあまり暴徒化し、収録が一時中断するという事態が見られた。
- 各講師による主張は以下の通り。
- 第1弾「討論テーマ:今の若者への怒り」
- 神取 「お前ら!もっと挑戦しろ!!」
- 佐野 「お前ら!あきらめが早い!!」
- オール巨人 「礼儀作法を身につけなさい!!」
- 大和 「お前ら!サムライじゃねぇ!!」
- 竹原 「仕事にプライドを持て!!」
- 第2弾(全面抗争SP)
- 大和 「お前ら腹切れるのか!?」
- 神取 「お前ら粋がってんじゃねぇ!!」
- 佐野 「おいお前ら!甘ったれんじゃねえ!!」
- 竹原 「お前らいつまでも群れてんじゃねぇ!!」
- TOKIO(城島・山口・長瀬) 「やればできるさ!!」
- 大和龍門大苦情(出演者:大和龍門)
- 「大検ハイスクール」「BE-BOP予備校」での大和の発言・行動が教育上不適切として、不良達と反大和派(大人と大学生達)がそれを糾弾する討論会として2週にわたり放送された。討論では時折、大和の発言や行動に関する話題から外れて反大和派と不良達との激しいいがみ合いが見られた。
頓挫された企画
- 結婚式、サーフィン、ストリートダンス
- 次週予告の終わりで参加者を募集していたが、誰も集らなかったのか結局一度も放送されなかった。
やらせ発覚
「ファイトクラブ」で取材先の責任者である竹原の腰に、“台本らしきもの”が挟まれていたという写真が週刊誌に掲載されるなど、当時から「やらせ番組」と言われることが多かった。そして2002年7月、写真週刊誌『FLASH』にこの番組で使われていた台本がそっくりそのまま掲載された。数々の物的証拠があがり、各コーナーで一般公募とされていた素人のはずの出演者が他のバラエティ番組にも出演していた事などから、多くの視聴者から典型的なやらせ番組と認識されることとなった。また番組終了後に、かつて『ガチンコ!』に出演していた人の何人かが、「台本はあった」「特定の役をやらされた」などと週刊誌[10] でやらせがあったことの証言や出演者の著書などで暴露されている。その結果、最終回においてスタジオの白いパネルに「ガチンコ!は一部ヤラセがありました。」と書かれていた、などという都市伝説が広がるまでに至った。
主にやらせと指摘された内容
- ドキュメント企画全体
- TOKIOと番組スタッフが訪問した時に、講師やTOKIOと塾生、または塾生同士のいがみ合いなどといった何かしらのトラブルが必ず起こっている。
- TOKIOと各企画の講師とスタッフとカメラマンが合宿等の部屋に潜入する際に、既にカメラクルー等が部屋に入っていた。その為、そこにいる出演者に何らかの指示を与えているのではないかとネット上で疑問を呈するコメントがあった。
- ファイトクラブシリーズ
- どんなに興奮してもTOKIOメンバーや番組スタッフにはほとんど手は出さない(ただし、威嚇をしていたことはある)[注 8]。その為、竹原などコーチや候補生との乱闘が起こることに対して同じ場所にいる国分・長瀬との乱闘は起きていない。撮影しているカメラマンやスタッフ等にも手を出していない[注 9]。
- コーチである竹原や特別コーチとして出演した畑山に対してはしばしば乱闘を起こしたり、悪態を突いていた候補生だったが畑山と同じく特別コーチとして出演した辰吉、坂本(第3シーズンのみ登場)に対してはそういった態度を取らず、乱闘を起こすこともなかった[注 10]。また、「I」と「IV」で他ジムで練習をすることがあったが、そのジムの練習生やプロボクサーに対しても乱闘を起こすことはなかった。
- 「II」の序盤にて、竹原が「ボクシング経験者であっても、ファイトクラブに入ったからには基礎からやる」と発言した際、ボクシング経験者である二期生の一人が「自分は経験者だから、一期生と同じトレーニングメニューでやる」と反発。これに対し竹原は「一期生の網野に勝ったら聞いてやる」と約束したが、二期生は網野泰寛のスパーリングに勝利。しかしその翌日、竹原は当初と同じく「基礎からやる」と主張。これに対して何故か同じく二期生であった藤野大作が反発し、竹原に詰め寄る様子が見られた。本来ならば網野とのスパーリングに勝利した二期生が反発するのが普通だが、スパーリングをしなかった藤野が反発するのは明らかに不自然な光景である。
- 「II」で二期生のMが合宿中に脱走したことをめぐり、国分・長瀬が脱走に対して黙認していた二期生の藤野を責め、一期生の網野もこれに加担したが、竹原が藤野の意見を支持し網野だけを叱責した一方、先に言い出したはずの国分に対しては何も言わなかった(しかし、『大検ハイスクール』では受験時期を延期すべきかどうかを巡り衝突した塾生同士を諌めた城島が、「確実に11月受けた方がいいって言うのもそれもありやと思うわ!」という旨の発言をしたところ、大和から「ここは俺、8月だと思うんですよ」と反論を受けている[注 11])。
- 「II」では、番組内で二期生の藤野と畑山がスパーリングを行う事となった際、予告編の映像では当時の現役世界チャンピオンだった畑山が情け容赦ないパンチで素人同然の藤野を何発も殴打するシーンが写ったが、次の回の放映ではその模様は放送されず、スパーリングの内容も反撃に転じた畑山のわずか一発のパンチでリングに沈む藤野という展開となった。(この際、スローモーション映像だった)
- 「IV」のオーディションで、梅宮成哲(現:梅宮哲)の隣に座っていた人物が梅宮に後ろ頭を叩かれ、「なにすんだよ!」と食ってかかり更に梅宮にねじ伏せられたが、反撃に出ようとした直後にダメージを受けているはずのない腹部を押さえて悶絶した。
- 「IV」のオーディションで、梅宮が同じ候補生達に向かい、「まとめてかかってこい!!」と叫ぶや一斉に候補生達が梅宮に襲い掛かったが、このシーンは事前に四期生候補者達(実はただの候補者役の出演者)と打ち合わせされていたものであった。事実、梅宮に飛びかかってきた候補生達は誰一人として梅宮に手を上げていない。この時、同じ四期生となることが決定されていた小谷伸也が先頭に立って梅宮に掴みかかっていたが、単に誰も梅宮に手を上げられない状況であることを見せ付けんがための演出であった。
- 「V」で、争いを止めに入ったスタッフらしき人物が五期生の権代裕典に台詞を教えているシーンがあった。これ以外にも、番組スタッフが台詞を教えているシーンが存在した。
- 「V」で、五期生に練習指示を出していたのは四期生の梅宮であった。同じ四期生が指導するのであればプロテストに落ちた梅宮などではなく、スパーリングで梅宮をも圧倒し、なおかつ四期生で唯一プロボクサー資格を得た白岩誠が行うはず。これはスポーツの世界では、ましてや格闘技であればあまりに不自然な光景である。あからさまにキャラクターの濃い梅宮の出番を、視聴率稼ぎのために作っていた。[注 12]
- 逮捕された五期生Tが番組内ではホストだと公言していたが、逮捕後の報道では実際は芸能プロダクションアルバイターであった。
- ファイトクラブ内で対立しているはずの一期生の網野と二期生の斉藤一平が、テレビ朝日系『おネプ!』に「立教大学アームレスリング同好会」のサークル員として一緒に出演していた。同じく番組内では対立しているはずの二期生の斉藤と四期生の梅宮が、沖縄の餅つき大会に仲良く招待されていた(当時の琉球新報にも掲載)[注 13]。
- 一期生の網野が、自らのブログ(旧ブログで現在は更新)で「ファイトクラブはやらせである」と語った。
- 二期生の藤野は、「やらせと思われたくなかったし、思いのままさせてもらった」と語っている。
- 大検ハイスクール・BE-BOP予備校
- オーディションにて、会場の周りで立哨していた警備員らは警備員の服装をした出演者だった。いかにも緊張した場であることをアピールするため、どのカメラにもやたらこの警備員達が映っている(なお、この光景は同種の人間が集まっていた「バリバリ伝説」の初回時には一切見られなかった)。
- 高校を卒業していないため、本来なら大学受験の出来ないK、T、N、Oの計4名の塾生が参加していた。大和はこの事に対し「お前ら、ホームラン級の馬鹿だな!」と発言した(4名の内、Nは後に辞退)。そもそも本来であれば、高卒または大検を取得していなければ、応募自体出来るはずがなく、仮に応募したとしても書類選考の時点で落とすのが自然であり、参加しているのはあり得ないシーンである。
- 山口がこの企画の3回目の放送で合宿を訪れた際、塾生の合宿生活の中での食事は何日間か経験しているのに対し、大和が恰も合宿生活初日時のように、授業終了時に夕食についての説明を塾生に対して行っていた。大和はこの事に対し、「メシ喰う時に『いただきます』が言えなかったらよ、メシ喰うな!!」と発言した。更に大和が「お前らもメシ喰ったら『ごちそうさま』だからな、それで自分の食器ぐらい自分で片付けろよ!」と塾生に注意したり、それに悪態をつく塾生の行為など合宿生活初日時のようなやり取りが見られた。
- ラーメン道シリーズ
- 「I」でMが一人だけ遅れをとって周りに迷惑をかけたくないという理由で自宅のアパートに引きこもり、佐野がMを連れ戻そうとした際にアパートに鍵がかかっていなかった。そもそも、誰にも顔を合わせたくないのに部屋の鍵をかけていないというのは不自然である。
- 「III」で(ラーメンの経験者の理由で[注 14])オーディションに落ちたN(後にラーメン道IIIの優勝者)、N、藤井の3人の熱意に根負けしてスタッフが会場の場所を教えたという理由で、その3人が次のロケに現れ入室まで許されただけでなく、Nはまるで用意してきてくれと言われていたかのごとくわざわざ自店の暖簾まで持参している。
- 「III」で落選し、後にラーメン道IIIの優勝者であるNが「一からやりなおす」と言って暖簾を折るシーンがあったが、後日発売された写真週刊誌に屋台と暖簾が写っていた記事があった。そもそも、落とされた者が暖簾を会場に持ち込むなど極めて不自然であり、予め『そこで暖簾を折ってください』という打ち合わせでもなければあり得ないシーンである。
- 「III」で最終決戦まで残った3期生の石塚和生[注 15]は、番組では「店を何店舗も持つ一流イタリアンシェフ」と紹介されていたが、後に石塚の著書『ありがとう。あなたがいてくれたから!』で「既に自分の店は破産手続きに入っており、別の店で一料理人として働いていたが、番組スタッフが突然店にやって来てスカウトを受けた」「佐野はオーディションの最後で『次回、その覚悟のある奴だけ来い!』と言っていたが、ADが(上記の3人を含め)9人に電話をかけて呼んだ」「ロケの際は、毎回TBSに集合してから事前打ち合わせを行い、そこからロケバスで向かっていた」「あらかじめストーリーは用意されていた」などと告白している。
- その他の企画
- 「アイドル学院」の講師である笠木が、学院生のレベルが低いとして辞意を表明する場面。
- 「バリバリ伝説」において、初回放送に有名なレーサーが暴走族風の素人として参加した件。初回のオーディションに国際A級ライセンスを所有しているレーサーが参加して見事当選した。しかし、なぜかそのレーサーは2回目以降は登場しなかった。番組スポンサーも、ホンダからヤマハに替わった。最終的にはそのレーサーではないが、レース経験のある2名で番組が進み鈴鹿8耐への出場枠を獲得した。そのような醜態を繰り返したためほぼ全てのバイクファンから反感を買われ、鈴鹿8耐において番組は一般抽選による応援席を用意したが、応募者はほぼゼロだった。そしてバイク関係のメディアからも好意的に扱われることは無かった。なお、スポンサー変更時に新しいメンバーとして召集され、8耐に出場した(無論、暴走族風の容姿や言動を強制させられていた)。レーサーの中には、現在も現役レーサーとして活躍中である浜口喜博がいた。
- 「一日一善隊」において、成年向け漫画家の舞登志郎が江川達也の作品をほとんど読んだことが無いにもかかわらず、江川に憧れる芽の出ない漫画家志望者と偽らされて企画に参加させられていた。舞登は当時既に商業誌デビューを果たしており、成年向けの単行本も出していたが、このことは伏せられていた。その後、その様子を舞登によって詳細に漫画化され、やらせの証拠の一つとなった。
- 「ビジネス学院」で講義を受けた生徒がスーツを着て採用面接に赴いた際、受験先企業の面接官が柔らかい口調ながらも生徒に対し、その経歴などを指摘して「親の脛を齧って」などと挑発し、受験した生徒がその発言に対して「そんな言い方は無いんじゃないですかね」「だったら始めから(面接に)呼ばなければ良いじゃないですかね」などと反論するシーンが放送された。現実に、受験者を挑発する「圧迫面接」とよばれる行為が横行していたのは事実だが、取材カメラが入っている中で面接受験者を挑発するような発言を露骨に発したり、それに対して真っ向から反論するのは面接時の遣り取りとしては双方ともあまりにも不自然である(全国にテレビ放送されており、企業のイメージダウンに直接つながる恐れが在るので尚更)。また面接にはワイシャツは白色、若しくは薄い水色の物を着るのが常識であるが、生徒が着ていたのは黒色のワイシャツであり、面接時に着用するには余りにも常識から懸け離れている色調だったことからも、やらせの可能性が高いと考えられる。
苦情
前提として1990年代から2000年代前半のテレビはドキュメントバラエティやリアリティ番組が非常に多く、フジテレビ系で放送された『愛する二人別れる二人』では出演者が遺書にやらせがあったことを書き残して自殺するなど、TBSに限らず民放全体でのやらせや過剰演出の恒常化が社会問題にまで発展しており、強硬な苦情が来て初めて番組が娯楽向けの演出であると弁解することが多々あった。本番組に対しても、「やらせではないか」というTBSの番組審議会への問題提議やBPOへの苦情があった。
TBSならびに製作担当者は、これらの苦情に対して回答を拒否した。そして、本番組が台本に基づいて演出を施された娯楽番組であることについても明らかにしなかった[11]。その後、後述の通りTBSは開き直り的な姿勢でやらせの事実を一切認めず[12]、証拠隠滅的に番組を終了させ、直後に番組公式サイトも削除した[注 16]。やらせがあった事実そのものを一切認めないというTBSの方針に基づきプロデューサー、総合演出などの主要スタッフに罰則的処分が下される事も無かった。
多く寄せられた苦情
- ダイエット学院での過酷なダイエット法。
- 大検ハイスクールで大和が塾生の髪を引っ張った後に水に濡らしたり、塾生達に「喧嘩しろ」と煽った後に腹を蹴る等の暴行。
- ラーメン道で佐野がスープを捨てる場面。
- ファイトクラブシリーズでのパワハラ、体罰に等しい練習法。
- 晩餐会での口汚い罵倒合戦。
- 晩餐会でのカップルの破綻の誘発。および、それを期待するかのようなTOKIOの煽り。
- 日本一モテない男での参加者の独身男性いじめ。
- バリバリ伝説での参加者の経歴詐称。
- 大げさなナレーション原稿。
- ※例えば「予想だにしない光景が!」「思いがけない事態に!」の先のシーンは、誰も驚くことのないような平凡な内容[13]。
- ※ファイトクラブIIの予告にて「次週、彼らをどん底に突き落とす!…」とされた次回では、一期生で唯一プロボクサーとなった宮崎太一が登場しただけであった。宮崎が一期生・二期生達とスパーリングを行い、ボクシング経験者である小松崎・箕浦康仁以外を圧倒したが、「どん底に突き落とす」どころか一期生・二期生達に良いきっかけを与えていた。
PTAの評価
本番組は、日本PTA全国協議会において親が子供に見せたくない番組の上位にランクインされていた。
「子供とメディアに関する意識調査」内『親が子供に見せたくない番組』(日本PTA全国協議会主催)
- 2001年度:3位
- 2002年度:3位
オープニング
多くのシンセサイザー、ミュージックシーケンサーなどの電子楽器とモニターがある中、エフェクターを触る白衣を着た男性と顔や首に何かをつけているアイマスクをした女性が映り、男性がつまみやボタンを押すと画面がフラッシュ。同時に女性が感電あるいは悶絶した状態が挿入され、男性が電子楽器のスイッチを押した直後にモニターが火花を散って大破。中年女性は怪獣のような野太い声を上げて気絶。そしてタイトルコールとともに破壊されたモニターが何故か修復し、画面には女性の口元を拡大した映像が映る。その後「WE DO THE JUSTICE」とアナウンスされ、CGで描かれたTOKIOのメンバーが表示される(クラフトワーク「人間解体」のアルバムジャケットのオマージュ)。「中年女性の持つパワーを最大限に引き出す実験」と説明されている。映像は薮内省吾監督。
放送開始初期は司会のTOKIOの顔がそれぞれアップされ、この番組の目的を語るシーンが冒頭に映るという演出だった。順番は以下の通り。
- 城島 「我々は...」※背景は青色。
- 山口 「この深刻な社会状況と...」※背景は水色。
- 国分 「真剣に格闘し...」※背景は黄色。
- 松岡 「苦しんでる人々を救う...」※背景は桃色。
- 長瀬 「正義の集団である。」※背景は橙色。
最終回
- 2003年に入り、番組自体のマンネリ化とやらせの事実が表面化し出してきたことにより、視聴率が下がり気味となったことと、TOKIOのイメージダウンにつながっていったこともあって[注 17]、それまでの「ファイトクラブ」をはじめとした過激な企画の一切を打ち切り、グルメ企画やドッキリ企画をメインとしたリニューアルを施したが、視聴率はさらに低下した。また、前述の通りTBSがBPOからの質問に対して回答を拒否した上でやらせの事実を一切認めず、番組を同年7月29日をもって放送終了した。
- 最終回はこれまでの企画を振り返る内容で、2週にわたって放送。各企画の参加者の近況報告なども盛り込まれた。また、ファイトクラブ4期生・梅宮が近況報告しようとした時には会場に居た不良達から挑発や野次が飛び、それを諌めた竹原と不良達との間で一触即発の乱闘騒ぎが起きた。最後は大和の歌で別れを告げた後、開始当初のエンディングテーマである「Yesterday's」が流れるエンドロールがあり、その後「ガチンコ死すとも、ガチ魂死せず」というテロップが出た。その後、最後のメッセージとして赤い幕が降ろされ、モザイクが施されたメッセージが記された白いパネルのようなものが現れてCMに入ったが、CM明けにその白いパネルのメッセージ部分は「ガチンコ!は永遠に不滅だ!」と表記されていた。
番組終了後
- 漫才道の講師を務めた巨人は、「やらせはしない、認めない」「漫才師は上下関係がしっかりしているから出演者同士の喧嘩は起きない」ということを番組スタッフに宣言しており、これを聞いた出演者達は巨人へのリスペクトもあって、実際にトラブルを起こさなかった。しかし番組ディレクターの中井康二はそれが気に喰わず(トラブルが起きないと視聴率が取れないため)、「ハイ、面白くない映像いただきましたー。視聴率が下がると思いますが、放送させていただきまーす」、と(オール巨人には文句が言えないため)若手お笑い芸人達に対し散々嫌味を言っていた。オール巨人は後に出版した自身の著書[14] で「態度の悪い芸人が別番組では真面目な好青年であり、やらせと確信した」「その後もやらせを要求され、激怒した」と記している。
- 2010年4月からTBSラジオで放送されている水曜JUNK山里亮太の不毛な議論のオープニングトークでは、ガチンコ漫才道の裏側と思い出話がたびたび登場する。それによると、
- 漫才道の出演者であった山里亮太はTBSと険悪になることを恐れ、また有名になるきっかけを作ったことから恩義を感じているので「演出」とややはぐらかして本番組に触れている。
- 足軽エンペラー時代山里の相方だった西田は、一般人だった頃は暴走族のヘッドを務めていた。普段は西田よりも礼儀正しく人間ができていた山里だが、漫才の打ち合わせや反省会では毎回キツい駄目だしを西田にしていたという。そしてある日の反省会にてついに西田の我慢が限界に達し、突如壁に拳をぶつけ怒りを露にした。これを機にコンビ仲は急速に悪くなり、最終的には西田から自転車を投げつけられるほど山里は憎まれてしまい、恐れをなしてコンビ解散となった。解散の別れ際、山里は西田から「山ちゃんは才能あるからさ、絶対辞めんなよ!」と励まされたらしいが、後年「足軽エンペラーを復活させたら?」とあるリスナーからメールが来ると「元相方(西田)が俺(山里)との再会を拒絶している(≒それだけ憎まれている)」と返していた。
- 漫才道の優勝賞品は「冠特番」と「単独ライブ」だった。しかし、漫才道の企画は視聴率が低く[注 18]番組サイドから邪魔者扱いになっていたため、単独ライブは場所だけを確保して「後はお好きにどうぞ」というスタンスをとり、その結果観客は数人しか来ず、山里の耳に聞こえてきたのはADの寝息だけだった。また冠番組もプライムタイムを約束していたがどんどんずれていき、最終的には放送開始時間は深夜3時すぎだった。
- その後、南海キャンディーズ結成後に再び特別番組に呼ばれた山里は、控え室を訪ねてきた中井ディレクターから「お前、面白いこと言えんのか?!」と聞かれ「言えます」としどろもどろに返した。中井は「わーってる(分かってる)よ! 今のお前なら大丈夫だからよ!!」と言って楽屋を去ったが、このやり取りを見た相方のしずちゃん(山崎静代)が「えらく失礼なディレクターやな」とぼやいたという。山里自身は、当時のことを自分なりに割り切っている様子で、今では中井がいい人だと思えるようになっているし、楽屋から去っていった様子も今思い返すと格好良く見えてくるようにもなった、とも発言している。
- ファイトクラブのコーチであった竹原は、「やらせは一切無い」と自ら反論し、台本とやらせの存在自体を完全に否定している。畑山も『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のボクシング予備校を例に挙げ「練習生を実力重視で選べば最低でも日本チャンピオンを輩出できた。それだけの逸材を集められる影響力を持っていた番組だったのにバラエティ映えで練習生を決めたのは勿体無かった」と発言している。
- 竹原は自身の公式YouTubeチャンネル『竹原テレビ』で、ファイトクラブに出演していた当時の練習生とトークをすることがある。
- 大検ハイスクール及びBE-BOP予備校塾長の塾長だった大和は元々当番組に出演する気はなかったが、のちに「(当時ほぼ無名だった)自分の名前と道場の名が一気に有名になり、自然と注目されるようになるのでは」と捉え、出演を決意したという。また、スタッフからは「自由にやってください」と伝えられ、「セリフ通りとかにできてれば、はっきり言った話、俺は役者やってるから。演じれないんだよ。“編集”あっての俺だから」と台本とやらせについては気にしていない模様である[15]。
エンディングテーマ
全てTOKIOの楽曲。
- 「Yesterday's」(最終回もこの曲が使われた)
- 「恋に気づいた夜」
- 「カンパイ!!」
- 「GREEN」
この番組により登場した有名人など
- 網野泰寛…ガチンコ・ファイトクラブ1期生。現在は華道家。
- 斉藤一平…ガチンコ・ファイトクラブ2期生。現在は俳優。
- 山中司…ガチンコ・ファイトクラブ3期生。現在も現役プロボクサー。
- 梅宮哲…ガチンコ・ファイトクラブ4期生。番組終了後は俳優業の傍ら、飲食店オーナーも務めていた(現在は廃業)。
- 石塚和生…ガチンコラーメン道3期生。現在はラーメン専門店「DueItalian」オーナー。
スタッフ
- ナレーション:垂木勉
- 構成:おちまさと、都築浩、鮫肌文殊、樋口卓治、渡辺哲夫、遠藤みちスケ、堀江利幸、鈴木しげき / 武田郁之輔、望月佐一郎
- リサーチ:フリード、フォーミュレーション、ニューズクリエイト
- 技術プロデューサー:両角誠、田熊克二
- SW:障子川雅則
- カメラ:元木宏、坂本逸朗、樋地秀雄、小林重徳
- 照明:星野仁志
- 音声:長谷川輝彦、藤田勝巳、大関満朗
- VE:藤崎康広、高山昌樹、東海林学
- 美術プロデューサー:中嶋美津夫
- 美術デザイン:高松浩則、中村綾香、坂根洋子
- 美術制作:渡邊秀和、佐藤隆男、与田滋
- 装置:淵脇臣吉、加来勇二、佐藤恵美
- 装飾:増田豊、高橋啓三、川原栄一、門間誠
- 電飾:斉藤貴之、真鍋明
- 衣裳:軽石真央
- 持道具:貞中照美
- メイク:アートメイク・トキ
- オープニングCG:薮内省吾、バンザイタカシ
- 編集:米山滋、村上健太郎、佐藤基紀、山中陽子、小岩拓也 / 前田純和、宮本康弘、加福大、石川哲、伊藤和幸、加藤昭信
- MA:村山巧、並木丈治、山下知康 / 前島真一、湯井浩司、佐々木美郷
- 音効:石川良則
- TK:南田めぐみ
- ホームページ制作:システム四季
- 宣伝:小林久幸/岡崎潤司、宮本和幸
- デスク:渡辺香織
- AD:勝田拓也、荒井美妃、田島優、塩谷泰孝、小岩井佑樹、中西正太、尾熊操、藤井敏嗣、高橋良郎、青木剛、桃澤準、新井伴英、大橋友寛、水口健司、池田五月、石原牧子、橋本慎司、小柳芳夫
- AP:鈴木愛子
- ディレクター:重藤尚志、佐藤実、住田崇、大松雅和、馬場哉、曵地伊智朗、三島圭太、田島浩之、田口健介 / 土井聡司、岡村勝久、中山幹雄、中井康二、坂本義幸
- チーフディレクター:津留正明
- 総合演出:合田隆信(初期〜中期) → 津留正明(後期)
- プロデューサー:吉田裕二(初期〜中期)→ 合田隆信(後期)/ 石野美知江
- 技術協力:八峯テレビ、オムニバスジャパン、ザ・チューブ、TAMCO、SPOT
- 美術協力:アックス
- 協力:ジャニーズ事務所
- 制作協力:ハウフルス
- 制作:TBSエンタテインメント
- 製作著作:TBS
関連項目
- 乱闘
- ここがヘンだよ日本人 - 同時期(1998年から2002年)に同じくTBS系列で放送されていた討論バラエティ番組。放送当時に主なクレームとして寄せられた出演者の品のない態度と言葉遣いや過激なアクション(暴言や喧嘩)、無名のタレント・劇団員・外国人(ほとんど稲川素子事務所所属のタレント)を素人という設定で出演させていたなど、所謂ヤラセと思われる要素が本番組と共通している。
- 中井正広のブラックバラエティ - ガチンコ・ファイトクラブのパロディである(バ)チ○コファイトクラブという企画を放送している。ナレーションは、本家ガチンコ!と同じく垂木勉が務めた。
- めちゃ×2イケてるッ! - 「メチャンコ俳優学院」という企画を放送していた。講師は本家の女優学院の講師だった井筒和幸監督。
- 極楽とんぼのとび蹴りゴッデス - 同じくガチンコ・ファイトクラブのパロディである「極楽拳闘倶楽部」という企画を放送していたのだが、演出からセリフ、ナレーションまで全てが酷似している。こちらの放送局はテレビ朝日である。コーチに飯田覚士が出演していた。極楽とんぼの二人組は、パクっていることを開き直っていた。他にもガチンコラーメン道のパロディである「極楽ラーメン道」という企画もあった。
- 有吉AKB共和国 - 「ガチンコAKBクラブ」と題して竹原慎二をコーチに迎え、AKB48研究生が他の研究生とつかみ合いをし、止めに入った竹原に食ってかかるといったパロディを演じている。ただし、内容は本番組とは無関係のグルメレポートが中心である。
- Mercy Mercy Me(The Ecology) - マーヴィン・ゲイの1971年の楽曲。毎回END画面の時に流れていた。
- だが、情熱はある - 2023年放送の日本テレビのテレビドラマ。第4話(2023年4月30日放送)において「ガチンコ漫才道」の映像が放送された。
脚注
注釈
- ^ 実質的には『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の素人応援企画のリメイク。しかし『元気〜』には所謂やらせはほとんど無く、飯田覚士のように本当にボクシングの世界チャンピオンになった人物などがいる。
- ^ ただし同映画はボクシングとの関係は無い。
- ^ どちらの事件も番組では全く言及されなかった。
- ^ 社会通念上ビジネスマナーにおいては立つことが難しい状況でなければ目上の人に座ったまま挨拶するのは失礼なことである。
- ^ 2回目の放送の際には巨人が「どっちが本当の彼(態度の悪かった芸人)なのか?」とスタッフに問い詰めた所、「どっちも本当の彼です」と弁解されたと説明した。
- ^ このことは番組では一切触れることは無かった。
- ^ 「蛍の光」の替え歌で、後に番組最終回でも発言した。
- ^ 稀に国分と長瀬に胸ぐらをつかむクラブ生が見受けられたが、いずれもスタッフに止められている。
- ^ ただし、二期生の藤野はカメラの撮影を止めるような威嚇をしていた。
- ^ 特に辰吉は、ボクシングに対しては非常に真摯なことで知られていたため、悪態を突かないように言い含めていたと思われる。辰吉は後でガチンコの内情を知らされ、気分を害して二度と出演しなかったと言われる。
- ^ ちなみに、大和も最終的には延期に賛成している。
- ^ 五期生がボクシングをなめていて、真面目にボクシングをやろうとする様子がなかったため、竹原は「お前らにはこいつら(プロテストに合格した白岩以外の四期生)で十分」と言って、梅宮達に指導を任せていた。
- ^ なお、網野はブログの記事の中で、今でも梅宮とはあまり関係が良くないことを示唆する発言をしている。
- ^ そもそも、最初からラーメン経験者以外の人を募集するのであれば、募集の段階で「ラーメン経験者以外の方のみ募集」と表記するのが自然である。
- ^ 番組内のテロップでは、「石塚和夫」と記されていた。
- ^ ただし、後年に同局で放送されている『爆報! THE フライデー』にて『ガチンコ!』に出演した人物の近況を取材した際には、本番組の映像が使用されている。
- ^ やらせに積極的に加担していたのではないかという疑惑を避けるため。企画自体がやらせであることを承知で撮影に挑んでいたことは確実ではあるが、企画の立案自体にはTOKIOメンバーは全く関わっていない。
- ^ この頃になると、企画内容や展開よりも番組内で過激なアクション(乱闘や口喧嘩)を起こせば起こすほど視聴率が上がるという風潮が定着していたが、先述の通り本企画はそういった演出をしにくかったため、人気が出なかった。
出典
- ^ 「バラエティー 平成の大世直し番組!?『ガチンコ!』 / 合田隆信」『新・調査情報passingtime』第17号、東京放送、1999年5月1日、36頁、NDLJP:3479807/20。
- ^ “[GACHINKO]ガチンコ! 放送内容”. TBS. 2001年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月18日閲覧。
- ^ “[GACHINKO] ガチンコ! 放送内容(2001/04/24 O.A.)”. 2001年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月18日閲覧。
- ^ 2001年10月30日放送分の楽曲リスト 公式ウェブサイトのインターネット・アーカイブより。
- ^ “エアガン撃って調子のってる愉快犯 |ミルクカフェ掲示板🐄”. milkcafe.net. 2023年1月18日閲覧。
- ^ “仙台市内のホテルに詐欺グループの男をかくまったとして犯人蔵匿の疑いで容疑者逮捕 – リラッシュライフ”. web.archive.org (2018年7月7日). 2023年1月18日閲覧。
- ^ https://r5eut15f.blog.so-net.ne.jp/2010-10-19-2
- ^ “元「ガチンコファイトクラブ」出演者、詐欺容疑で2度目の逮捕【画像・動画】”. web.archive.org (2019年9月16日). 2023年1月18日閲覧。
- ^ “大畠春美です。よろしく!!”. web.archive.org (2001年4月22日). 2023年1月18日閲覧。
- ^ FLASH EXCITING 9月15日増刊号(2006年)など
- ^ “TBS | Check! TBS”. TBS. 2002年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月18日閲覧。
- ^ “TOKIOのイメージ低下も……やらせ企画が横行した『ガチンコ!ファイトクラブ』 - エキサイトニュース(3/3)”. エキサイトニュース. 2023年1月18日閲覧。
- ^ “TOKIOのイメージ低下も……やらせ企画が横行した『ガチンコ!ファイトクラブ』 - エキサイトニュース(2/3)”. エキサイトニュース. 2023年1月18日閲覧。
- ^ 師弟〜吉本新喜劇・岡八朗師匠と歩んだ31年〜(2012年・ヨシモトブックス)
- ^ “大和龍門 伝説のバラエティ番組「ガチンコ!」の舞台裏を全告白「TBSに相当クレームが入った」 (2015年3月25日)”. エキサイトニュース. 2023年1月18日閲覧。
外部リンク
- ガチンコ!公式サイト(インターネットアーカイブ)
TBS 火曜21時枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
うたばん
(木曜20時台へ移動) |
ガチンコ!
|
ガチンコ
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ガチンコは、大相撲やプロレスにおける「真剣勝負」を意味する隠語である。
同義語はガチ、シュート(英語: shoot)、セメント、ピストル、コンテスト。反対語は「八百長」、大相撲においては「注射」、プロレスにおいては「ケーフェイ」、「ワーク」などと呼ばれる。
語源・用例
- ガチンコ
- 本来は相撲界の隠語で、語源は力士同士が激しく立合いを行った際、「ガチン!」と音がするところから、真剣勝負を表す隠語として使用されるようになった。八百長とは縁のない力士のことを、俗に「ガチンコ力士」と呼ぶ。
- 1950年代に力道山が角界からプロレス界に身を投じて以降、大相撲の慣習・文化が多数取り入れられた日本のプロレス界においても、同様の意味で用いられるようになった。
- セメント
- ガチンコと同義。語の由来は接着剤「セメント」が「ガチガチ」に硬いことからなどとされているが定かではない。

- シュート(英語: shoot)
- アメリカで誕生したプロレスの隠語であり、カーニバル(祭礼)の射的にその由来がある。シュートを表すジェスチャーである人差し指と親指を立てたハンドサインは「シュート・サイン」、または「シューティング・サイン」と呼ばれ、即ち拳銃を模したものである。日本のプロレス界でも1980年代後半から1990年代にかけてこの用語が使われ始め、真剣勝負を意味するガチンコやセメントとの類語・同意語として広く普及した。なお、シュートを行えるレスラー(プロレスの選手)を「シューター」や、特にそこで使われる関節技の技術に長じたものを「フッカー (hooker)」と呼ぶ。かつてダニー・ホッジが「キレると何をするかわからない」という悪癖から稀代のシューターとしてレスラーの間で恐れられていた。用語の使い分けとしては、試合内容についてはガチンコ、リング外での本気の仕掛けをシュートと呼ぶ場面がしばしば見られるが、明確には使い分けられていない。アメリカではリング内外どちらもシュートと表現する。語句としては「シュートマッチ(セメントマッチ)」「シュート(セメント)を仕掛ける」などが一般的用法である。
- ピストル
- 女子プロレスではピストルと呼ぶのが一般的である。これは全日本女子プロレス創始者である松永高司が提唱したものである。
概要
相撲
近代において相撲はスポーツであり、本場所での取り組みはすべて真剣勝負、つまりガチンコであることが建前上は当然とみなされている。これに対して、地方巡業などの本場所以外での花相撲ではあえてガチンコをとらず、無気力相撲ともとれる取り組みや地元出身力士に花を持たせるような取り組みが度々行われている。これは花相撲が興行的な側面が強いイベントであり勝敗も番付に影響しないこと、相撲がもともと過酷な格闘技であること、などの理由がある。昭和前期の大関名寄岩には「花相撲で部屋の横綱である双葉山に勝って師匠に怒られた」という逸話がある。
大相撲の真剣勝負性に関しては、そもそも格闘技で年90回(十両以上は1場所15番×年6場所)もガチンコで試合を行うというのはアスリートの肉体的に無理であり、それを行おうとすれば力士の生命に対する危険はより高くなってしまうという意見もある[1]。
また、古くから人情相撲というフレーズもある。
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
プロレス
1920年代にエド・ルイスらが「トラスト」と呼ばれるプロレスラーの組合を結成して以降、プロレスはブックと呼ばれる事前の打ち合わせに基づいて試合が行われるようになった。しかしながら選手間の人間関係の悪化などの理由により、しばしばその打ち合わせを無視して試合が進行する場合がある。このような試合をガチンコやシュートと呼ぶ。この隠語の発祥の地であるアメリカでは、リング内の真剣勝負のみならず、リング外でのストーリー破りもシュートと呼んでいる。また、レスラーは試合をファンによる乱入により妨害された場合には、乱入者に容赦ない攻撃を加えることがあるが、アメリカではこれもシュートと呼ばれる。日本ではリング内はガチンコ、リング外はシュートと呼んでいたが、リング内での真剣勝負もシュートと呼ばれる機会が増えている。
ガチンコが誘発される「人間関係の悪化」の要因は様々である。古くから存在する要因としては、金銭トラブルなど当事者のプロレスラー同士にプライベートでの直接の怨恨関係があった事例、プロレス団体が事前に設定したアングルやブック(特にタイトルマッチや、グリーンボーイの売り出しに絡む試合)に当事者のプロレスラーのどちらかでも納得しないまま強引にマッチメイクが行われてしまった事が遠因となっている事例が挙げられる。
プロモーターにとって意図しないシュートは「商品」であるプロレスラーの価値を下げる行為であるため、プロモーターの許可なくシュートを行ったレスラーに対して「制裁」が加えられることがある[注釈 1]。
日本では、メジャー団体経験者にローカル・インディー団体や学生プロレス出身者が挑むケースなど、試合を行うプロレスラーの実力差が極端に大きい場合、強者の側が単純な制裁目的で弱者側に一方的な攻撃を加え続けるしょっぱい試合に限りなく近いガチンコの他、弱者側が練習不足などの要因により難易度の高いプロレス技を危険な角度で決めてしまったり、打撃技をダメージの大きな当て方で当ててしまった場合(俗に「カタい」攻撃とも言われる)に、強者側が逆上する事で全く突発的にガチンコが始まってしまう場合もある。近年ではブログやSNS等における弱者側のプロレスラーによる日頃の発言や態度が遠因となり、強者側による制裁じみたガチンコが発生する事例も散見される。
ガチンコは実際にストリートファイトのような潰し合いが始まってしまった試合だけでなく、(睨み合ったままいつまでも試合が進行しない、不可解な挑発が行われた末に相手が試合を放棄してしまう等の)明らかにブックに則っている進行とは思えないような異常な展開を辿った試合に対しても、「不穏試合」といった名称で認定される事も少なくない。
シューターに分類されるプロレスラーが絡む試合の場合、相手の実力を試すなどの目的により、シューターの任意の判断で意図的にガチンコが仕掛けられる場合もある。また、プロレス興行を企画するプロモーターは、自身との間に何らかの遺恨を抱えたプロレスラーを制裁する目的や、実力が未知数のプロレスラーを試す目的で、こうしたシューターを用いたマッチメイクを行う事がある。
シュートは選手の格やマッチメイカーによって試合の勝敗をあらかじめ決めることなく、両者の実力によって決着を着ける意としても使用されることがあり、佐山聡が創設した総合格闘技である修斗及び立ち技格闘技のシュートボクシングの由来となっている。
「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司」によると全女の試合は基本的にシュート(ピストル)で行われていた。また、デビル雅美も「kamipro」146号誌上において「タイトル戦はシュートだった」と語っている。プロレスにおける実力主義についてはストロングスタイルも参照。
ただし、シュートという概念はそれ自体がアングルとして用いられることもあり、上記の試合についてそのような見方をする人も少なくない。このアングルをあたかもシュートであるかのように見せる手法は、海外では「ワークト・シュート(Worked shoot)」と呼ばれストーリーを盛り上げる演出としてポピュラーなもののひとつである。
有名なシュート事件
セメントマッチ
- 1925年のウェイン・マン対スタニスラウス・ズビスコ
- 「マッチメイク破り」としては史上最古の例と伝わる。マンが勝つ筋書きになっていたところズビスコが「ブック破り」を行い、シュートの実力で劣るマンを一方的に攻め、フォールしてしまった。旧NWAの世界タイトルマッチの体で行われた試合での出来事であったためズビスコは関係者から危険人物とみなされるようになったが、一方で事情を知らない一般のファンからは多大な人気を集めた。この反省を活かして旧NWAはシュートに対応できる実力者を王者にするようになったと言われている[2]。
- 予定では引き分けで終わるはずであり、試合も途中までは相互に技を掛け合う普通のプロレスとして進行していたが、木村の蹴りが力道山の金的に入ったように見える場面の直後、力道山は豹変し、突然本気のパンチを浴びせる「ブック破り」を行うと、困惑する木村を一方的に打ちのめした。成り行きに多くの謎があり、その後も両者の間に禍根を残したことから、多くの作品の題材とされた。
- また、この日の興行の前座では、芳の里が対戦相手の市川登(全日本プロレス協会所属)に不意打ちで数十発の張り手を見舞い昏倒させるシュートを仕掛け[3]、昏倒した市川は脳に重い障害が残り1967年末に死去。この突然の暴挙は、当時絶対的に逆らえない存在であった力道山からの命であり、「市川を殺せ」と食事のたびに何度も繰り返し言われていたという[4]。
- 1964年10月16日のルー・テーズ対大木金太郎(キム・イル)
- この試合は「セメント返し」の試合として有名。ヒューストンで実施されたNWA世界ヘビー級王座戦で王者テーズに挑戦した大木はセメントを仕掛けたとされるが、大木が逆に返り討ちに遭って顔面を24針も縫う惨敗を喫したというもので、当時の現地専門誌『レスリングビュー』誌や、日本でも東京スポーツでも報じられ「ヒューストンの惨劇」と呼ばれている。試合は60分3本勝負で行われ、1本目の18分過ぎからの大木の妙な頭突きラッシュに怒ったテーズがヘッドロックに捕らえて顔面パンチを乱打。大木は右目の上と前頭部を切り流血させられ、バックドロップを食らい返り討ちにあった。2本目の試合続行が不可能となった大木は担架で運び出され、救急車で病院送りになった。
- 後年、大木がセメントを仕掛けたのは、世界王座を奪取を条件としたとある密約話があったからだといわれたが、大木は1964年6月に朴正煕韓国大統領に招かれて大統領官邸の青瓦台裏に剣道練習所を改造したキム・イル道場を充てがわれるなど全面支援を約束されていた。テーズ対大木は他のテリトリーのプロモーターらにとってはどうでも良かったのであったが、ヒューストンのプロモーターであるモーリス・シゲールのみが熱心であった。このときシゲールがテーズ対大木をマッチメークしたのは朴の意を受けた工作員の暗礁とされている。朴大統領から先の約束に対して大木に課せられた使命が力道山の名の襲名と世界王者としての凱旋だとされており、実際に大木は力道山亡き後の「(二代目)力道山」襲名を当時プロレス協会長の児玉誉士夫らを後ろ盾にして要請。これに対し当時の日本プロレス社長であった豊登は世界王座もしくはそれに準ずる王座奪取のあかつきにはとの付帯条件を付けてしぶしぶ了承したとし、後に半強制的に約束させられたとの証言がある。セメントをしかけられた相手のテーズは容赦なく大木を粉砕。結果としてこの計画は水泡に帰することとなった。
- 1964年11月24日のミスター・カジモト(アントニオ猪木)対 チーフ・アール・ライトフット
- 猪木武者修行時代にポートランドで起こしたこととして取り上げられている「目玉くり抜き事件」[5]で、猪木と対戦した相手のライトフットは新進気鋭のインディアンレスラーらしかったがデビュー間もないズブの新人だったという。試合中に何もできないライトフットが焦りからか〝やってはいけないこと〟をやったとされ、それに対して猪木が素人レスラーへの報復に眼に指を入れたとしている。シアトルのプロモーター、ハリー・エリオットの証言によるとルール度外視の喧嘩マッチと化し、ライトフットが場外昏倒し、顔面に大ケガをして病院送りになった。このライトフット戦で猪木が同地区から追放処分になったとしている。
- 猪木とライトフットはこの後12月2日にもタコマでシングルマッチとバトルロイヤルの決勝で対戦し猪木が2戦とも勝利。以降のライトフットは二度とリングに復帰せず、2年後の33歳のとき、何者かに射殺されている。
- 1973年3月8日の桜田一男対大城大五郎
- ジャイアント馬場とアントニオ猪木が抜けた日本プロレスは、坂口征二と大木金太郎がエース格として奮闘していた。日本プロレスの中継番組であり、低視聴率にあえいでいた『NET日本プロレスリング中継』の放送局であったNETテレビ(現:テレビ朝日)は、新日本プロレス中継への変更並びに猪木・坂口合体プランを進めており、1973年1月に新日本プロレスとNETテレビとの間で最終合意に至り、同年2月には猪木・坂口・NETによる合併記者会見を一旦は行った。しかし、韓国に帰国していた大木がこの提案に反発して、これに追従する形で新日本との合併に合意していた選手会や幹部が決定を翻してしまった。坂口はNETテレビの意向と決定を重視したうえで日本プロレスの退団を表明したうえで、坂口に近い小沢正志、木村聖裔、大城大五郎、レフェリーであった田中米太郎を引き連れて新日本プロレスへ移籍する事を決定した。この坂口一派の行動に対し、日本プロレス残留組は「裏切り者」として坂口、小沢、木村、大城に対して試合においてセメントを仕掛けて制裁を企てた。中でもセメントに強かった桜田は、大城に対してセメントを仕掛けることを決断する[6]。
- 試合当日、坂口、小沢、木村、大城、田中は残留組とは別行動で興行会場の栃木県佐野市へ入り、同市内のビジネスホテルを控室代わりにした。試合は、桜田が積極的にセメントを仕掛けて大城を顔面流血に追い込み、桜田がKO勝ちを収めた。坂口は試合終了後に大城の救出に向かおうとしたが、行けばその場で残留組に袋叩きに遭うだろうと危惧した小沢と木村によって制止させられた[7][8]。坂口、小沢、木村、大城、田中はメインイベントである高千穂明久VSジョニー・バレンタインのUNヘビー級選手権戦を見届けることなく新日本プロレス道場へ直行した。
- なお、この試合以外にも新日本プロレス移籍組への制裁目的のセメントマッチが画策されており、6日前の同年3月2日の横浜文化体育館で行われた、坂口対ジョニー・バレンタインのUNヘビー級選手権戦でも、日本プロレスの幹部が「特別ボーナス」でバレンタインを焚き付けて、坂口に対する制裁目的のセメントマッチを画策していた。しかし、バレンタイン側はこれに応じず、試合では坂口が敗れてUN王座からは陥落したものの、日本プロレス幹部や残留組が期待していた制裁マッチにはならなかった[注釈 2][9]。
- この試合翌日には、NETは日本プロレスの中継を打ち切り、新日本プロレスの中継へ変更することが正式に発表され、収録された佐野大会は『NET日本プロレスリング中継』の最終回となってしまった。スター選手が相次いで離脱し、テレビ中継も失った日本プロレスは同年4月に崩壊した。
- 桜田は日本プロレス崩壊後は全日本プロレスへ移籍したが、1985年に退団したと同時にフリーとなり、ランボー・サクラダへ変身して新日本プロレスへ参戦し、坂口や木村ともコンビを組んでいる。大城は1978年に新日本プロレスを退団した。
- 1974年8月31日のジョージ・ゴーディエンコ対ローラン・ボック
- 西ドイツのプロモーターであるグスタル・カイザー[10]は、希代のシューターとして知られていたゴーディエンコとの試合をマッチメイクし、ゴーディエンコにボックに対するシュートを仕掛けるように命じた。これは前年デビューした新人であるボックの実力を試す目的があった。ミュンスターで行われたこの試合は、ゴーディエンコが何処まで真剣に相手を叩き潰せるかをカイザー自身が確認する意図も含まれており、プロモーター側が関与したシュートマッチの実例として知られている[11]。
- カイザーの主宰するIBV(Internationaler Berufsringkämpfer Verband[12])は、1974年7月から10月に掛けて西ドイツ各地を転戦する大規模な興行を展開していた[13]。同年7月22日からこのツアーに参戦したボックは前年デビューの新人ながら8月末までに7割を越える驚異的な勝率を記録しており、ゴーディエンコともこの試合までに9回対戦し、5勝4敗と勝ち越している状況であった[14]。
- ボックの回想によると、試合開始直後からゴーディエンコが骨折させることを意図した関節技を仕掛けてくるなど、「今までの試合とは明らかに異なるおかしな展開」を辿ったという。シュートマッチであることを察知したボックは、自らも同じスタンスで挑んだ。結果的にゴーディエンコが勝利するものの、自身も足首を骨折する重傷を負い、事実上選手生命が断たれる(1975年は1試合も行えず、1976年に引退[15])ことになったという。ゴーディエンコはボックのシューターとしての実力を認め、試合以降二人は親友となった。そして、ボックもまたゴーディエンコと同じく、希代のシューターの一人として他のプロレスラーから恐れられる存在となっていった[11]。
- 1975年の坂口征二対大木金太郎
- 前述の桜田対大城のセメントマッチの背景にあった坂口らの日本プロレス離脱、新日本プロレスへ移籍した際に受けた旧日本プロレス選手会組(特に大木)の仕打ちに対して遺恨が残る形で、日本プロレス崩壊後に新日本プロレスで行われた遺恨試合である。
- 日本プロレス崩壊後に一時、全日本プロレスに合流していた大木金太郎はマッチメイクなどの扱いを巡り、全日本に不満を持つ形で日本テレビとの契約期間中に離脱。一時韓国に戻った後に1979年3月に再び日本に戻った大木は、馬場に加え、アントニオ猪木、ストロング小林に対し対戦を要求。猪木がこれに応じる形で同年10月10日に猪木との対決が実現し、以降は新日本プロレスに継続参戦していた。
- そのような中で、1975年に新日本プロレスで行われる「第2回ワールドリーグ戦」の韓国代表として大木がエントリーされた。「ワールドリーグ戦」では猪木や坂口も総当たり戦で対決となるため、日本プロレス離脱時の遺恨を残す坂口と大木の対戦も組まれることとなった。既に大木の新日本参戦時から、坂口は過去の経緯から大木に対して強烈な不快感を示しており、大木がプロモートする新日本の韓国遠征にも坂口は招聘を拒絶し、猪木は韓国遠征のメンバーから外している程であった。大木のワールドリーグ戦参戦表明を受けて、対戦前から双方が挑発しあうなど非常に険悪なムードで、テレビマッチで中継の解説席にいた大木を坂口が襲撃する事態が起きるなど、不穏な状況を孕んでいた。
- 4月25日の福山大会に両者の予選公式戦が行われたが、事前に裁く予定であったミスター高橋がレフェリングを拒否する異例の事態となり、日本プロレス関係者にレフェリーを依頼するもことごとく拒否されて難航し、結局豊登が臨時にレフェリーを務める事となったが、マスコミによる「ワールドリーグ監視委員会」が「臨時レフェリーで行う事は異常な試合であることを認めた」とクレームを付けたため、結果的に高橋が裁くことになった。試合は予想通りビンタで殴り合うなど大荒れの展開となり、最終的に場外で両者が椅子で殴り合うなど収拾がつかない状態となったため、監視委員会の櫻井康雄の裁定でノーコンテストとなり、改めて5月9日の高松大会で再戦が組まれることとなった。
- 高松の再戦でも場外で両者が椅子で殴り合う乱闘となり、坂口の強烈な椅子攻撃を頭に受けた大木が錯乱状態となって場外から戻れず、坂口のリングアウト勝ちとなった。
- 予選結果で2位が猪木、坂口、小林、大木の4人が同点で並んだため、決勝進出者を決めるトーナメントが行われる事となったが、大木が坂口との再戦を懇願したため、監視委員会により大木の希望通りに坂口との対決が組まれた。5月6日の日大講堂大会での3度目の対決も両者殴り合いのセメント・マッチとなる大荒れの展開となり、場外乱闘の末にノーコンテスト裁定で両者失格となった。坂口は前年に続き、決勝進出を逃す形となった。
- 大木はこの試合を最後に新日本を事実上離脱し、同年9月には馬場への対戦を要求し全日本プロレスに参戦した。以降は両者の対戦はなくこの遺恨試合は結局この3試合のみに終わっている[16]。
- 後に新間寿は、この大木対坂口戦について、このカードが行われる以前に、電車の中で偶然を装い二人を対面させ和解させていたので、喧嘩ファイトとして知られているが、この試合はあくまでプロレスの範疇だったとしている[17]。
- 1976年2月1日のミル・マスカラス対ホセ・アサリ
- グアテマラで行われたALLL王座決定トーナメントで勝ち進んだ両雄が決勝で対戦の際に、大会のプロモーターでもあったアサリが試合途中でシュートを仕掛けたという。
- マスカラスの相手であるアサリは「チアントラの虎」と呼ばれたグアテマラの英雄レスラーで、シュートも得意としていた。またマスカラスと同様に1964年の東京オリンピックを目指していたがプロに転向したという経歴を持つ。
- そのまま数分間グラウンドでの展開で進行し、マスカラスがアサリの腕を固め逆関節を極めて試合を終わらせることになる。この結果地元の大英雄の敗戦で会場のテオドロ・パラシオス・フローレスに集まった4万強のファンは失望し、その後主催した興行会社も負債を背負って倒産している。
- 1976年6月26日のアントニオ猪木対モハメド・アリ
- 当時のプロボクシング世界ヘビー級王者であったモハメド・アリが「俺に挑戦する奴はいないのか。相手はレスラーでも誰でもいい」というリップサービスを行い、それに猪木が呼応したことに端を発する。後日実現した試合では双方が終始相手のスタイルに付き合わず、「世紀の凡戦」と痛烈な酷評を浴びた。
- しかし近年になって、事前に交わされた契約交渉の段階から既に激しい摩擦があったことが関係者の口から明らかになっている。また、試合中猪木に執拗に脚部を蹴り続けられたアリは血栓症を発症、帰国後治療のため入院を余儀なくされた。
- 結果としてこの対戦によって猪木は『モハメド・アリと闘った男』という世界的な知名度は得たものの、多額の負債を背負うことになる。アリは前述の血栓症が原因ともいわれる体調不良からスケジュールを狂わせるなど、両者共に決して実り多きものとはならなかった。
- 1976年8月7日のウィレム・ルスカ対イワン・ゴメス
- 新日本プロレスのブラジル遠征で行われたこの一戦はセメント試合に発展しバーリトゥード戦と化する。
- 同年の2月にアントニオ猪木と激闘の末、敗れたルスカは再戦を迫っているという体裁で新日本のブラジル遠征に参加。遠征初日のリオデジャネイロ市マラカナン体育館に約7000人の大観衆を集めた大会。メーンでのカードとしてそこで組まれたのがこの一戦。
- ゴメスはカーウソン・グレイシーからグレイシー柔術を学び、1974年12月に新日本がブラジル遠征した際に王者と称して新日本へ接触を試みる。お互いの寝技や関節技に関し、自分らと異なる、見知らぬ技の存在に興味を持ち猪木に弟子入りする。同年から約2年間、留学生という形で新日本にてプロレス修行を積み、ブラジルでバーリトゥード王者に君臨。当時バーリトゥードはレスリングや柔術をベースにして素手で戦う実戦的格闘技を称していた。UFCなどで認知される迄、専門誌では「バリツーズ」などの表記がなされていた[18]。
- 後年この試合に触れたルスカは、3分程でKO勝ちしたとの認識も加味して思いのほか印象が薄く、記憶はおぼろげだと述懐した。また試合に先立ち、アントニオ猪木からは出来る限り試合時間を長くしたほうが良いとアドバイスを受け、じっくりと展開するつもりであった[19]。
- しかし、開始早々ゴメスのパンチ攻撃に、ルスカも呼応して顔面に右ストレートを叩き込みはじめる大荒れの様相となる。ルスカの放つ顔面への鉄拳攻撃で、ゴメスは右目尻から大流血。ゴメスが寝技にもちこみルスカをフロントネックロックで捕らえるが、ルスカもゴメスの体に覆いかぶさる。かくしてプロレス興行の場で、柔道出身者同士のバーリトゥード形式による異種格闘技戦となった。
- その後、エプロンサイドでゴメスがルスカの背後に回り、スリーパーを極めた状態のままルスカの首を絞め続けた。そして、9分03秒でエプロンカウントアウトの裁定が下される。体がリングから出ていた為、ゴメスのエプロン位置における10カウントでのリングアウト負けと判定。この裁定は専らレフェリーが壮絶な試合を終わらせるための処置だとされている。
- 地元の英雄の敗退とプロレス流の不可解な裁定に観衆は激怒し、不服な様子のゴメスと観客の怒りを猪木が収めた(当日、猪木はアベ・ヤコブに勝利[20])。
- この結果リオデジャネイロ市体育協会が、レフェリーを務めたミスター高橋とルスカに対し「ブラジル国内でのあらゆるスポーツに永久出場停止」という処分を下したとされる。なおゴメスは9針を縫う重傷を負った。
- 一方のルスカは猪木からポケットマネーによる小遣いを支給され、観光旅行を楽しんだという[19]。
- 白夜ムック「マット界スキャンダル『機密文書』」(白夜書房、2005年 ISBN 978-4861910425)での、ライターの渋澤恵介の見解ではルスカの優勢勝ちであり、注釈にて「そのまま試合が続けばダメージが大きいゴメスをルスカが破った可能性が高い」と記している。
- 月刊プロレス1976年10月号によると、遠征ではこのほか2大会が行われ、ゴメスはその後ストロング小林、木戸修と対戦。如何しても負けたくないゴメスはセメントを仕掛け勝利している。
- 1976年10月9日のアントニオ猪木対パク・ソン
- 1976年12月12日のアントニオ猪木対アクラム・ペールワン
- アントニオ猪木が行ったパキスタン遠征(前述のアリ戦で背負った多額の負債返済のためといわれている)で起きた、当地で英雄と称えられていたレスラー、アクラム・ペールワンとの対戦とそれに纏わる事件。全くのノーブック・マッチであったとされ、それについては当時猪木に同行した藤原喜明やミスター高橋など複数の関係者が明言している。なお、この「ノーブック勧告」は試合の数時間前に初めてペールワン陣営から突き付けられたという。単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は全く不測の事態だった。
- 試合は、ラウンド初めからロックアップし普通に組みあって進み、グラウンドに移行する展開。
- ラウンドが進むにつれ、グラウンドに移行後、両者が噛み付きや目突き(ペールワンは片目を失明したといわれている)などを応酬する凄惨なものになり、最終的には猪木がペールワンの腕をアームロックで脱臼させ勝利を収めた。ブレイク後、猪木は「折ったぞー!」と雄叫びをあげ、リング上でもみ合う両陣営の関係者を押しのけるように両腕を高々と振り上げた。このことについてミスター高橋は自著の中で「リング上で叫ぶ猪木の表情は、すでに正気のものではなかった」と述懐している。また、猪木のセコンドについていた藤原の弁によれば、ペールワンの勝利を信じて熱狂的な声援を送っていた観衆が一気に静まり返るのを感じ「もう俺たちは日本に帰れない」と絶望感を覚えたという。猪木本人は興奮のあまりほとんど記憶がないとのことだが、ふと我に帰った瞬間ライフルを携えた兵士の姿が目に入り、急に恐ろしくなったと『リングの魂』内の談話で述べている。
- 試合後の猪木は憔悴しきった様子で「あいつ、(アームロックが極まっても)参ったしないから…」と語り、終始表情は曇ったままであった。
- なお猪木は引退後、この試合が収録されたDVDの中で当時のことを解説している。ペールワンの腕を脱臼させたことについては、「僕はレフェリーに『折れるぞ。試合は終わりだ』と言ったんですが試合を止めないし、相手(ペールワン)もギブアップしない。それで思い切って力を入れたら、腕がバキバキと音を立てて折れてしまった」と述べており、あくまで事態を終息させるための最終手段だったという。その一方でペールワンに仕掛けた目突きのように見える行為は「フェイスロックを極める際の流れがそう見えるだけで、反則(目突き)ではない」としている。
- この試合の結末が影響してか、ペールワンの兄であるアスラムと猪木が対戦する予定だった第2戦は中止になった。
- 1977年12月8日のアントニオ猪木対グレート・アントニオ
- 1961年に日本プロレスに来日し、路線バスを引っ張るなどのパフォーマンスで話題を集めたグレート・アントニオを新日本プロレスが16年ぶりに招聘、猪木とのシングル戦をマッチメイクした[注釈 3]。新日本プロレスは、もともと招聘予定の無かったアントニオが突如来襲したという設定でシリーズ開幕戦に乱入させ、日本プロレス時代と同様のバス引きパフォーマンスを行うなどの話題作りを図ったが、当時52歳のアントニオは16年前より体力が衰えており、北米でも1971年を最後に試合を行っていなかった[22]。折しも同時期、ライバル団体の全日本プロレスは世界オープンタッグ選手権を開催中で、話題を集めていた。
- このような背景の下で始まった試合は、ゴングの後しばらくの間は猪木がアントニオのコミカルな動きに付き合おうとする姿勢を見せるが、アントニオは猪木の攻撃に付き合わない。アントニオが猪木の背骨に対して強烈なハンマー・パンチを数発見舞った直後、猪木はアントニオに強烈なビンタを放ち、さらにアントニオをタックルで転倒させると、その顔面にサッカーボールキックを連発。さらにストンピングを浴びせるとアントニオは鼻骨を折られ戦意喪失してKO負けとなった。結果として、アントニオ戦は猪木のレスラー史上最も凄惨なシュートマッチとして記憶されることとなった[23]。
- 1983年3月23日の藤原喜明対キラー・カーン
- テレビ中継もない新日本プロレスの地方大会で、当時前座選手にすぎなかった藤原がスター選手のキラー・カーンを手玉に取った試合。
- 開始早々、藤原はいきなりカーンに殴りかかり、そのままコーナーに詰めてラッシュをかける。カーンの顔面が腫れ上がるがそれでも決して倒れなかったため藤原は一方的にグランドに引き込み関節技を仕掛けるなど、カーンは防戦一方になってしまい、明らかなブック破りで見かねた長州力とマサ斎藤が乱入し、強引に試合を終わらせている。
- アメリカのWWF地区でアンドレ・ザ・ジャイアントの脚を折った男として凱旋帰国したカーンは、当時スーパースターとなり[24]、MSGにおける1試合あたりのギャランティーの額など自慢話をするカーンに藤原は苛立っていた。そのため、カーンが試合でリングに上がる際、藤原は梯子を故意に逆さに出すなどの嫌がらせをしている。そのことにカーンは怒り、宿舎に戻っても二人が揉めていたため、リングで決着をつけろという猪木の鶴の一声で、翌日急遽試合が組まれることになったという。
- 対戦カードが正式に伝わると試合前の合同練習に藤原の姿はなく、藤原はひとり体育館の大きなカーテンを結んでサンドバッグ代わりにしボクシングの練習を始め、その後も若手選手にミットを持たせてパンチの練習ばかりしていたという。
- 1983年11月3日、蔵前国技館での前田日明対長州力
- 前田は1987年11月19日、後楽園ホールでの「長州力顔面蹴撃事件」が知られているが、伏線とされているのが4年前のこの試合である。前田が長州のサソリ固めで、レフェリーストップ負けを喫するが、これは前田によると「マッチメイク破り」されたものとしている[25]。
- 1985年11月22日のデビッド・サンマルチノ対 "ビッグ" ロン・ショー
- セミファイナルでベテランジョバーのロン・ショーが、地元に凱旋した若手の二世レスラー(ブルーノ・サンマルチノの息子)であるデビッドをボディスラム7連発で一方的に叩きのめした試合。デビッドの起用法を巡るブルーノとビンス・マクマホン・ジュニアとの対立が遠因にあるともされる。WWFの全米進出を背景に、非常に高い知名度を誇るブルーノを現役復帰させるストーリーラインの最中に起きた騒動であり、1980年代のWWFでも屈指の不穏試合であると言われている。
- 1986年4月29日の前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント
- 1986年6月3日のヒロ斉藤対橋本真也
- ジャパンプロレスの一員として出戻りしてきたヒロ斉藤を、橋本が技を受けず蹴りまくり手の甲を骨折させたという。当時新日本プロレスには前年にUWF勢が復帰し、今度はジャパンプロレス勢が帰ってきたが、橋本が師事していたドン荒川から「(ジャパン勢は)移籍のたびに大金を貰っている」などと吹き込まれ「新日本を一度出た人間が注目されることが許せなかった、試合前から今日はやる」と言っていたともされる。
- 試合後、ジャパンプロレス勢の控室から壁にドンドンぶつかるような音と怒声が聞こえていた。橋本は長州力とマサ斎藤の二人から制裁を受けて椅子で殴られていたという。なかなか収まらず、観客もリング上の選手もそちらに気を取られている状態となってしまった。橋本は鼻血を出してあおむけで倒れていたという。
- 1987年7月18日の神取忍対ジャッキー佐藤
- ジャパン女子プロレスでプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた。諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。試合前に神取は「今日はジャッキーさんを30秒で倒す」「あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。だから5分30秒かな」とシュート予告ともとれる発言をしていた。
- 試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面をパンチで殴り始める。ジャッキーは一旦場外にエスケープし、ここからセメントマッチが開始される。この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから「神取、何をやってるんだ」「やめろ」と怒声が上がり、観客からは「プロレスをやれ!」と野次が飛ばされる異様な状況に陥る。ジャッキーも神取の顔面にパンチを浴びせるなど応戦するが、さらに神取はジャッキーに対してアキレス腱固めや袈裟固めなどで執拗に攻め立て、最後はチキンウィングアームロックでギブアップを奪った。この試合はジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。後に神取は「関節技は全部本気で極めにいった」と明言している。試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。
- 後年、インタビューを受けた神取は「ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた」と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関して「あの試合は喧嘩じゃない」と述べている。また、最盛期のジャッキーを知る北斗晶は恐ろしい性格であるジャッキーを恐怖に追い込んだ神取は相当強いと感じたそうである。
- 1991年4月1日の北尾光司対ジョン・テンタ
- SWS神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰し(サミング)の構えをとるなどして威嚇した事件。結果としては何事も起きず未遂に終わっている(裁定は北尾の反則負け)。だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」「お前ら、こんな試合見て面白いのか!」と暴言を発した。その後も控室に戻った北尾は椅子やテーブルを投げ付けたのをはじめ、マッチメイカーのザ・グレート・カブキと取っ組み合いの乱闘となるなど荒れ狂い、挙句の果てには「フリー!フリー!もう辞めた!!」と絶叫して会場を去ったとされる。
- 北尾の「八百長」発言は翌日のスポーツ紙は問題視する形で報道し、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。この試合の2日前(同年3月30日)にも北尾とテンタは東京ドーム大会でのシングルマッチで対戦。北尾はフォール負けし、自身の試合が終わると、大会の全カード終了を待たずして会場から去ってしまう事件を起こしている。「八百長」事件後の一部週刊誌では、相撲時代の番付では遥かに格上の自分が、テンタ相手に「負け役」を喫する不満が募っていた事も事件の一因ではないかと指摘されている。北尾が荒れた遠因としてSWS団体内の派閥対立が背景にあり、特にエースであった天龍源一郎やマッチメイカーのカブキに対する不満を持つ関係者が北尾を焚き付けた[注釈 4]という説も取り沙汰されているが、真偽は明らかになっていない。
- 北尾本人は神戸大会の試合直後、周囲に対し意気揚々と「どうだ、盛り上がっただろう?」と話すなど、重大なトラブルを引き起こしたとは思っていなかった。だが、プロレス界全体を巻き込んだ影響の大きさから、この試合を最後に3日後の緊急理事会で北尾はSWSを解雇されている。当該事件から数年後、WARで再戦が行われたが、総合格闘家に転向していた(当時PRIDEにも参戦している)北尾は終始いきり立つ様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。
- 1991年4月1日の鈴木みのる対アポロ菅原
- 上述した北尾対テンタ戦と同日カード。UWF系スタイルのレスリングである藤原組の鈴木に、元来のプロレススタイルである菅原側が自身の負けブックを飲まずセメント行為を仕掛けたという一戦。
- 試合開始直後から菅原の手四つに鈴木が距離を取って以降互いに退け合うようにし、鈴木は張手を、菅原は前蹴りを放ち、まともに組み合おうとしない展開になり、互いが距離を取って相手の様子を見るという状況が延々と続く。
- 鈴木はその行為に対して徐々にコーナーに追い詰められ、菅原に頭突きを見舞う一方、業を煮やした菅原の顔面に掌底攻撃で応酬。双方の反則攻撃により、まともに試合が成立しないほど泥沼の様相になった。レフェリーのミスター空中が間に入り注意をした所で、そのジャッジに呆れた菅原が一旦リングを降りて試合を中断するが、レフェリーは即ゴングを要請した。レフェリーばかりか、鈴木側も本人、セコンド陣営ともに菅原が仕掛けていると気づくが、鈴木は最後まで距離をとっての適当な打撃で取り繕い、結局シュートにシュートで対処できなかったことが露見した。試合放棄とされた菅原は後に罰金の処分を科された。
- 菅原は試合の3~4日前、新横浜の道場で偶然、メガネスーパー(SWSの親会社)の田中八郎社長と二人で会話する機会があった。田中から「菅原くん、今度の試合は楽しみにしてるから」と言われ、菅原が「社長、今度の試合は難しい試合になると思います」と答えると、田中は「どうして?おもいきり、やっつければいいんじゃないの」と返したという(田中はプロレスの試合を真剣勝負だと思っていた)。菅原自身は対戦相手に恨みはないが、当時の藤原組の選手たちは「自分たちは真剣勝負で強い」という発言をしばしば行っていたため、仮に自分が「プロレス」で鈴木に負けた場合、プロレス界の人間は額面通り結果を受け止めないが、裏事情を知らない田中やメガネスーパーの幹部たちに「真剣勝負で弱いやつ」とレッテルを貼られる、そのことを危惧したという。
- 1992年10月23日の高田延彦対北尾光司
- 日本武道館で行われた「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチとして行われた試合。この試合は当初、時間無制限一本勝負を予定されていたが、「北尾の代理人」を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否し、試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールに変更された。この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返し、試合直前になってもクレームをつけて試合放棄をほのめかしたため、交渉役を務めていた宮戸優光が北尾の控え室へ駆け込んでいき怒声を上げたという逸話が残されている。結局この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。この試合ついては諸説あるが、本来は判定による引き分けに終わるはずだったにもかかわらず、無警戒の北尾に対して高田がハイキックを叩き込んでKOしたとされている[26][注釈 5]。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思わなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。
- 1993年のジェンヌゆかり対遠藤美月
- 当時LLPW(現:LLPW-X)のキャラクター路線で一定の人気を得ていたジェンヌゆかりが、宝塚風のキャラクターで再デビューとなった遠藤との一戦。試合途中から遠藤がシュートを仕掛け一方的にジェンヌを蹴り上げる事態に発展。明らかにジェンヌは戦意喪失していたが遠藤の攻撃は収まらず完勝に終わる。日頃から団体のエンターテイメント路線に反発していた遠藤に対し、同じ格闘技路線のジェンヌがキャラクターレスラーへの転向を受け入れ、ファイト内容も再デビュー前と変わらず精彩を欠いた事による戒めと思われる。ジェンヌの再デビューは、テレビ番組とのコラボレーション企画で、当日セコンドに立っていた番組出演者と遠藤が一触即発となる事態となり企画も打ち切りとなった。
- 1993年の北斗晶対神取忍
- 1993年4月2日の横浜アリーナおよび、同年12月6日の両国国技館の2大会で行われた試合。この試合は当初からシュートと公言していたため、セメントマッチの中でも女子プロレス史における伝説の名勝負となった珍しい例である。
- 1993年12月4日のウィリー・ウィルキンス・ジュニア対アステカ
- ルチャ・リブレのみちのくプロレスで、シュートマッチにこだわるアステカに対し、主宰であるザ・グレート・サスケは呆れ果て、UWF参戦経験があるウィルキンスJrとシュート形式での10分ポイントマッチを組んで行われた試合。結果アステカは10分内に5度もギブアップさせられる羽目になる。
- 1994年7月14日の前田日明対ディック・フライ
- RINGS大阪府立体育会館大会のメインイベントの一戦。試合開始1分が経過した辺りで、フライが前田に対し掌底をラッシュで浴びせていく。その際、前田の目をめがけてフライが故意に指を入れたと感じた前田は逆上し、フライに対し掌底ラッシュで反対側のコーナーまで追い詰めダウンさせた。起き上がり再び前田の顔面に掌底を向けるフライに前田の怒りは収まらず、逆にフライを滅多打ちにして倒すと、グラウンドに移行して足の逆捻りでギブアップを奪う。わずか174秒での勝利となったが、前田はさらに敗者の背中を踏みつけ、うずくまったままのフライに怒号を浴びせた。この行為にハンス・ナイマンらフライのセコンド陣がリング内に入り、あわや乱闘寸前となる。その後もナイマンが前田の控室に入っていくなど緊迫した場面を見せていた。前田は試合後「10年ぶりにキレた」と語っていた。
- 後に、リングの魂やリングスのネット番組でおけるの前田の証言によると、試合序盤から反則のサミング攻撃を仕掛けてきたので、それに対応すべくフライをボコボコにして倒したという。その際のフィニッシュホールドは「フッキング」の一つでカール・ゴッチ直伝の殺し技だとし、技が完全極まるとひとたまりもなく、即ギブアップするという。このときは緩めて使っていたというが、普段は自主的に禁じ手にしていたという。
- ただし、ターザン山本はこの試合について「ブックである」とKAMINOGE誌のインタビュー上で言及している。
- 1997年10月の川田利明対高山善廣
- 日本武道館におけるセミファイナルでの両者2度目のシングルマッチ。二人は周囲に明かさず「最初の5分はシュ-トで」と、事前に申し合わせていた。当時「U系は大したことない」と頻繁に発言していた川田が高山は癪に障り、それならと持ち掛けたとされている。
- 開始5分頃まではスタンドで高山の一方的な展開に対し、リング下にエスケープする川田という展開が続く。
- 6分を過ぎた辺りで初めてロックアップを組み、以後プロレスの試合に移行。結果川田がフォール勝ちしている。試合後の川田は高山に対して「蹴りは全然効いていないし高山とはこれで終わりにしたい」とコメントしたが、シュ-トで圧倒された川田は、わだかまりがあったのかその後の後楽園ホールにおけるシングルマッチでの再戦で高山をノックアウトする。これは川田の一方的なブック破りでシュートを仕掛けたとされ、先の一戦が絡んでいると言われている。
- 1998年2月9日のビル・ゴールドバーグ対スティーブン・リーガル
- WWFとのマンデー・ナイト・ウォーズが佳境に入っていた1998年、WCWはWWFのアティテュード路線に対抗するため、ゴールドバーグを「無敵の超人」として売り出し始めた。連勝記録を重ねるゴールドバーグに対してジョバーとして短時間で敗戦するようWCWに命じられたリーガルは、WCWマンデー・ナイトロで組まれたシングルマッチで、ゴールドバーグにシュートマッチを仕掛けた。
- エルボー・パッドを強烈にヒットさせ、ロープワークを拒否し、得意のグラウンドレスリングでゴールドバーグに一矢報いようとするリーガルであったが、未知の試合展開に対するゴールドバーグの適応力も素晴らしく、寝技や関節技の攻防でも次第にリーガルと互角の勝負を見せるようになっていった。そして最後にはスピアーからジャックハマーへ繋ぐフィニッシュ・ムーブをリーガルに決め、ゴールドバーグが辛くも勝利を収めた。
- 他のシュートマッチと比較すれば、割合まともな試合展開を辿った一戦ではあったが、WCWはブックに定められたワークを越えてゴールドバーグに激しい攻撃を加えたリーガルの態度を問題視し、この一戦の後にリーガルを解雇、リーガルはWWFへと移籍する結末となった[27]。
- 1999年1月4日の小川直也対橋本真也
- ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ(プロレスで顔面パンチは反則行為である)や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなどの攻撃を繰り返した試合。橋本も小川に対して反則技である脊椎への攻撃を仕掛けるなど報復を行った。
- 一方的に攻撃を受け続けた橋本はKO(裁定は無効試合)され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。小川のセコンドをしていた村上和成は、飯塚高史に顔面を踏まれ一時昏睡状態に陥るほどの大怪我を負う。さらに事態は紛糾し、当時の現場監督の長州力が小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。この際に長州は小川に対して「これ(シュートで橋本を潰す行為)がお前のやり方か!」と繰り返した。また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナの田中秀和の独断によるものである(「何とか収拾を付けたかった」と本人が後に語っている)。
- なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明し、長期離脱を余儀なくされた。
- 2000年8月5日の垣原賢人対大森隆男
- 同日に旗揚げしたプロレスリング・ノアのセミファイナル6人タッグマッチ「小川良成&垣原賢人&池田大輔 VS 大森隆男&高山善廣&浅子覚」内での出来事。全日本プロレス時代のユニット「アンタッチャブル」と「ノーフィアー」の抗争を引き継ぐ形での対戦であり、この試合が首の怪我からの復帰戦でもある垣原はオープンフィンガーグローブを着用して登場した。試合開始からしばらくして垣原と大森が対峙したが、試合権を得た垣原は組み合おうとせずにボクシングの構えを見せ、コーナーポストに大森を追い詰めてボディブローから顔面ストレートの連発を放った。対する大森は技を受けたまま面食らった様子で全く応戦出来ずにいたが、自らタッチしてリングに入った高山が「そうくるなら。」と頷き、両腕を構えて打撃戦を繰り広げた。かつてUWFインターナショナルの先輩後輩の関係でもある両者とそれを彷彿とさせる展開に場内は沸いたが、その後も垣原は大森のみならず、高山や浅子にも一方的な打撃を貫いた他、パートナーである小川や池田との連携に加わらないなどの動きが目立った。結果は垣原が浅子からギブアップを奪い取ったが、レフェリーからの勝ち名乗りも拒否し、1人で早々と退場。試合後のインタビューでは「苦しい練習をやってきた成果を見せる手段と言うのが(オープンフィンガー)グローブだっただけ。これからはもっと上を目指します。」と語るも、翌日の旗揚げ第2戦には出場せず、そのまま垣原はこの1試合のみでノアを退団した。
- 引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から「悪いけど僕にはああいうのは出来ない」と言われたことに失望し、退団を考えるようになったという。また、2015年に垣原が執筆した自伝において退団の経緯が触れられており、全日本プロレスを負傷欠場中に三沢光晴を中心とする選手大量離脱騒動が発生したのが事の発端であった。ノア旗揚げを迎えるにあたって自身のスタイルの確立に悩んでおり、打開策としてかねてから切望していたマスクマンへの変身を決意。オープンフィンガーグローブによる打撃もその構想の一環として組み込んだ。マスクデザインやリングネームも事前に用意した上でアイデアを直談判し、三沢をはじめとする当時のフロント陣からは却下されたが、それ自体に対する反発心はそれほど起こらなかった。一方、幼少期から快く思っていなかった父親との間に確執が生じていた事やリングに集中出来る環境を望んだにもかかわらず所属団体の分裂や解散が相次いだ事、そして前述の怪我による欠場があった事なども含めて、プロレスラー廃業を検討するまでに追い詰められており、旗揚げ戦の試合には参加したものの、翌日以降は再欠場したまま退団に至った。垣原はこの事について自暴自棄に陥っていたとする上で、「どんな個人的事情があったとしても、社会人としてあるまじき行為だった。」と自省する一文を残している。所属選手1人ずつには電話で別れの挨拶をし、快く思わない人間も多かった為、たった5秒で電話を切られたりもしたが、ジョー樋口は「この業界は狭いからまた何処かで一緒にやる事もある。辞める事は気にしなくていい。必ずまた会える。」と励まし、三沢も親身になって相談に乗り、退団に関しては「旅に出すようなもの。」とコメントして咎めなかっただけでなく、垣原の引退試合には花束を届けている[28]。
- 垣原は後に古巣・全日本への復帰を経て、新日本プロレスに入団。現役引退まで当団体の所属選手として活動を継続したが、2006年には大森が新日本に参戦。試合上での両者の直接的交流は無かったが、その後も頸髄完全損傷の重傷を負った高山の支援興行に垣原、大森それぞれが参加するなどしている。
- 2004年11月4日のダニエル・ピューダー対カート・アングル
- 2004年10月、WWEの第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得した総合格闘家ダニエル・ピューダーは、2004年11月4日ミズーリ州セントルイスでのスマックダウンに参加。そしてスマックダウン内リアリティーショーのタフイナフで発生。
- カート・アングルと対戦した際ピューダーは急遽アングルにシュートマッチを誘われ、ガードポジションからのキーロック(ダブルリストロック)を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーのピンフォール負けを宣言したもの[29]。
- かつてのアメリカのアマチュアレスラーで1996年アトランタオリンピックレスリング金メダリストのアングルがスクワットスラスト競争でのファイナリストの挑戦をうけることになっていた[30][31]。クリス・ナウロッキが競争に勝つが、ナウロッキの勝利者賞はアングルとの対戦であった[32]。アングルはギロチンチョークでナウロッキを素早く倒したが、ナウロッキはなんとかロープにたどり着き、ホールドを破らせた。アングルはその後、ダブルレッグテイクダウンでナウロッキを倒して肋骨を骨折させた[32]アングルは、ナウロッキに別のギロチンチョークを仕掛け、その過程で彼を極めた。アングルがナウロッキを破った後、マイクをつかんで他のファイナリストからの挑戦をあおった[32]。会場にいた総合格闘家であるピューダーは、アングルの挑発に乗った[32][33]。 アングルとピューダーはポジションを争い、アングルはピューダーをテイクダウン。しかしその過程でピューダーは下からキムラロックでアングルの腕のロックを試みた[31][32][34]。ピューダーは覆われる形でアングルの腕をキムラに閉じ込めた状態となるが、角度的にダウン状態のピューダーの肩がマットに付いていることで、実際にはピューダーの肩が完全にマットに付いていなかったという事実があったにもかかわらず[31][32]、二人の審判のうちジム・コーデラスはすぐに試合を終了させるためにここで3カウントを宣言[31][32][34]。 ピューダーは後に、このときコーデラスが試合を終わらせなければ、アングルの腕折を全国テレビで放映したであろうと主張[32]。デイブ・メルツァーは「これは本気でした。終わらせようとピューダーはアングルに木村ロックを仕掛けていく。審判のうちタズはキーロックをかけにいったとき、ロック許可しませんでしたが、完全に実行されました。こうなったらアングルが動きから抜け出せなかっただけでなく、ほとんどのMMAファイターはすぐにタップしていたでしょうが、明確にアングルはタップできませんでしたので、ピューダーの肩が完全についていなくてもカウントは3を数え、物事を終わらせようとしました。なぜなら、アングルへのロックが数秒長くなったり、ピューダーがホールドをあきらめなかった場合、アングルは手術室の中であったはずだからです。」とし[31]、デイブ・シェラーは「ご想像のとおり、カート・アングルは、タフイナフの出場者であるダニエル・ピューダーにタップアウトするような状態を余儀なくされた後、スマックダウンの舞台裏に満足していませんでした。番組でなんどもチェックマークが付いているのは、おそらく彼の気分を説明するための最良の方法なのでしょう。コンテストは台本のない性質上ピューダーも状況に対処できず、審判がすぐに考えずにピューダーにわからないようピンフォールを数えたが、アングルの状況がこのとき非常に見栄えが悪くなったので、この場合強制的に終わらせる必要があったのが主な理由でした[31]。」とコメントをしている。
- ピューダーは2005年9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、総合格闘技へ復帰した。
- 2010年9月25日の鈴川真一対マーク・コールマン
- イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)で起きた鈴川真一のデビュー戦。コールマンが途中で戦意喪失、テクニカルノックアウト負けとなった一戦。コールマンは開始しばらくするとスタミナ切れを起こす。鈴川は再三に渡り平手打ちでコールマンを追い詰め、コールマンもその都度鈴川を下半身タックルでテイクダウンしたがその後が続かず、鈴川にダメージを与えることは出来なかった。最終的にグラウンドでコールマンは手を振って試合をあきらめた。敗れたコールマンは試合後にリング外に向かって中指を立て、控え室で荒れ狂っていたという。
- この試合について、コールマンのセコンドとして帯同していたフィル・バローニによると、コールマンは決め技をヘッドロック・チョークで、試合時間も3分で勝つことになっていたといい、コールマンが後に明かしたところによると、本来であればIGF12月大会でも対戦して、星を分け合う予定だったとされる。結局試合は鈴川に対して最初から何もできず3分経過しても鈴川はタップせず、そのまま試合が続けられシュートに転じたという。ちなみに、コールマンは12月の大会には別の選手と対戦する。
- IGF幹部のサイモン・ケリーも、Dropkickメールマガジンで、当然鈴川を売り出したいけどもコールマンも名前があってやはり売り出したかった。ところが鈴川はデビュー戦であり、宮戸優光にも仕向けけられ、がむしゃらにやるしかない一方、コールマンはプロレスがわかっていないし、相手の鈴川も緊張していてわからないだろうと高をくくった上、コンディションも作っていなかったとしている。さらに試合後にはこうなるなら最初からやっていたと、約束破りを抗議していたという。
- 一方で宮戸優光・GMはkamipro152号でのインタビューでは、あの試合は鈴川選手が必死にプロレスで闘ってコールマンに勝った試合、それだけであるとした[35]。
- 2011年4月28日のジェロム・レ・バンナ対鈴川真一
- IGFのチャンピオンシップトーナメント一回戦として行われた一戦。K-1ファイターのバンナが、元幕内力士の鈴川の、張り手やタックルを全てかわしパンチやキックで計六回のダウンを奪い、最後は右フックで鈴川を失神させてKO勝ちした試合。この試合はバンナ側の要求と鈴川側の要求が合わず、KO、ギブアップのみにより勝敗の決まる異種格闘技ルールで行われた。
- 2012年12月31日の藤田和之対小川直也
- IGFのリングでの両者オープンフィンガーグローブを着用しての一戦。ところが序盤から小川が攻勢で藤田がリング下に落ちると、そこで小川はグローブを外して挑発。藤田もグローブを脱ぎ捨て再開。その後は藤田がテイクダウンを奪い、パンチを振り下ろすところでレフェリーストップとなった。小川は試合後のコメントで藤田にシュートを仕掛けたとし、その後にブログでも仕掛けたことを強調する。小川のこうした行為に対し藤田は、以前の橋本戦同様にアントニオ猪木が仕向けたと激怒した。
- 2015年2月22日の世IV虎対安川惡斗
- スターダム後楽園ホール大会のメインイベントで行われたワールド・オブ・スターダム王座のタイトルマッチで王者の世IV虎(現:世志琥)に対し、挑戦者の安川が世IV虎の顔面付近を殴ったことに世IV虎が激昂し、報復で安川の顔面を拳打で執拗に攻撃し、安川が闘う意思を見せていたためレフェリーの和田京平は試合を止めず続行させた[注釈 6]が一方的な展開が続き、危険を察知した和田の指示と安川のセコンドを務めた木村響子の判断でタオルを投入し、世IV虎のTKO勝ちとなった試合。試合後に安川は都内の病院に救急搬送され、頬骨、鼻骨、左眼窩底骨折、両目の網膜振盪症の診断が下された。専門誌でも顔面を負傷した直後の安川の写真が『週刊プロレス』の表紙になった。
- 後日、この試合は世IV虎のTKO勝利から無効試合に変更され、顔面への過剰な反則攻撃を行った世IV虎はタイトル剥奪及び無期限出場停止の処分を受けた後、自ら引退した。負傷した安川も一時復帰をしたものの怪我の回復が思わしくなく、ドクターストップがかかり引退し、両者ともに後味の悪い幕切れとなった(なお、両者とも後に他団体で復帰した)。この試合に関しては、世IV虎の行為はもとより、明らかに実力差のあった選手同士に対してタイトルマッチを組み、なおかつ調印式の段階で険悪な状態が露見していたにもかかわらず試合を強行したロッシー小川を筆頭とするフロント陣に対しての批判や、危険な状態になっていたにもかかわらず、タオル投入まで試合を止めなかったレフェリーの和田に対しての批判も起きた。一方でこの試合の中継解説を務めたブル中野は、相手の安川についても「試合をせず相手に一方的にシュートを仕掛けていた」と中継内で述べている。
- 後日フロントによる聞き取り調査で「入団当初から両者は仲が悪く、今回の挑戦や映画など最近の安川の抜擢が非常に面白くないことを世Ⅳ虎が漏らしていた」とされ、「仕事に身勝手な私情を持ち込みレスラーは元より一社会人としても問題がある」と社会的に問題視される事態となった。
- 2017年3月19日の宮本和志対蟹K★ING
- ローカル・インディー団体であるアップルスター・プロレスリング新木場1stRING大会の第5試合として組まれた一戦。メジャー団体である全日本出身の宮本に、社会人プロレス団体である信州プロレス出身の蟹K★INGが挑むという、両者の実力差が極端に大きな構図の下に組まれた試合であった[37]。宮本は蟹K★INGが日頃からSNSで発信しているプロレスに対する態度に怒りを露にしており、試合前から「制裁試合にする」と公言している状況であった[38]。
- 試合開始直後、蟹K★INGは宮本にドロップキックで奇襲するが宮本は難なくこれをかわし、倒れこんだ蟹K★INGにヘッドロックを極めながら覆面を剥ぎ取り、強烈なサッカーボールキックを顔面に連発、水平チョップを喉元に叩き込み、明らかに受身が取れない角度でパイルドライバー、DDT、垂直落下式ブレーンバスターと畳み掛け、最後はボストンクラブでギブアップを奪う一方的な試合となった[39]。
- 宮本は「プロレスは明るく楽しい試合だけじゃなく、激しく戦うものである事を教える為であった」とマイクパフォーマンスで述べていたが、試合後の蟹K★INGの顔面は無残に腫れ上がる、凄惨なシュートマッチとなった。
- 2018年1月28日のブロック・レスナー対ブラウン・ストローマン対ケイン
- ロイヤルランブルメインイベントのWWEユニバーサル王座トリプルスレット戦で合序盤、ストローマンの膝がレスナーの右耳に大きくあたった直後にレスナーが怒ったのか、強烈な右フックのカウンターをストローマンに見舞った。WWEでは通常顔面への打撃は事故を除いて禁止されているのだが、大変珍しいかつPPV放送ということもあり、実況陣は放送中何度もリプレイした。その後は特に両者目立ったことはなく、レスナーがケインにF5を見舞って勝利した。
ストーリー破り
- カーテンコール事件
- 1996年5月19日、WWFの興行でバックステージの派閥グループクリックのメンバーが行ったストーリー破り。この事件当時スコット・ホールとケビン・ナッシュはWWFを離れてライバル団体のWCWに移籍することが決まっていた。この日のメインイベントで、ベビーフェイスのショーン・マイケルズは、ヒールのナッシュとのケージマッチを戦った。試合が終わるとすぐに、リングに上がったホールはマイケルズを抱擁した。ここまでは、両者ともにベビーフェイスであったため問題がなかった。しかしその後、マイケルズはリング上に横たわっていたナッシュにキスし、アンダーカードでヒールとして試合をしたハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)もリングにやってきてマイケルズやホールとハグを交わした。最終的には敗れてマットに倒れていたナッシュも加わり、4人で観客に向けて "カーテンコール" を行った。
- 彼らのカーテンコールの行動は、当時、ベビーフェイスとヒールの関係は現実のもので彼らはリングの外においても友人ではないという幻想を維持したいと考えていたWWF首脳陣を憤慨させた。さらにWWF経営陣は、この興行をカメラで撮影していたファンがいたことを予期していなかった。この撮影テープは、翌年の1997年10月6日のロウ・イズ・ウォーで、マイケルズとヘルムスリーが、ビンス・マクマホンを怒らせる意図でストーリーライン上で使用された。マイケルズは当時WWF王者で、団体のトップスターの1人であったために罰せられなかった。ホールとナッシュはすぐにWCWに去ったため、残ったヘルムスリー1人だけに罰が下され、メインイベントのタイトルマッチを外されて前座の試合でジョバー役を回されるようになった。しかし彼は、この5ヶ月後にはWWF・IC王座を手に入れる。
- モントリオール事件
- 1997年11月9日のWWFの特番サバイバー・シリーズでのブレット・ハート対ショーン・マイケルズのWWF王座を賭けた試合で起こったストーリー破り。通常セメントマッチ及びストーリー破りは試合中にレスラーが行うものであるが、当事件は「団体側による」ストーリー破り(スキャンダルに巻き込むことでストイックなブレットの商品価値を落とそうと企んだ)という点が特徴。事件の衝撃は大きく、絶対的な悪名を得たチェアマンのビンス・マクマホンとそれには歯向かう荒くれ者スティーブ・オースチンの抗争をはじめとするアティテュード路線がさらに推し進められることとなり、後のアメリカプロレス史に大きな影響を与えた。
脚注
注釈
- ^ 契約違反による莫大な違約金、メインイベンタ―からの降格、団体からの解雇等。下記のとおりヒロ斎藤の手を意図的に骨折させた橋本真也は長州力とマサ斎藤から袋叩きにされ、長州力への「顔面蹴撃事件」を起こした前田日明は新日本プロレスを解雇されている。
- ^ バレンタインが拒否した理由として、既に日本プロレスを離脱していた猪木が事前にバレンタインと極秘裏に接触し、坂口離脱の経緯をバレンタインに説明していたことも背景にあった。
- ^ アントニオは最初の来日時に日本での人気に増長した事で、同じく来日していたカール・ゴッチ(当時、カール・クラウザー)、ビル・ミラー(当時、ミスターX)、アイク・アーキンスらから反感を買い、試合や控室で激しい制裁を受け、スケジュール途中でカナダへ帰国している[21]。
- ^ ドン荒川、若松市政などの可能性が指摘されている。
- ^ ただし、双葉社『俺たちのプロレスVol4』(2015年)のインタビューでは、元UWFインターナショナル取締役の鈴木健によれば「高田対北尾戦は両者の間で打撃はシュート(本気)でOKという話で決まった」と話している。
- ^ 和田は後日メディアの取材で「選手権試合」であったことや、安川の試合継続の要望を尊重した事、さらに安川の状態をメディカル・チェックさせようとしたが、本部席にドクターが在席しておらず、TKOの判断が即座に付かなかったことを理由に述べている[36]。
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- ^ 伝統を継承する英国紳士の卓越した順応力/ウィリアム・リーガル【俺達のプロレスラーDX】 - ジャスト日本のプロレス考察日誌
- ^ 垣原賢人『Uの青春~カッキーの闘いはまだ終わらない』(2015年8月13日、廣済堂出版)
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- ^ 和田レフェリー 世IV虎に苦言 - デイリースポーツ online 2015年3月11日
- ^ 3/10【アップルスター】3・19新木場で史上初の棺桶爆破決定 グラドル・渡瀬茜が大仁田抹殺を宣言(プロレス/格闘技DX) - dメニューニュース(NTTドコモ)
- ^ 昨夜忘れられない一戦は - A-TEAM HASEGAWA の人生100%
- ^ (試合結果)《アップルスター》《Spring Festival》《東京・新木場1stRING》(2017/03/19) - 週刊プロレス
関連項目
ガチンコ!
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:32 UTC 版)
『ガチンコ!』と言うテレビ番組の企画で、巨人に漫才師を育てる企画、「漫才道」の講師の依頼があった。「生まれてこの方やらせと嘘は大嫌い」と言う巨人は、やらせをしない、「演出」も極力控える条件でこれを承諾。 1週目収録がはじまると、20-30人集まった候補者の中にとんでもなく態度の悪い人物がおり、巨人はその人物を怒鳴りつけたが、その人物はしらばっくれたような態度を取るだけだった。巨人は、「何を言うてんねん。お前な、漫才師になりたくてここに来たんなら、俺の言うことを聞け、嫌やったら帰れ! お前が俺の弟子やったらパンパンやな、お前」と叱りつけた。巨人によればこの「パンパンやな!!」は後で評判になった台詞だが、本当はそんな風に言うつもりでななく、パンパンとはバチバチっと殴るぞ、ちゃんとやらないと手が出てるぞ、程度の意味合いであり、恐らく自身が怒りで興奮していたんだろう、としている。ともあれ1週目の収録は終わったが、巨人はその態度の悪い人物を、番組側が仕込んだやらせなのではないかと怪しみ、スタッフを問い詰めた。この時スタッフはやらせを否定したものの、2度目の収録の前の週に巨人がテレビを見ていると、なんと他の番組にその人物が出演しており、真面目な好青年であったという。巨人は「やっぱりやらせか!」と激怒し、2度目の収録の時にスタッフを叱りつけ、収録は中止となった。巨人は本音ではこの企画をもう降りたかったが、1週目を収録してしまった都合上そういう訳にもいかず、今後は自分の好きにさせて貰う、やらせは行わない、と言う条件でやむなく続けることにした。以後は1回目のようなあからさまな仕込みはなかったものの、スタッフが弟子へのビンタを要求するなどやらせを要求され、腹を立てることがあったという。 巨人はこの件に関し自著で、口で言っても解らない子には殴るしかない時もあろうが、自分は誰にでも手を出すような乱暴者ではない。またテレビの企画とは言え塾生を弟子のように思っているから無闇に怒るようなこともできない、と著している。 なお巨人は前述の通り、弟子に対して師匠として真剣に向き合うから怒鳴る時もあれば怒る時もあるとしており、テレビ番組の企画とは言え、自身が塾生たちにも真剣に向き合った結果、テレビの視聴者に「巨人は怖い」との印象を与えるに至ったのではないかとしており、出演しなければ良かった、と思う時もあるという。この企画で怖いと言う印象がついてしまい、寿司屋を訪れると茶髪の店員を奥に隠したり、「ウニください」と普通に寿司を注文したら、「あれ、怖くないんですね」などと驚かれたこともあったと言う。 巨人によれば、ガチンコの出演は残念な結果に終わったが、芸人として残っている数少ない弟子は「巨人師匠は優しい」と言ってくれるし、また、一部のファンは当時「巨人さんは本当は優しいと知らしめたい」と言ってくれており、その気持ちは嬉しかったとしている。
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