石井輝男エログロ映画
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当時ピンク映画が、表立って宣伝もしないのに隆盛を極め、ソロバンをはじいてみると、松竹の年間配給よりも総体で上回ることが分かり、今度は懐刀の天尾完次プロデューサーを呼び「ピンク映画だけに儲けさせることはないぞ。こっちにはお得意の時代劇の衣装がある。あれを活かそう。大手の東映が豪華なエロ時代劇を作ろう。天尾、おまえやれ」「おれが石井輝男に撮らせる。おまえはピンク女優をかき集めてこい。裸でいくんじゃ」と指示した。 東映は時代劇で黄金時代を築いただけに、東映京都には豪華な衣装が数10億円あるといわれた。これが実質的な「東映ポルノ」のスタートとなる。当時は大蔵映画、国映などの独立プロがこうしたエロ映画を製作していて大手五社が手を染めることは大きな抵抗感があったが、岡田は易々と一線を越えていく。 時代劇から任侠映画への路線変更に成功した岡田は、その成功要因を"不良性感度"にあると考えた。「急速なテレビの普及で女性・子供層はお茶の間のテレビに奪取された。それなら〈ご家族そろって東映映画〉の看板を降ろし、テレビからこぼれ落ちた不良的な成人男性に狙いを絞った企画を中心に据えよう」と考えた岡田は、「任侠映画だけでは彼らを満足させきれない、"不良性感度"の強い任侠映画に善良な映画を付けても観客は戸惑うだろう。成人男性が喜ぶ不良性のあるものは...エロだ!」と、新たなメイン観客層を想定した。 杉作J太郎が「当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。そういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と解説する極端な"男性路線"の始まりであった。結果、東映の専属女優は次々に東映を去っていった。 岡田の指揮するエロ路線のうち、色の濃くないグロのつかない方を翁長孝雄プロデューサーが、グロの強い方を天尾完次プロデューサーが担当した。 岡田が指示した好色路線としてのスタートは、山田風太郎原作の映画化で、エロ忍者映画『忍びの卍』(鈴木則文監督、1968年)だったのだが、これも東映の女優が脱がなかった為に興行的に失敗した。東映専属の女優はなかなか脱いでくれなかった。 この反省から好色路線をエスカレートさせ、石井輝男に作らせたのが1968年の豪華絢爛たる色欲大絵巻『徳川女系図』であった。 『徳川女系図』製作発表会見で岡田は「人間の二大欲求である食と性、とりわけ性愛を正しい方向へ持って行くことこそ、娯楽映画製作者に課せられた重要な義務である」と抱負を述べた。本作はメジャー映画会社として初の成人指定映画で、本作の企画もタイトルも岡田の考案によるもので、石井に充てた企画書には「群小ピンク映画を撃滅せよ」と書かれ、この作品からノースターでピンク女優を大量投入、実質的な「エロ映画路線」は本作からであった。石井は当時『網走番外地』という高倉健主演の超人気シリーズを手掛けていたが、もう飽き飽きしていて「何か別の事をやりたい」と岡田の要請に応えた。 『徳川女系図』は1968年のゴールデンウィークのメイン映画として封切られたことでピンク映画界を震撼させた。しかし結果的に話題にもなり奇跡の大ヒットを記録、3000万円の製作費でたちまち一億円以上、三億円稼いだといわれる。『徳川女系図』は㊙はタイトルに付いていないが「マル㊙シリーズ」第四弾だったという見方もあり、本来、岡田が目指した「大奥もの」の完成形はここにあったが、この路線は映画史の裏街道を歩む。石井は岡田の意図を大胆に表現、ヌード、セックスだけでなく、拷問、処刑等、グロテスクな描写を取り入れ、その後もエログロをエスカレートさせていく。 東映社長・大川博は映画のお目付け役である映倫の維持委員会委員長を務めていたが、岡田は「社長は委員長であるにしろ、私はプロデューサーだ」と"岡田路線"を突っ走り、ここから再三に渡り映倫と揉め、映倫を困らせた。 同年9月28日公開の『徳川女刑罰史』は、冒頭から首が飛ぶ!胴を斬る!衝撃の三段斬り!が展開される東映初の「SM映画」で、東の団鬼六、西の辻村隆といわれたSM界の巨匠が緊縛指導に付いて、地獄絵図そのままに、サディズムの極限を追求して徳川女刑罰十四種が繰り広げられる、その見世物性たるや今どきのSMビデオにも劣らない。清純派として売り出したはずの橘ますみが"空中海老吊り"にされ、水をかけられ悲鳴を上げ撮影が中断する凄惨な現場だったといわれる。 映画評論家の佐藤忠男が『キネマ旬報』に本作を「日本映画の最低線への警告」と題して「エロ・グロと人格的侮辱のイメージを羅列していける神経にほとんど嘔吐感が込み上げる」「ピンク映画専門のプロダクションが作る映画でもここまで愚劣でない」などと酷評した。 大高宏雄は「商業主義的な製作の姿勢は、企業映画だから会社内外で容認できるとして、そこからさらに逸脱した超=商業主義とでも言いたい製作の恐るべき発展形がそこにあった」と評している。 『徳川女刑罰史』は、B級スターのみの出演にも関わらず、1968年の年間配給収入ベストテンにランクされ、同じ東映で鶴田浩二や高倉健、藤純子ら出演の任侠映画『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)を上回るコストパフォーマンスの高さだった。当時の東映の二枚看板・鶴田浩二、高倉健のギャラは、一本500万円だったため、スターを使わないエロ映画がこれだけ儲かるのであれば、経営者としては続けざるを得ないのは当然だった。 「東映ポルノ」は、東映の歴史と大きく関わりがあり、場合によっては生まれなかったジャンルでもある。 当時、映画に全く興味がない東映社長・大川博の息子・大川毅専務が映画で儲けた利益をボウリング場経営やプロ野球の経営に注入し、大川親子は映画製作部門を縮小、或いは松竹に委ねて、東映をボウリング場を柱とする総合レジャー産業に事業転換させようとしていた。映画会社は映画の好きな人間の集団だけに、社員から総スカンを食い、一年で東映の社員が200人辞めるなど東映内がゴタゴタした。こうした東映内紛を『週刊文春』1968年5月6日号が「東映大奥㊙物語の出所・大川一族を憤慨させた怪文書」と題して報じたため大騒ぎとなった。 東映社内では『忠臣蔵』に例え、吉良上野介が大川親子で、浅野内匠頭が五島昇、岡田と今田智憲の東西両撮影所長が二人大石内蔵助としてムホンを期待する声が上がった。当時の企画の主導権は東西両撮影所長が握っていたため、岡田と今田には強い権限が持たされていた。また五島昇が岡田を東急グループに移籍させるという噂や、岡田と仲のよい松竹の白井昌夫専務が引退する自身の後釜に岡田を引き抜くなどの噂が流れ、製作実務を担当する岡田ら活動屋重役が、大川毅に反旗を翻し別会社を作るのではといわれ、労組攻勢も加わり、会社業務運営上の批判が猛烈に高まった。 このことから大川博社長は、政権委譲を考えていた息子の安全か会社の安泰か二者択一に迫られ、『徳川女系図』公開直後の1968年5月17日に首脳陣を一新する大幅人事を発表。この人事は映画界過去の歴史に例を見ない異動で、"東映未曾有の大手術"などと評され、業界では驚きの声が上がった。大川社長は毅を辞めさせる腹づもりだったが、岡田と今田から「辞めさせるのは簡単ですが、復社となると面倒です。取締役で残されては」という進言を受け入れ、大川毅専務は平重役に格下げされ、大川博の娘婿で東京六大学のヒーローだった吉田治雄事業部長は退社した。この人事で岡田が初代・マキノ満男、二代目・坪井与(與)専務に次いで東映三代目の製作の最高責任者・企画製作本部長に就任(兼京都撮影所長)、今田智憲は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任した。 岡田と今田が花道にせり出した。 同時に東映で文芸ものを企画していた坪井与(與)専務が映画製作担当を下り、テレビ本部長兼教材映機本部長に就任したため、岡田の指揮する暴力とエロが一層強化されることになった。 岡田は企画製作本部長就任の記者会見で「東映の製作方針は大衆がすぐ食いつくような興味本位の三流作品で、あくまで大衆週刊誌の感覚で、エロでも何でもやる。したがって製作宣伝関係者にはテレるな、ええカッコするなと指示している。やくざ物は『飛車角』以来六年になるが時代劇に替わる鉱脈だったわけだから今後とも強化する方針だ。エロについては映倫の限界というものがあるが、ギリギリの線でやるつもりだ。日活のようにエロ二本立てではなく、ウチでは活劇とエロの二本立てがよい成績を挙げている。映画観客は固定していると言うが、東映は、それ以外の層を積極的に獲るというより固定数の中のマジョリティを狙う。企画もそれによって自ずと方向づけられる。若いタレントが育つのは映画では時間がかかる。その証拠に若山富三郎がやっとスターになった。東西両撮影所とも新・部長・課長が次第に力を付けている。これをいかに善導していくか、それが私にとって最大の任務だ」などと抱負を述べた。 また映画部門が縮小されると『キネマ旬報』で報じられたことから、大川社長は映画部門の強化を図るべく、1968年8月31日付けで東映に製作本部と営業本部を一貫したそれまでなかった「映画本部」を新設し、その本部長に岡田を就任させた。「映画本部」は映画の製作・配給・興行までを完全に統轄するもので、自分で作った商品を自分で売る、売れる物を作る、自分で売れないと思う物は作らないでよいという権限を持たされた。大川は「大衆が求める刺激の強い映画を作ることで企業を安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題に沿って徹底した企画を立てている。岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する。自分の思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べた。 東映の看板女優・佐久間良子が大川社長に企画を直談判しても大川から「岡田君と相談して決めなさい」と差し戻される程で、映画製作は岡田に丸投げされた。 大川から「岡田君、お前は東映映画の社長だ」と煽てられていたといわれる。 岡田は1971年1月に映画本部長兼テレビ本部長に就任し、映像製作部門の全権を掌握、このポストのまま東映社長に就任したため、1968年9月以降、東映で岡田を飛び越して企画が成立したり、岡田と関係ないところで東映で映画が製作されることはないので注意が必要である。 1968年9月以降東映では、岡田好みの映画しか製作されなかった。また1971年の社長就任以降、長く重役を置かないワンマン体制を敷き、他社が路線変更など重要案件に大変な騒動と会議を伴う中、東映は岡田の一言で全部決まった。 石井輝男が1968年の『徳川女系図』を皮切りに1969年の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』まで、一年半の間にハイペースで東映京都撮影所で撮った9本のエログロ映画を今日"性愛路線" "異常性愛路線"と呼ぶことが多いが、本来は、これら9本のエログロ映画は、岡田茂が提唱した五つの路線から成る。岡田は「路線が確立しなければ単発で当てても儲からない」という考えを持っており、「刺激や異常を扱った映画をいい加減には作らない。手数をかけて作る。たとえ映画界に悪漢視されてもやるからには一方の旗頭になってやる」「どんなに悪者扱いされようと大衆が喜ぶものを作るだけ。笑わせる、泣かせる、握らせる(手に汗を)映画を作りたい」と世間から叩かれても強気の姿勢を見せ、ヤクザとエロを続ける決意を述べた。この次々新路線を創り出しては失敗と成功を繰り返して、東映の危機を乗り越え、東映の繁栄を築き上げた岡田の実力と人間的信用が、後に東映社長の後継者として最適任と内外ともに拍手を持って迎えられる大きな要件となって生きた。石井は当時はフリーで、東映とは本数契約だった。路線の途中に日活で正統的な任侠映画『昇り竜鉄火肌』を撮っているのはこのため。石井自身「『徳川女系図』以後の企画は私の発案ではありません」、後述する石井排斥運動が起きた際には「このシリーズはボクが一人でつくっているんじゃないんで、文句があれば企画を立てた会社にぶつけて欲しいです」と東映に責任転嫁している。岡田は「わりに早い時期に、監督や脚本家の東映専属をやめ、みんなフリーにした。深作欣二、佐藤純彌、中島貞夫、降旗康男、それ以外もずいぶんいる」と述べており、東映の監督と思われている著名な監督は、最初は社員で東映専属であっても1960年代後半からは、ほとんどがフリーである。フリーだと当然社員よりギャラは高く、どこの会社で映画を撮ろうと自由だが、自身の企画を東映で通す権限はないため、東映の主な作品で監督企画の映画はあまりない。企画を岡田なり各プロデューサーに持ち込み、最終的にジャッジするのは岡田である。またプロデューサーや映画スタッフ、俳優は大半が東映の社員であるため、フリーの監督が東映以外で監督をする場合、東映のスタッフや俳優を使うときは、東映の許可が必要になる。他社の映画製作に東映の社員を持って行かれるとその間東映での映画製作に支障が出るからである。石井は「専属だと予算や配役、日程など、条件が悪くて意に染まないものでもやらなければならない。フリーだと、こちらの考えに合わないものは断ることが出来ます。大会社の組織にいると予算編成とかがルーズですね。企業家としてソロバンの立つことがフリー監督では不可欠です」などと述べている。 岡田は1968年の『徳川女系図』から始まるエロ路線の映画を、"刺激性路線"とネーミング。石井作品『温泉あんま芸者』『徳川女刑罰史』と、1968年夏の時点で既に1969年の正月映画として岡田が企画準備していた石井作品仮タイトル『妖婦百人』(『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』)や、石井作品だけではなく公開が1969年1月になった中島貞夫監督の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』など、1968年後半のエロ映画全てを"刺激性路線"と提唱した。これに続く東映新路線として1968年暮れに岡田が発表したのが、1969年の東映新路線"性愛もの"シリーズ"性愛路線"であった。このとき発表した1969年"性愛路線"東映ラインナップは、『異常・残酷・虐待物語・元禄女系図』(『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』)『異常性愛記録 ハレンチ』『㊙女子大生・妊娠・中絶』(『㊙女子大生 妊娠中絶』)『㊙トルコ風呂・指先の魔術師』『婦人科秘聞・下半身相談』『元禄いれずみ師・責め絵』(『徳川いれずみ師 責め地獄』)『温泉ポン引女中』『不良あねご伝』『やざぐれのお万』(『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』?)などだった。『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』が二つの路線に被るが、『㊙女子大生 妊娠中絶』は小西通雄監督で、当時の映画誌に荒井美三雄監督の『温泉ポン引女中』を"性愛路線第七作"と紹介した記述が見られることから、"性愛路線"も石井作品だけを指すものではなく、1969年に製作する東映エロ映画の全てを指していた。つまり公開が1969年にかかっても1968年に製作したエロ映画の全てが"刺激性路線"、1969年に製作を予定していた東映エロ映画は全て"性愛路線"と最初は呼んだ。石井は1969年の『キネマ旬報』4月下旬号で「今年は岡田氏と二人一緒で悪役でいこうということで、いわゆるオーソドックスな線だけではなく、そういう方面(性愛路線)に活路があるのではないかという考え方でやっているのです。若い人にも同じ考えの人がいるわけで、大いにそういう人達を糾合して、企業内ハレンチ派をつくって、今年は大いにハレンチ派を伸ばしていこうと思っているわけです」と述べた。2018年現在はあまり使われないが、当時は"ハレンチ"という言葉が広く使われた。 1969年4月『徳川いれずみ師 責め地獄』の撮影中、由美てる子が逆さ片足吊りで一日中吊るされるなどの異常な撮影で失踪し(代役が片山由美子)、これを切っ掛けに撮影所を冒涜したと東映京都の助監督たちによる石井ボイコット運動が起きた。このとき助監督たちが作成した告発文に"異常性愛路線"という言葉が使われ、この騒動は新聞や週刊誌、テレビの全国ニュースにも大きく取り上げられ、論争を起こす大問題に発展したため、"異常性愛路線""残虐異常性愛路線"といった言葉が拡散した。"異常性愛"という言葉は1969年2月21日公開の"性愛路線"の第二弾『異常性愛記録 ハレンチ』で、映画のタイトルとしても初めて使用されたものと見られ、この"異常性愛"という言葉と"路線"をくっ付け、東映京都の助監督たちが"異常性愛路線"という言葉を最初に使ったものと推察される。岡田が提唱していたのは"性愛路線"で"異常性愛路線"と言ったことはなく、石井作品の常連女優・賀川ゆき絵は「私達は"性愛路線"と言われていましたよ。"異常"はついてなかった(笑)」と述べている。岡田はこの排斥運動に反論し「体制打破ということだ。昔、存在したようなファンは、今はテレビにかじりついている。だから、昔のファンに受けたような旧体制の映画を作っていたのでは、現代の映画観客をつなぎ止めることはでけんわ」と一蹴した。他社に類似昨品が増え、商売がやりにくくなったため、荒井美三雄監督の『温泉ポン引女中』を最後に、石井作品でいえば『徳川いれずみ師 責め地獄』を最後に"性愛路線"から手を引き、「70年安保を控えて映画も時代に即応した強度の暴力が受けるはず」と岡田が次に打ち出したのが、"刺激暴力路線" "ゲバルト路線"『やくざ刑罰史 私刑!』だった。石井も「"ひっぱがし"を6本も作ったので、もう飽きた」と話した。"ゲバルト路線"は、石井ボイコット運動の前から構想があり、1969年に性愛路線"として打ち出した第二弾で2月に公開した『異常性愛記録 ハレンチ』が興収1億5000万円までガクッと落ち、各社エロ映画が氾濫しブームも下火になったため、先を見越して"性愛路線"から"ゲバルト路線" "暴力私刑路線"に方向転換したともいわれる。1969年3月14日にあった東映定例会見で岡田が「セックス路線も少しマンネリになので刺戟路線というようなものに変えてゆく」と発表した。しかし"ゲバルト路線"は警視庁から「70年安保を控えて鬱積する青少年のエネルギーがゲバルトに向かう。エロ映画より悪い」という見方があったとされ、"ゲバルト路線"は『やくざ刑罰史 私刑!』1本だけで終わり、続いて打ち出されたのが"実話路線"。これが本物の阿部定を引っ張り出したことでも知られる『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』。「阿部定事件」「小平事件」「日本閣事件」「高橋お伝」など、ショッキングな事件をそのままオムニバスで映画化すると発表し、東映は阿部定を記者会見にも出席させ、物凄い数の報道陣が集まり、ヤクザ映画やこれまでの"刺激路線"が一段とエスカレートするのではと評され、良識論争を引き起こした。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』公開時の新聞広告に"実録路線第一弾"と書かれたものがあり、『やくざ刑罰史 私刑!』と『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、1970年代の東映実録路線をいち早く開拓したとの評価もある。『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』はヒットし、掛札昌裕は「ずっとそれをシリーズでやることになったんですよ、『説教強盗』ってサブタイトルまでついていたんですけど、何か石井さんが違う方向に行きたいというのがあったんでしょうね」と述べており、"実話路線"は続く予定だったと見られる。大手映画会社は経営が軒並み"火の車"状態で、"任侠路線"と"エログロ路線"の大当たりにより、東映一社のみ黒字を毎年出し続け、1960年代後半は配収トップの座を守り続けた。1969年上半期の五社の総配収のうち、東映の配収はシェア40.3%になった。1960年代後半に映画製作だけで黒字を出していたのは東映だけで、東宝以外の松竹、日活、大映は東映のマネをしようと必死の努力を続けた。 1969年8月、石井監督の『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』公開前に岡田が「『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』と11月に公開を予定しているエロチック・アニメーション『㊙劇浮世絵捕物帳』(『㊙劇画 浮世絵千一夜』)を最後に"刺激路線"にピリオドを打つ」と発表した。この二本立ては新聞広告に「シャム双生児と春本浮世絵でお楽しみ」と惹句が書かれた当時エロ映画への風当たりが強くなり、警視庁は婦人団体からエロ映画の取締りを強化するよう突上げを食らい、映倫に審査の強化を要請していた。 撤退理由として岡田は「至極カンタンな理屈。70年対策。明年は安保と万博の年。万博の影響は大したことないが、怖いのは安保闘争だ。世の中が上へ下への大騒ぎをしているときに、ハダカにムチを打ったり、逆さ吊りにするようなシンドイものは敬遠されるのではないか」と話した。また岡田は「もし("性愛路線"を)復活するなら、ひとまず静まった明後年(1971年)」と話し、その代わりに江戸川乱歩や夢野久作などの全集がベストセラーになっていることにヒントを得て、"怪奇ロマン路線"を敷くとし、現状への欲求不満の鬱積がこうした怪奇幻想に走らせているのだし明年の思想の主流の一つ」と述べた。石井監督の次回作を急きょ切換えての第一弾を『パノラマ島奇譚』と発表し、「江戸川乱歩の有名な原作を中心に他の作品も加味する。こうしたものは松竹がすでに丸山明宏で手がけたことがあるが、単なる幻想ではなく、もっとリアルな内容にする」と説明した。 また「江戸川乱歩の作品をかたっぱしから映画にする」と合わせて発表し、"怪奇ロマン路線"は本作一本ではなく、路線化される予定で、次作を予定していたのは『地獄』であった(内容が大きく変わり1999年に『地獄』として映画化)。 当時のマスメディアからは「従来の路線をオブラートで包んだ形になるのだろう。しかし数々のフンドシ女優を怪奇ロマンに切り替えられるのか」「『恐怖・畸形人間』という題からも想像されるように畸形人間のオンパレード。怪奇幻想といえば聞こえはいいが、要するに乱歩ブームにあやかったエログロ路線の一変種。つまり畸形映画というわけだ」「配役は霊感女優の北条きく子が乱歩の霊を呼び、そのお告げで決めるという。ヒロインは北条きく子と御託宣が下ったらどないするねン」などとおちょくられた。 石井輝男監督の"異常性愛路線"と総称される9本のうち、最後の3本は、路線といっても1本だけで終わったが、それぞれ、"ゲバルト路線"『やくざ刑罰史 私刑!』、"実話路線"『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』、"怪奇ロマン路線"『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』であった。 1969年10月15日公開の『日本暗殺秘録』を"ゲバルト路線"第一弾とする文献もある。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は興行で惨敗し、"異常性愛路線"も惨めな終了を迎えた。 この時期テレビから無料で巻き散らされる日常的で軽いエロが大ウケし、特に同時期放送された「野球拳」のコーナーが大ウケした日本テレビ『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』が開始され、爆発的な人気を得た。当時の大衆が求めていたのは、石井が描いた濃厚で泥臭い性愛絵図ではなく、もっと軽いエロだったという見方もある。 石井のエログロ映画『徳川女系図』の大成功は、邦画五社に大きな影響を及ぼし 、テレビの普及による観客減に喘いでいた映画各社は揃ってエロ映画を番組に乗せることで命脈を保とうと試みた。テレビ側もこの事態を静観せず、映画がエロで集客するなら、テレビもエロを追うという発想で映画に対抗した。 テレビ界は1969年秋の番組改編期で、一層お色気シーンを増量させた。テレビにまで影響を及ぼした"異常性愛路線"はテレビによって命脈を絶たれたのである。"異常性愛路線"は打ち上げ花火のように一瞬で燃え尽きた日本映画の徒花だった。 しかし1980年代に入り、アメリカから「カルト映画」の概念が入って来て復活、リアルタイムを知らない新しい映画ファンの間で口コミで評判が広がり、以後20年に渡って名画座の定番作品となった。 『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は日本映画をカルトな視点から観るその先駆けといわれ、石井輝男の再評価及び復活の起爆剤となった。『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』の併映作だった『㊙劇画 浮世絵千一夜』が公開後に警視庁保安一課から、「刑法にふれる疑いがあり、カットしない場合は断固取り締まる」とキツい警告があり、東映はカットに応じたが、大手の東映が独立プロの危険な映画を買って、むざむざアミに引っ掛かるという失態を演じ、官憲の直接介入による作品のカットという悪い前例を残し、映画界にとって大きなマイナスとなった。 東映社長の大川博は勲二等瑞宝章という大臣級の勲章を受け、1969年度の教育映画祭で功労章も受けたことから「これでは国民の名において贈られた勲章が泣く」などと批判された。 大川は映画作りに口を出さず、岡田は自由な映画作りをさせてくれる大川に、「現場にいてどんなにありがたかったことか」と話しており、エログロ映画の終了はこの影響もあったかもしれない。"性愛路線"も1969年夏あたりから、興行成績が落ちており、高倉健の独立説も沸き上がり、任侠路線を任せていた俊藤浩滋が「会社を離れて製作した方が能率的」と爆弾発言。刺激暴力路線"に力を入れる岡田と俊藤との対立が始まっていた。 1969年暮れの時点では1970年8月に『地獄』 (1999年の『地獄』はこれの内容を大きく変えたもの)を公開して一連の“性愛路線”を終了させるという構想があった。 石井は『地獄』の製作準備をしていたが、石井が次に与えられた企画は、岡田から売り出しを頼まれた大型新人・渡瀬恒彦のデビュー主演作『殺し屋人別帳』。東映はしばらく成人映画路線を凍結し、石井が東映で『地獄』を撮る機会が与えられることはなかった。 “性愛路線”の提唱者である岡田は、『読売新聞』夕刊1970年3月7日付けの『現代の映画とセックス』という記事で、“性愛路線”が下火になったとするインタビューに答え、「続けてやっているとどうしてもグロになってしまうもんだから。でも映画にエロチシズムの要素は残しておく必要があると思う。お客の要求にこたえる意味でもね。石井輝男も当初ハダカはユーモアとして表現したんだが、連続して作っていると、ハダカの表現には制約があるから、サド、マゾ、ホモの異常性愛に傾き、グロテスクな方向に進まざるを得なかった。そんなときに『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『㊙劇画 浮世絵千一夜』に対して警視庁の取り締まり強化宣言と映倫への警告があった。われわれが自主規制の建て前として作った映倫を追い込んではいかん。それは意識します。だから今度作るとなると初心に帰って一から始めることが必要だ。ユーモアのある艶笑ものですな。ただこれは力のある監督でないと出来ないんだ」と“性愛路線”を終了させた理由を話した。 『読売新聞』は「ビジネスとして作り始めた“性愛路線”がエスカレートして提唱者の手に負えなくなって来たらしい。お客の方が食傷気味で見せ物的なエロを見限ったという理由もあろうが、このへんに現代のセックス状況の奇怪さが現れているようである」と解説している。
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