石井輝男エログロ映画とは? わかりやすく解説

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石井輝男エログロ映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 14:41 UTC 版)

東映ポルノ」の記事における「石井輝男エログロ映画」の解説

当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛極めソロバンはじいてみると、松竹年間配給よりも総体上回ることが分かり今度懐刀天尾完次プロデューサー呼びピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意時代劇衣装がある。あれを活かそう大手東映豪華なエロ時代劇作ろう天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男撮らせる。おまえはピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と指示した東映時代劇黄金時代築いただけに、東映京都には豪華な衣装が数10億円あるといわれた。これが実質的な東映ポルノ」のスタートとなる。当時大蔵映画国映などの独立プロこうしたエロ映画製作していて大手五社手を染めることは大きな抵抗感があったが、岡田易々と一線越えていく。 時代劇から任侠映画への路線変更成功した岡田は、その成功要因を"不良性感度"にあると考えた。「急速なテレビの普及女性子供層はお茶の間テレビ奪取された。それなら〈ご家族そろって東映映画〉の看板降ろしテレビからこぼれ落ちた不良的な成人男性狙い絞った企画中心に据えよう」と考えた岡田は、「任侠映画だけでは彼らを満足させきれない、"不良性感度"の強い任侠映画善良な映画付けて観客戸惑うだろう。成人男性が喜ぶ不良性のあるものは...エロだ!」と、新たなメイン観客層を想定した杉作J太郎が「当時東映映画館女性皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画作ってきたから。そういう男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。それは岡田さん大いなるギャンブル残してくれた遺産なんです」と解説する極端な"男性路線"の始まりであった結果東映専属女優次々東映去っていった。 岡田指揮するエロ路線のうち、色の濃くないグロつかない方を翁長孝雄プロデューサーが、グロの強い方を天尾完次プロデューサー担当した岡田指示した好色路線としてのスタートは、山田風太郎原作映画化で、エロ忍者映画忍びの卍』(鈴木則文監督1968年)だったのだが、これも東映女優が脱がなかった為に興行的に失敗した東映専属女優はなかなか脱いでくれなかった。 この反省から好色路線エスカレートさせ、石井輝男に作らせたのが1968年豪華絢爛たる色欲絵巻徳川女系図であった。 『徳川女系図』製作発表会見で岡田は「人間の二大欲求である食と性とりわけ性愛正し方向持って行くことこそ、娯楽映画製作者課せられた重要な義務である」と抱負述べた本作メジャー映画会社として初の成人指定映画で、本作企画タイトル岡田考案よるもので、石井充て企画書には「群小ピンク映画撃滅せよ」と書かれ、この作品からノースターでピンク女優大量投入実質的なエロ映画路線」は本作からであった石井当時網走番外地』という高倉健主演超人シリーズ手掛けていたが、もう飽き飽きしていて「何か別の事をやりたい」と岡田要請応えた。 『徳川女系図』は1968年ゴールデンウィークメイン映画として封切られたことでピンク映画界を震撼させた。しかし結果的に話題にもなり奇跡大ヒット記録3000万円の製作費でたちまち一億円以上、三億円稼いだといわれる。『徳川女系図』は㊙はタイトル付いていないが「マル㊙シリーズ第四弾だったという見方もあり、本来、岡田目指した「大奥もの」の完成形はここにあったが、この路線映画史の裏街道歩む石井岡田意図大胆に表現ヌードセックスだけでなく、拷問処刑等、グロテスクな描写取り入れその後エログロエスカレートさせていく。 東映社長大川博映画お目付け役である映倫維持委員会委員長を務めていたが、岡田は「社長委員長であるにしろ、私はプロデューサーだ」と"岡田路線"を突っ走りここから再三に渡り映倫揉め映倫を困らせた。 同年9月28日公開の『徳川女刑罰史』は、冒頭から首が飛ぶ!胴を斬る!衝撃三段斬り!が展開される東映初の「SM映画」で、東の団鬼六、西の辻村隆といわれたSM界の巨匠緊縛指導付いて地獄絵図そのままに、サディズム極限追求して徳川刑罰十四種が繰り広げられる、その見世物性たるや今どきのSMビデオにも劣らない清純派として売り出したはずの橘ますみが"空中海老吊り"にされ、かけられ悲鳴を上げ撮影中断する凄惨な現場だったといわれる映画評論家佐藤忠男が『キネマ旬報』に本作を「日本映画の最低線への警告」と題してエロ・グロ人格的侮辱イメージ羅列していける神経にほとんど嘔吐感が込み上げる」「ピンク映画専門プロダクション作る映画でもここまで愚劣でない」などと酷評した大高宏雄は「商業主義的な製作の姿勢は、企業映画だから会社内外容認できるとして、そこからさらに逸脱した超=商業主義とでも言いたい製作の恐るべき発展形がそこにあった」と評している。 『徳川女刑罰史』は、B級スターのみの出演にも関わらず1968年年間配給収入ベストテンランクされ、同じ東映鶴田浩二高倉健藤純子出演任侠映画人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)を上回るコストパフォーマンスの高さだった。当時東映二枚看板鶴田浩二高倉健ギャラは、一本500万円だったため、スター使わないエロ映画これだけ儲かるのであれば経営者としては続けざるを得ないのは当然だった。 「東映ポルノ」は、東映歴史大きく関わりがあり、場合によっては生まれなかったジャンルでもある。 当時映画に全く興味がない東映社長大川博息子大川毅専務映画儲けた利益ボウリング場経営プロ野球経営注入し大川親子映画製作部門縮小或いは松竹委ねて東映ボウリング場とする総合レジャー産業事業転換させようとしていた。映画会社映画好きな人間の集団だけに、社員から総スカン食い一年東映社員200辞めるなど東映内がゴタゴタした。こうした東映内紛を『週刊文春1968年5月6日号が「東映大奥㊙物語出所大川一族憤慨させた怪文書」と題して報じたため大騒ぎとなった東映社内では『忠臣蔵』に例え吉良上野介大川親子で、浅野内匠頭五島昇岡田今田智憲東西撮影所長が二人大石内蔵助としてムホン期待する声が上がった当時企画主導権東西撮影所長が握っていたため、岡田今田には強い権限持たされていた。また五島昇岡田東急グループ移籍させるという噂や、岡田と仲のよい松竹白井昌夫専務引退する自身後釜岡田引き抜くなどの噂が流れ、製作実務担当する岡田活動重役が、大川毅反旗を翻し会社作るのではといわれ、労組攻勢加わり会社業務運営上の批判猛烈に高まった。 このことから大川博社長は、政権委譲考えていた息子の安全か会社安泰二者択一迫られ、『徳川女系図公開直後1968年5月17日首脳陣一新する大幅人事発表この人事は映画界過去歴史に例を見ない異動で、"東映未曾有の大手術"などと評され業界では驚きの声が上がった大川社長は毅を辞めさせる腹づもりだったが、岡田今田から「辞めさせるのは簡単ですが、復社となると面倒です。取締役残されては」という進言受け入れ大川毅専務は平重役格下げされ大川博娘婿東京六大学ヒーローだった吉田治事業部長退社したこの人事で岡田初代マキノ満男二代目坪井与(與)専務次いで東映三代目の製作の最高責任者企画製作本部長就任(兼京都撮影所長)、今田智憲営業最高責任者営業本部長兼興行部長就任した岡田今田花道せり出した。 同時に東映文芸ものを企画していた坪井与(與)専務映画製作担当下りテレビ本部長教材映機本部長就任したため、岡田指揮する暴力エロが一層強化されることになった岡田企画製作本部長就任記者会見で「東映の製作方針大衆がすぐ食いつくような興味本位三流作品で、あくまで大衆週刊誌感覚で、エロでも何でもやる。したがって製作宣伝関係者にはテレるな、ええカッコするなと指示している。やくざ物は『飛車角以来六年になるが時代劇替わる鉱脈だったわけだから今後とも強化する方針だ。エロについては映倫限界というものがあるが、ギリギリの線でやるつもりだ。日活のようにエロ二本立てではなくウチでは活劇エロ二本立てがよい成績挙げている。映画観客は固定していると言うが、東映は、それ以外の層を積極的に獲るというより固定数の中のマジョリティを狙う。企画もそれによって自ずと方向けられる。若いタレントが育つのは映画では時間がかかる。その証拠若山富三郎がやっとスターになった。東西撮影所とも新・部長・課長次第力を付けている。これをいかに善導していくか、それが私にとって最大任務だ」などと抱負述べた。 また映画部門縮小されると『キネマ旬報』で報じられたことから、大川社長映画部門強化を図るべく、1968年8月31日付け東映に製作本部営業本部一貫したそれまでなかった「映画本部」を新設しその本部長岡田就任させた。「映画本部」は映画の製作配給興行までを完全に統轄するもので、自分作った商品自分で売る、売れる物を作る自分売れないと思う物は作らないでよいという権限持たされた。大川は「大衆求め刺激の強い映画作ることで企業安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題沿って徹底した企画立てている。岡田本部長権限は、いわば一つ映画会社社長立場匹敵する自分思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べた東映看板女優佐久間良子大川社長に企画直談判して大川から「岡田君と相談して決めなさい」と差し戻される程で、映画製作岡田丸投げされた。 大川から「岡田君、お前東映映画社長だ」と煽てられていたといわれる岡田1971年1月映画本部長テレビ本部長就任し映像製作部門の全権掌握、このポストのまま東映社長に就任したため、1968年9月以降東映岡田飛び越して企画成立したり、岡田関係ないところで東映映画製作されることはないので注意が必要である。 1968年9月以降東映では、岡田好み映画しか製作されなかった。また1971年社長就任以降長く重役置かないワンマン体制敷き他社路線変更など重要案件大変な騒動会議を伴う中、東映岡田一言全部決まった石井輝男1968年の『徳川女系図』を皮切りに1969年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』まで、一年半の間にハイペース東映京都撮影所撮った9本のエログロ映画今日"性愛路線" "異常性愛路線"と呼ぶことが多いが、本来は、これら9本のエログロ映画は、岡田茂提唱した五つ路線から成る岡田は「路線確立しなければ単発当てて儲からない」という考え持っており、「刺激や異常を扱った映画をいい加減には作らない手数をかけて作る。たとえ映画界悪漢視されてもやるからには一方旗頭になってやる」「どんなに悪者扱いされよう大衆が喜ぶものを作るだけ。笑わせる泣かせる握らせる(手に汗を)映画作りたい」と世間から叩かれても強気姿勢見せヤクザエロ続け決意述べた。この次々新路線を創り出して失敗と成功繰り返して東映危機乗り越え東映繁栄築き上げた岡田実力人間的信用が、後に東映社長後継者として最適任と内外ともに拍手持って迎えられる大きな要件となって生きた石井当時フリーで、東映とは本数契約だった。路線途中日活正統的な任侠映画昇り竜鉄火肌』を撮っているのはこのため石井自身「『徳川女系図以後企画は私の発案ではありません」、後述する石井排斥運動起きた際には「このシリーズボク一人つくっているんじゃないんで、文句があれば企画立てた会社ぶつけて欲しいです」と東映責任転嫁している。岡田は「わりに早い時期に、監督脚本家東映専属をやめ、みんなフリーにした。深作欣二佐藤純彌中島貞夫降旗康男それ以外もずいぶんいる」と述べており、東映監督思われている著名な監督は、最初社員東映専属であっても1960年代後半からは、ほとんどがフリーである。フリーだと当然社員よりギャラ高く、どこの会社映画撮ろう自由だが、自身企画東映で通す権限はないため、東映主な作品監督企画映画あまりない企画岡田なり各プロデューサー持ち込み最終的にジャッジするのは岡田である。またプロデューサー映画スタッフ俳優大半東映社員であるため、フリー監督東映以外監督をする場合東映スタッフ俳優を使うときは、東映許可必要になる他社映画製作東映社員持って行かれるその間東映での映画製作支障が出るからである。石井は「専属だと予算配役日程など、条件悪くて意に染まないものでもやらなければならないフリーだと、こちらの考え合わないものは断ることが出来ます大会社組織にいると予算編成とかがルーズですね。企業家としてソロバンの立つことがフリー監督では不可欠です」などと述べている。 岡田1968年の『徳川女系図』から始まるエロ路線映画を、"刺激性路線"とネーミング石井作品温泉あんま芸者』『徳川女刑罰史』と、1968年夏の時点で既に1969年正月映画として岡田企画準備していた石井作品タイトル妖婦百人』(『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』)や、石井作品だけではなく公開1969年1月になった中島貞夫監督の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』など、1968年後半エロ映画全てを"刺激性路線"と提唱した。これに続く東映新路線として1968年暮れ岡田発表したのが、1969年東映新路線"性愛もの"シリーズ"性愛路線"であった。このとき発表した1969年"性愛路線"東映ラインナップは、『異常・残酷・虐物語元禄女系図』(『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』)『異常性愛記録 ハレンチ』『㊙女子大生妊娠・中絶』(『㊙女子大生 妊娠中絶』)『㊙トルコ風呂指先魔術師』『婦人科秘聞・下半身相談』『元禄いれずみ師・責め絵』(『徳川いれずみ師 責め地獄』)『温泉ポン引女中』『不良あねご伝』『やざぐれのお万』(『やさぐれ姐御総括リンチ』?)などだった。『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』が二つ路線に被るが、『㊙女子大生 妊娠中絶』は小西通雄監督で、当時の映画誌に荒井三雄監督の『温泉ポン引女中』を"性愛路線第七作"と紹介した記述見られることから、"性愛路線"も石井作品だけを指すものではなく1969年製作する東映エロ映画全て指していた。つまり公開1969年かかって1968年製作したエロ映画全てが"刺激性路線"、1969年に製作を予定していた東映エロ映画全て"性愛路線"と最初呼んだ石井1969年の『キネマ旬報4月下旬号で「今年岡田氏と二人一緒悪役でいこうということで、いわゆるオーソドックスな線だけではなくそういう方面性愛路線)に活路があるのではないかという考え方やっているのです。若い人にも同じ考え人がいるわけで、大いそういう人達を糾合して、企業ハレンチ派をつくって今年大いハレンチ派を伸ばしていこうと思っているわけです」と述べた2018年現在はあまり使われないが、当時は"ハレンチ"という言葉広く使われた。 1969年4月徳川いれずみ師 責め地獄』の撮影中、由美てる子逆さ片足吊り一日中吊るされるなどの異常な撮影失踪し代役片山由美子)、これを切っ掛け撮影所冒涜したと東映京都助監督たちによる石井ボイコット運動起きた。このとき助監督たちが作成した告発文に"異常性愛路線"という言葉使われ、この騒動新聞週刊誌テレビ全国ニュースにも大きく取り上げられ論争起こす大問題に発展したため、"異常性愛路線""残虐異常性愛路線"といった言葉拡散した。"異常性愛"という言葉1969年2月21日公開の"性愛路線"の第二弾『異常性愛記録 ハレンチ』で、映画のタイトルとしても初め使用されたものと見られ、この"異常性愛"という言葉と"路線"をくっ付け東映京都助監督たちが"異常性愛路線"という言葉最初に使ったものと推察される。岡田提唱していたのは"性愛路線"で"異常性愛路線"と言ったことはなく、石井作品常連女優賀川ゆき絵は「私達は"性愛路線"と言われいましたよ。"異常"はついてなかった(笑)」と述べている。岡田はこの排斥運動反論し体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビかじりついている。だから、昔のファン受けたような旧体制映画作っていたのでは、現代映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と一蹴した他社類似昨品が増え商売やりにくくなったため、荒井三雄監督の『温泉ポン引女中』を最後に石井作品でいえば『徳川いれずみ師 責め地獄』を最後に"性愛路線"から手を引き、「70年安保控えて映画時代即応した強度暴力が受けるはず」と岡田次に打ち出したのが、"刺激暴力路線" "ゲバルト路線"『やくざ刑罰史 私刑!』だった。石井も「"ひっぱがし"を6本も作ったので、もう飽きた」と話した。"ゲバルト路線"は、石井ボイコット運動の前から構想があり、1969年性愛路線"として打ち出した第二弾で2月公開した異常性愛記録 ハレンチ』が興収1億5000万円までガクッと落ち各社エロ映画氾濫しブーム下火になったため、先を見越して"性愛路線"から"ゲバルト路線" "暴力私刑路線"に方向転換したともいわれる1969年3月14日にあった東映定例会見で岡田が「セックス路線も少しマンネリになので刺戟路線というようなものに変えてゆく」と発表した。しかし"ゲバルト路線"は警視庁から「70年安保控えて鬱積する青少年エネルギーゲバルトに向かう。エロ映画より悪い」という見方があったとされ、"ゲバルト路線"は『やくざ刑罰史 私刑!』1本だけで終わり続いて打ち出されたのが"実話路線"。これが本物阿部定引っ張り出したことでも知られる明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』。「阿部定事件」「小平事件」「日本事件」「高橋お伝」など、ショッキングな事件そのままオムニバス映画化する発表し東映阿部定記者会見にも出席させ、物凄い数の報道陣集まりヤクザ映画これまでの"刺激路線"が一段とエスカレートするのではと評され良識論争引き起こした。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史公開時新聞広告に"実録路線第一弾"と書かれたものがあり、『やくざ刑罰史 私刑!』と『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、1970年代東映実録路線いち早く開拓したとの評価もある。『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』はヒットし掛札昌裕は「ずっとそれをシリーズやることになったんですよ、『説教強盗』ってサブタイトルまでついていたんですけど、何か石井さんが違う方向行きたいというのがあったんでしょうね」と述べており、"実話路線"は続く予定だったと見られる大手映画会社経営軒並み"火の車"状態で、"任侠路線"と"エログロ路線"の大当たりにより、東映一社のみ黒字毎年出し続け1960年代後半配収トップの座を守り続けた1969年上半期五社の総配収のうち、東映配収シェア40.3%になった1960年代後半映画製作だけで黒字出していたのは東映だけで、東宝以外の松竹日活大映東映マネをしようと必死努力続けた1969年8月石井監督の『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史公開前に岡田が「『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』と11月公開予定しているエロチック・アニメーション『㊙劇浮世絵捕物帳』(『㊙劇画 浮世絵千一夜』)を最後に"刺激路線"にピリオドを打つ」と発表した。この二本立て新聞広告に「シャム双生児春本浮世絵お楽しみ」と惹句書かれ当時エロ映画への風当たり強くなり、警視庁婦人団体からエロ映画取締り強化するよう突上げ食らい映倫審査強化要請していた。 撤退理由として岡田は「至極カンタン理屈70年対策明年安保万博の年。万博影響大したことないが、怖いのは安保闘争だ。世の中が上へ下への大騒ぎをしているときに、ハダカムチ打ったり、逆さ吊りにするようなシンドイものは敬遠されるのではないか」と話した。また岡田は「もし("性愛路線"を)復活するなら、ひとまず静まった明後年1971年)」と話しその代わり江戸川乱歩夢野久作などの全集ベストセラーになっていることにヒント得て、"怪奇ロマン路線"を敷くとし、現状への欲求不満鬱積こうした怪奇幻想走らせているのだし明年思想主流一つ」と述べた石井監督次回作を急きょ切換えての第一弾を『パノラマ島奇譚』と発表し、「江戸川乱歩有名な原作中心に他の作品加味するこうしたものは松竹がすでに丸山明宏で手がけたことがあるが、単なる幻想ではなく、もっとリアルな内容にする」と説明した。 また「江戸川乱歩作品かたっぱしから映画にする」と合わせて発表し、"怪奇ロマン路線"は本作一本ではなく路線化される予定で、次作予定していたのは『地獄であった内容大きく変わり1999年に『地獄』として映画化)。 当時マスメディアからは「従来路線オブラート包んだ形になるのだろう。しかし数々フンドシ女優怪奇ロマン切り替えられるのか」「『恐怖畸形人間』という題からも想像されるように畸形人間オンパレード怪奇幻想といえば聞こえはいいが、要する乱歩ブームにあやかったエログロ路線一変種。つまり畸形映画というわけだ」「配役霊感女優北条きく子が乱歩の霊を呼び、そのお告げ決めるという。ヒロイン北条きく子と御託宣下ったらどないするねン」などとおちょくられた。 石井輝男監督の"異常性愛路線"と総称される9本のうち、最後3本は、路線といっても1本だけで終わったが、それぞれ、"ゲバルト路線"『やくざ刑罰史 私刑!』、"実話路線"『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』、"怪奇ロマン路線"『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間であった1969年10月15日公開の『日本暗殺秘録』を"ゲバルト路線"第一弾とする文献もある。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は興行惨敗し、"異常性愛路線"も惨めな終了迎えた。 この時期テレビから無料巻き散らされ日常的で軽いエロ大ウケし、特に同時放送された「野球拳のコーナー大ウケした日本テレビコント55号の裏番組をぶっとばせ!』が開始され爆発的な人気得た当時大衆求めていたのは、石井描いた濃厚泥臭い性愛絵図ではなく、もっと軽いエロだったという見方もある。 石井エログロ映画徳川女系図』の大成功は、邦画五社大きな影響及ぼしテレビの普及による観客減に喘いでいた映画各社揃ってエロ映画番組乗せることで命脈保とう試みたテレビ側もこの事態静観せず、映画エロ集客するなら、テレビエロを追うという発想映画対抗したテレビ界は1969年秋の番組改編期で、一層お色気シーン増量させた。テレビにまで影響及ぼした"異常性愛路線"はテレビによって命脈絶たれのである。"異常性愛路線"は打ち上げ花火のように一瞬燃え尽きた日本映画徒花だった。 しかし1980年代入りアメリカから「カルト映画」の概念入って来て復活リアルタイム知らない新し映画ファンの間で口コミ評判広がり以後20年渡って名画座定番作品となった。 『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は日本映画カルト視点から観るその先駆けといわれ、石井輝男再評価及び復活起爆剤となった。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の併映作だった『㊙劇画 浮世絵千一夜』が公開後警視庁保安一課から、「刑法にふれる疑いがあり、カットしない場合断固取り締まる」とキツい警告があり、東映カット応じたが、大手東映独立プロ危険な映画買ってむざむざアミ引っ掛かるという失態演じ官憲直接介入による作品カットという悪い前例残し映画界にとって大きなマイナスとなった東映社長大川博勲二等瑞宝章という大臣級の勲章を受け、1969年度の教育映画祭で功労章受けたことから「これでは国民の名において贈られ勲章泣く」などと批判された。 大川映画作りに口を出さず岡田自由な映画作りをさせてくれる大川に、「現場にいてどんなにありがたかったことか」と話しており、エログロ映画終了この影響あったかしれない。"性愛路線"も1969年夏あたりから、興行成績落ちており、高倉健独立説も沸き上がり任侠路線任せていた俊藤浩滋が「会社離れて製作した方が能率的」と爆弾発言刺激暴力路線"に力を入れ岡田と俊藤との対立始まっていた。 1969年暮れ時点では1970年8月に『地獄』 (1999年の『地獄』はこれの内容大きく変えたもの)を公開して一連の性愛路線”を終了させるという構想があった。 石井は『地獄』の製作準備をしていたが、石井次に与えられ企画は、岡田から売り出し頼まれ大型新人渡瀬恒彦デビュー主演作『殺し屋人別帳』東映はしばらく成人映画路線凍結し石井東映で『地獄』を撮る機会与えられることはなかった。 “性愛路線の提唱者である岡田は、『読売新聞夕刊1970年3月7日付けの『現代映画セックス』という記事で、“性愛路線”が下火になったとするインタビュー答え、「続けてやっているとどうしてもグロになってしまうもんだから。でも映画エロチシズム要素残しておく必要があると思う。お客要求にこたえる意味でもね。石井輝男当初ハダカユーモアとして表現したんだが、連続して作っていると、ハダカ表現には制約があるから、サドマゾホモ異常性愛傾きグロテスクな方向に進まざるを得なかった。そんなときに『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『㊙劇画 浮世絵千一夜に対して警視庁取り締まり強化宣言映倫への警告があった。われわれが自主規制建て前として作った映倫追い込んではいかん。それは意識します。だから今度作るとなると初心に帰って一から始めることが必要だユーモアのある艶笑ものですな。ただこれは力のある監督でないと出来ないんだ」と“性愛路線”を終了させた理由話した。 『読売新聞』は「ビジネスとして作り始めた性愛路線”がエスカレートして提唱者の手負えなくなってたらしいお客の方が食傷気味見せ物的なエロを見限ったという理由もあろうが、このへん現代セックス状況奇怪さが現れているようである」と解説している。

※この「石井輝男エログロ映画」の解説は、「東映ポルノ」の解説の一部です。
「石井輝男エログロ映画」を含む「東映ポルノ」の記事については、「東映ポルノ」の概要を参照ください。

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