岡田と俊藤とは? わかりやすく解説

岡田と俊藤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 08:20 UTC 版)

博徒シリーズ」の記事における「岡田と俊藤」の解説

シリーズ第1作第二作では俊企画クレジットでは岡田茂、彼末光史に次いで三番目であった。しかし第三作目では岡田次いで二番目となり『関東シリーズ一作目の『関東流れ者』(1965年4月18日公開)では企画トップ据えられた。手掛けた映画大ヒットすることで段々俊力を付けていった。岡田=俊コンビ任侠映画は「実録映画」が登場するまで約10年隆盛迎える。俊は「仁侠映画隆盛のころ、岡田所長新し企画相談するときは、いつも15分から20分ほどで決まった二人で話すうち、『こんなのはどうや』『おもろいな。それいこうか』といった調子で、会議といえるほどのものではなく、彼は私を信頼してくれた。企画東京本社での会議に出すのは岡田所長役割で、今度はこんなシャシンを撮る、そのつぎはこれ、と、スケジュール立てていく。反対する者なんかいない。そうやってつくる映画がどんどん当たった岡田所長ワンマンな私を随分バックアップしてくれた。その意味で、岡田茂と私は持ちつ持たれつな仲でやってきた。二人が組まなかったらあれだけ任侠映画一時代生み出せなかったと思う」などと述べている。しかし岡田東映ゼネラルマネージャー立場にあって全体統括しなければならず映画製作並行して京撮のリストラという困難を極めた大きなミッションがあった。このため俳優にしっかり付くことはできなくなり俳優売り出し実績挙げ始めた俳優抱えだした。岡田任侠路線平行してエログロ映画喜劇などにも路線を拡げ、特に1967年の『大奥(秘)物語』あたりから、エログロ路線本格化し、これらを俊の手掛ける任侠映画二本立て組合せることで両方際立つ効果もたらし、高い興行成績挙げた。しかし1970年代初頭任侠映画成績翳り見えて1973年仁義なき戦い』が大ヒットすると岡田は「任侠路線」から「実録路線」に転換しようとしたこのため任侠映画スター抱えていた俊と後に確執生まれた有名な鶴田浩二高倉健もしばらく止めや」は、岡田直接言い放ったセリフであった。俊東映と縁を切り抱えてスター引き連れて自身プロダクション作ろうとしたが、スポーツニッポン岡田との確執記事デカデカ載った結局五島昇仲介立て和解をし俊参与ゼネラルマネージャー就任した

※この「岡田と俊藤」の解説は、「博徒シリーズ」の解説の一部です。
「岡田と俊藤」を含む「博徒シリーズ」の記事については、「博徒シリーズ」の概要を参照ください。

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