1970~1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 04:36 UTC 版)
「ソルト (暗号)」の記事における「1970~1980年代」の解説
初期のUnixでは、パスワードファイル /etc/passwd にソルトつきのパスワードが保存されていた(パスワードの前に2文字のランダムなソルトが付いていた)。この頃の古いバージョンのUnixでは、ソルトつきパスワードのハッシュ値といっしょに、ソルトの値も(平文で)passwdファイルに保存されていた。またパスワードファイルはシステムのユーザは誰でも読むことができたが、これは、ユーザ権限で動くソフトウェアがユーザ名やその他の情報を読むためにこのような仕様となっていた。そのため、パスワードのセキュリティは一方向関数(暗号化、またはハッシュ化)だけで保護されている状態だった。初期のUnixの実装では、パスワードの最大長は8文字までで、ソルトは12ビットであった。ソルトの取りうる値は4,096通りとなる。これは1970年代における計算量とストレージのコストから見れば、妥当なバランスと言えた。
※この「1970~1980年代」の解説は、「ソルト (暗号)」の解説の一部です。
「1970~1980年代」を含む「ソルト (暗号)」の記事については、「ソルト (暗号)」の概要を参照ください。
1970 - 1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:47 UTC 版)
「光石研」の記事における「1970 - 1980年代」の解説
博多っ子純情(1978年) - 主演・郷六平 役※デビュー作 男はつらいよシリーズ男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花(1980年) - 上州のアベックの男 役 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌(1980年) - 生徒 役 男はつらいよ 花も嵐も寅次郎(1982年) - 助手 役 男はつらいよ 柴又より愛をこめて(1985年) - 青年B 役 セーラー服と機関銃(1981年) - 高校生トリオ・周平 役映画で共演していた柳沢慎吾、岡竜也らと「ひょうたん三銃士(ひょうたんトリオ)」という3人グループを結成、薬師丸ひろ子応援歌『SENSATIONAL HIROKO』というシングルレコードを映画のキャンペーンの一環で発売した。映画公開当時には3人が出演するPV映像も作られ映画本編が上映される前に映画館のスクリーンでも流された。 近頃なぜかチャールストン(1981年) - 襲われる男 役 ブルージーンズ メモリー(1981年) - 若者1 役 BLOW THE NIGHT!夜をぶっとばせ(1983年) いとしのラハイナ(1983年) - 阪東宗左衛門 役 OKINAWAN BOYS オキナワの少年(1983年) - 大原 役 泰造(1985年) - 角良孝 役 瀬降り物語(1985年、東映、監督:中島貞夫) - ジロー 役 童貞物語(1986年) - 大黒屋健太 役 キネマの天地(1986年) - 生田キャメラマン助手 役 極道の妻たちII(1987年) - ジロ 役 吉原炎上(1987年) - 冒頭の巡査 役で緒形拳と共演 スターダスト・ストーリー 星砂物語(1987年) …これから物語〜少年たちのブルース〜(1988年) - 松沢 役 肉体の門(1988年) - サブ 役 バカヤロー!2 幸せになりたい。(1989年) - 近代化センター男 役 潤の街(1989年)- 誠 役
※この「1970 - 1980年代」の解説は、「光石研」の解説の一部です。
「1970 - 1980年代」を含む「光石研」の記事については、「光石研」の概要を参照ください。
1970-1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:48 UTC 版)
体重が重かったこともあり、騎手免許試験には2年連続で落第し、免許取得は19歳となった1974年のことであった。同年3日、中京競馬第2競走でデビューを迎えると、ホースメンレディで初騎乗・初勝利を挙げる。当年新人ながら関西7位(全国18位)の26勝を挙げ、関西放送記者クラブ賞(関西新人賞)および優秀騎手賞を受賞。翌年4月にはロッコーイチで小倉大賞典を制し、重賞初勝利を挙げた。 以後順調に成績を上げていき、6年目の1979年にはアグネスレディーで優駿牝馬(オークス)を制し、八大競走初制覇を果たす。同馬は新馬戦時点ではベテランの久保敏文が騎乗していたが、新馬戦2着を経て河内に手綱が回ってきた馬であった。当時珍しいベテランから若手への乗り替わりは、新馬戦での敗戦に馬主の渡辺孝男が久保の騎乗に対して不満を抱いたためともされる。後にアグネスレディーの子孫は河内に数々のタイトルをもたらすこともあり、河内は「久保さんが失敗しなければ、今の僕はなかったかも」と述べている。さらにこの年11月にはハシハーミットで菊花賞も制した。翌1980年には年間72勝を挙げ、25歳にして全国リーディングジョッキーとなる。 1980年代に入ってからは、河内と4歳下の田原成貴が関西騎手界を牽引した。性格、騎乗ともに冷静かつ堅実であった河内に対し、田原は破天荒、派手さを売りとしており、対照的な両者は巷間にライバルとして捉えられた。1983、1984年には田原が全国リーディングの座に就き、1985、1986年にはそれぞれ118勝、117勝を挙げた河内がこれを奪還している。後年河内は作家・藤本義一との対談において「ライバルとかは考えないですか」と問われ、「ライバルというのとは違うかもしれませんが、刺激を受けるのは田原(成貴)ですね。年齢は彼の方がしたですけど、ある時代同じように生きてきた時代がありましたからね」と答え、また田原は著書の中で「騎手として伸び盛りの時期に仮想敵に据えたのが河内さんで良かったと思う。あの人がいなければ、今の田原成貴はなかっただろう」と述べている。 この間にもカツラノハイセイコによる天皇賞・春(1981年)、ヒカリデュールによる有馬記念(1982年)、ロンググレイスによるエリザベス女王杯(1983年)と、毎年のように大競走を制した。なかでも気分屋で乗り難しかったカツラノハイセイコでは多くを学んだといい、自身の「師匠みたいな馬」だとしている。 1984年、日本中央競馬会は競走格付けのためグレード制を導入、さらに距離別体系の明確化を図り路線整備を行う。そうして新たに敷かれた「短距離路線」において、最初のスターホースとして現れたのが、河内が手綱をとったニホンピロウイナーであった。通算26戦16勝、うち河内とのコンビでは15戦11勝、GI競走3勝を含む重賞7勝という抜群の成績を挙げた同馬について、河内は「マイル戦に強い僕をアピールするには、うってつけの馬だった」と評している。また、1986年から手綱をとったメジロラモーヌでは、桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を全勝し、史上初の「牝馬三冠」を達成。この頃河内には「牝馬の河内」という異名が付されるようになった。ニホンピロウイナーとメジロラモーヌの2頭は、この時期の河内の名を特に上げた存在であった。 1988年にはアラホウトクで桜花賞を、サッカーボーイでマイルチャンピオンシップを制する。また、公営・笠松競馬から中央入りし、当時勃興しつつあった競馬ブームの中核となったオグリキャップでも重賞6勝を挙げた。同馬とのコンビは同年のジャパンカップ(3着)が最後となりGI優勝はなかったが、笠松時代に主戦騎手を務めていた安藤勝己は、『優駿』1990年6月号に掲載されたインタビューの中で「河内さんが乗っていた頃が、オグリキャップのいい面が出ていたと思う」と評している。当年6月4日には、33歳3カ月という史上最年少記録(当時)での通算1000勝を達成。また、自身が1986年に記録した年間重賞勝利記録を12から13へ更新した。
※この「1970-1980年代」の解説は、「河内洋」の解説の一部です。
「1970-1980年代」を含む「河内洋」の記事については、「河内洋」の概要を参照ください。
1970-1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:15 UTC 版)
「シティ・ポップ」の記事における「1970-1980年代」の解説
1960年代後半から現れた自作自演のフォークやロックのうち、演奏やアレンジに凝った楽曲が1970年代になると「ニューミュージック」と分類され、従来の樂曲との差別化が図られたが、その枠組みは次第に拡散して曖昧となった。そのため「洗練された都会的なニューミュージック」を他と一線を画するために作られたのが「シティポップ」という分類であり、発案者ははっきりしないが、ジャンルを提示することで作品を売りやすくするという商業的意図が元にあった。「city pop」はネイティブには通じない和製英語であり、当初は主に「シティ・ポップス」と呼ばれたが、後に「シティポップ」が定着し、1970年代から黒音盤のライナーノーツでその語が使われ始めている。 音楽性の面でシティ・ポップの源流と一般に挙げられるのは、軽快なロックサウンドに日本語歌詞を乗せた先駆的樂團のはっぴいえんど(1969年-1972年)であり、またシュガー・ベイブのアルバム『SONGS』(1975年)もシティ・ポップの嚆矢と言われることが多い。そのシュガー・ベイブのアルバムを起点とし、その後に活躍した大瀧詠一、山下達郎、吉田美奈子、荒井由実、竹内まりや、大貫妙子、南佳孝などがシティ・ポップの基盤を作り上げていったとされる。なお、シュガー・ベイブに限らず、シティ・ポップの主要アーティストはほとんどが東京出身者もしくは東京を拠点に活動した者たちだった。従ってシティ・ポップで歌われる「シティ」とは高度経済成長を経た「現代の東京」であり、それもリアリズムから一歩引いた、広告都市的な消費の街というフィクション性を多分に含んでいた。そうした「シティ」における、お洒落な私生活や都会の風景、時には都市生活者ならではの孤独感や哀愁を、良いメロディと洒落たコードに乗せて歌い上げたのがシティ・ポップだった。 シティ・ポップが成立した背景には、日本人の生活水準の向上と、変動相場制導入と円高による海外の文物の流入、いわば東京の国際都市化という社会的変化があり、シティ・ポップの盛衰は日本経済の盛衰と重なるところが多い。 バブル前夜、日本人の生活がどんどん豊かになって、一般市民の中に経済的、精神的余裕が生まれていった。そんな中で、平日は街で夜遊びして、オフには伊豆とか湘南でサーフィンするという若い人たちのライフスタイルが構築されていった。平日と週末、都会の夜の喧騒とビーチのリゾート感覚がセットで、多くの人の意識にあったんだ。全てにおいて勢いがあって、手探りで新しいものを作ろうという時代の雰囲気。そんななかでシティポップという流れができてきて、聴く人にもウケたんだと思う。 — 角松敏生 1970年代において、シティポップアーティストの多くはライブ行脚よりはスタジオでのレコード制作に重点を置いていたため、松任谷由実などの例外を除けば、シティポップはまだ東京周辺での流行に過ぎず、全国区でのヒット曲はあまり生まれていない。しかし1970年代末、YMO がシティポップをさらに先鋭化させたテクノ・ポップで世間の耳目を集めたことで、彼らの周辺のシティ・ポップ・アーティストたちにも次第に関心が向けられるようになった。そして1981年には年間歌集成績で、寺尾聡の『Reflections』と大瀧詠一の『A LONG VACATION』というシティポップの名盤が1位と2位につけ、1980年代前半にシティ・ポップは全盛期を迎えた。1980年代前半においてシティ・ポップは、山本達彦、稲垣潤一、杉山清貴といった美形男性歌手による都会派楽曲というイメージも持たれており、特に山本と稲垣は女子大生から圧倒的な支持があった。また松田聖子が「風立ちぬ」(1981年)や「赤いスイートピー」(1982年)といったシティ・ポップ・ナンバーを大ヒットさせたように、シティ・ポップは歌謡界にも浸透していった。 バブル期の消費絶讃の時代において、CM とのタイアップから多くのシティポップのヒット曲が産まれた。都会的で洗練されたシティ・ポップは企業廣告との相性が非常に良く、またテレビの歌番組出演にあまり積極的でなかったシティ・ポップ・アーティストにとっても企業廣告は貴重なプロモーションの機会となった。その点でシティ・ポップは、フォークやロックのように何らかのメッセージ(例えば反戦平和、管理社会への反発など)を主張するというよりは、商業音楽としての性格を多少なりとも持っており、換言すればメッセージ性を排した純粋な音楽的追求の産物ということもできる。 またシティ・ポップの普及の背景には音楽を聴く環境の変化、すなわちそれまでインドアの高価な趣味だった音楽鑑賞が、テクノロジーの進歩により安価なアウトドアの娯楽へ変化した点も挙げられる。従来ならば音楽とは室内に据え置いた重厚なステレオセットにレコードをかけて聴くものだったが、1980年代にはレンタルショップでレコードを安く借りて自宅のカセットデッキでテープにダビングし、そのテープをウォークマンやラジカセ、カーオーディオで外へ持ち出して聴くというリスニング・スタイルが若者の間にも普及していった。そうした「外で聴く BGM」として、聞き心地のよいシティ・ポップはまさにうってつけであり、特に大瀧詠一の『A LONG VACATION』(1981年)と山下達郎の『FOR YOU』(1982年)はカーオーディオ占拠率で双璧を成す名盤となった。そしてこの2枚により、東京のみならず横浜から湘南にかけてのリゾート色の強いエリアもシティ・ポップの射程内へ入るようになった。自家用車を所持し、こうした音楽的環境へ加わるために必要な機器を全て所持する余裕のある、裕福な都会の職業人をモデルにしていたシティ・ポップは、ティーンエイジャー向けのポップソングではなく、より大人(またはそんな彼らに憧れを抱く若者)のリスナーを対象にしていた。 1980年代初頭にあらわれたシティ・ポップには、概ねより明確に定義されうる既存の様々なポピュラー音楽ジャンルが混在しており、独自の音楽的アイデンティティをほぼ持っていないが、大まかに理解するならば、概ね電子楽器とアナログ楽器を組み合わせたサウンドと制作手法による、明るくクリーンで洗練された音楽が特徴である。多くの場合、日本語で歌われる歌詞を除いて、日本の近代大衆歌謡において「日本的」と通常考えられるような楽理的特徴の痕跡はほとんど見られず、歌詞についても日本語とヨーロッパ諸言語(もっともよく用いられるのは英語)が頻繁に切り替わる。シティ・ポップは、この「日本的な音楽」の証をも見出し得ない、という点こそが、その文化的コンテクストを最も明確に定義しうる要素となっている。 イラストレーターの永井博や鈴木英人、わたせせいぞうといった卓越した一握りのアーティストは独自のスタイルを確立し、真夏のビーチや海沿いのハイウェイ、スイミングプールなどのイメージを通して、1980年代初頭のカノンにおいて支配的となった独自のスタイルを生み出した。彼らのイラストは、山下達郎、大瀧詠一といったシティ・ポップミュージシャンのアルバム・ジャケットに用いられ、代表的な視覚的記号表現となった。一方で彼らが描いた海岸や海といった典型的なモチーフは、ありのままの自然というよりも「疲れ切った都会人が夢見るレジャー空間」を表象しており、たいてい快適な都市生活のシンボルに囲まれている。その後、1980年代半ばになるとシティ・ポップのジャケットはイラストから、よく似た構図の写真へと置き換えられ、時にはそこへ類型的なポップスターのポートレート写真が組み合わされた。これほど特徴的ではないもののしばしば見られるのは、そのジャンル名が暗示する「大都市」というテーマをより直接的にアピールするとともに、富裕な都市環境を描くことで現代的洗練を表そうとするカバー・アートのスタイルであった。当時のシティ・ポップのアートワークは、アメリカ(おおむねカリフォルニアを想起させる)ものか、「トランスナショナル」な大都会を描いたものであるが、東京や横浜のビル街の夜景であっても、それら都市景観のうちに日本らしさを示す要素は皆無に近く、音楽的性質や歌詞と同様にシティ・ポップの「文化的無臭性」を反映している。このような「都市と海辺」という図像は「シティ・ポップ」というジャンルが最初に誕生してから終焉するまで一貫しており、このジャンルを最も容易に識別する特徴となっている。音楽ジャーナリストのイアン・マーティンはかつて「基本的に80年代に出たアルバムでプールの絵を表ジャケットに配したものはなんでも、おそらくシティ・ポップということになるだろう」と述べている。このように、シティ・ポップの歌詞が間メディア的にしばしば変換され、またアルバムのアートワークや雑誌の表紙、あるいはサウンドの特色等々を反復・強化していくことによって「ジャンルの特徴」が形作られていった。 シティ・ポップは当時から「形骸化した浮わついた音楽」「現実感に欠ける」などと批判的に捉えられることもあった。1980年代後半になると、まずロック中心主義的な「バンドブーム」の勃興が最初の向かい風になった。さらにJ-POPという広範なパラダイムの登場や、シティ・ポップの音楽環境が別の技術的・視聴覚的モデルへ取って代わられることによって存在感をなくしていった。そして1990年代に入りバブル崩壊によって社会に停滞感が漂うようになると、シティ・ポップと呼べる楽曲は激減し、代わりにKANの「愛は勝つ」の大ヒットに象徴されるように、地に足の着いた内省的な歌がリスナーから好まれるようになった。シティ・ポップは「J-POP」の中へ埋没してゆき、「シティ・ポップ」は死語、クリシェと化した。シティ・ポップの影響を受けた渋谷系が後継ジャンルとされることもあるが、制作意図や音楽的特徴は異なる。 2000年代には cero などのインディーズ・アーティストが「シティポップ・リバイバル」という形で言及されることもあった。
※この「1970-1980年代」の解説は、「シティ・ポップ」の解説の一部です。
「1970-1980年代」を含む「シティ・ポップ」の記事については、「シティ・ポップ」の概要を参照ください。
1970・1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 23:55 UTC 版)
1970・1980年代 1979年 『さらば国分寺書店のオババ』 情報センター出版局、1979年11月、のち角川文庫、新潮文庫 1980年 『わしらは怪しい探険隊』 角川文庫、1980年3月 『気分はだぼだぼソース』 情報センター出版局、1980年8月、のち新潮文庫 1981年 『かつをぶしの時代なのだ』 情報センター出版局、1981年4月、のち集英社文庫 『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』 本の雑誌社、1981年4月、のち集英社文庫 1982年 『場外乱闘はこれからだ』 文藝春秋 1982年6月、のち文庫 『地球どこでも不思議旅』 小学館、1982年11月、のち集英社文庫 1983年 『風にころがる映画もあった』 情報センター出版局、1983年4月、のち角川文庫 1984年 『インドでわしも考えた』 小学館、1984年2月、のち集英社文庫 『赤眼評論』 文藝春秋、1984年2月、のち文庫 『日本細末端真実紀行』 JTB出版局、1984年3月、のち角川文庫 『風景進化論』 情報センター出版局、1984年3月、のち新潮文庫 『あやしい探検隊 北へ』 情報センター出版局、1984年5月、のち角川文庫 『むははは日記』 本の雑誌社、1984年9月、のち角川文庫 『イスタンブールでなまず釣り。』 情報センター出版局、1984年10月、のち文春文庫 1985年 『全日本食えばわかる図鑑』 小学館、1985年3月 『あやしい探検隊 不思議島へ行く』 光文社、1985年9月、のち角川文庫 『シベリア夢幻 零下59度のツンドラを行く』 情報センター出版局、1985年12月、のち『零下59度の旅』と改題、集英社、集英社文庫、1991年 1986年 『むはの断面図』 本の雑誌社、1986年4月 『フグと低気圧』 講談社、1986年9月、のち文庫 『海を見にいく』 本の雑誌社、1986年12月 1987年 『パタゴニア-あるいは風とタンポポの物語り』 情報センター出版局、1987年5月、のち集英社文庫 『ロシアにおけるニタリノフの便座について』 新潮社、1987年7月、のち文庫 『少年の夏』 徳間書店、1987年7月、のち新潮文庫 『活字のサーカス -面白本大追跡-』 岩波書店、岩波新書、1987年10月 『シベリア追跡』 小学館、1987年11月、のち集英社文庫 1988年 『ハーケンと夏みかん』 山と渓谷社、1988年5月、のち集英社文庫 『熱風大陸 ダーウィンの海をめざして』 講談社、1988年4月、のち文庫 1989年 『風の国へ』 朝日新聞社、1989年9月、のち『風の国へ・駱駝狩り』と改題、新潮社、新潮文庫、1994年 『駱駝狩り』 朝日新聞社、1989年9月 『酔眼装置のあるところ』 本の雑誌社、1989年12月、のち『ばかおとっつあんにはなりたくない』と改題、角川書店、角川文庫、2003年
※この「1970・1980年代」の解説は、「椎名誠」の解説の一部です。
「1970・1980年代」を含む「椎名誠」の記事については、「椎名誠」の概要を参照ください。
- 1970~1980年代のページへのリンク