岡田と俊藤
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シリーズ第1作、第二作では俊藤は企画のクレジットでは岡田茂、彼末光史に次いで三番目であった。しかし第三作目では岡田に次いで二番目となり『関東』シリーズ一作目の『関東流れ者』(1965年4月18日公開)では企画のトップに据えられた。手掛けた映画が大ヒットすることで段々俊藤が力を付けていった。岡田=俊藤のコンビで任侠映画は「実録映画」が登場するまで約10年隆盛を迎える。俊藤は「仁侠映画が隆盛のころ、岡田所長と新しい企画を相談するときは、いつも15分から20分ほどで決まった。二人で話すうち、『こんなのはどうや』『おもろいな。それいこうか』といった調子で、会議といえるほどのものではなく、彼は私を信頼してくれた。企画を東京本社での会議に出すのは岡田所長の役割で、今度はこんなシャシンを撮る、そのつぎはこれ、と、スケジュールを立てていく。反対する者なんかいない。そうやってつくる映画がどんどん当たった。岡田所長はワンマンな私を随分バックアップしてくれた。その意味で、岡田茂と私は持ちつ持たれつな仲でやってきた。二人が組まなかったら、あれだけの任侠映画の一時代は生み出せなかったと思う」などと述べている。しかし岡田は東映のゼネラルマネージャー的立場にあって全体を統括しなければならず映画製作と並行して京撮のリストラという困難を極めた大きなミッションがあった。このため俳優にしっかり付くことはできなくなり、俳優の売り出しに実績を挙げ始めた俊藤が俳優を抱えだした。岡田が任侠路線と平行して、エログロ映画や喜劇などにも路線を拡げ、特に1967年の『大奥(秘)物語』あたりから、エログロ路線が本格化し、これらを俊藤の手掛ける任侠映画と二本立てで組合せることで両方が際立つ効果をもたらし、高い興行成績を挙げた。しかし1970年代初頭、任侠映画は成績に翳りの見えて1973年『仁義なき戦い』が大ヒットすると岡田は「任侠路線」から「実録路線」に転換しようとした。このため任侠映画のスターを抱えていた俊藤と後に確執が生まれた。有名な「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」は、岡田が直接俊藤に言い放ったセリフであった。俊藤は東映と縁を切り抱えてたスターを引き連れて自身のプロダクションを作ろうとしたが、スポーツニッポンに岡田との確執の記事がデカデカと載った。結局、五島昇を仲介に立て和解をし俊藤は参与のゼネラルマネージャーに就任した。
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