開発・生産
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M6の開発はG-184の名称で進められ、基本的には1クラス下の高速砲兵牽引車である18t牽引車 M4の試作車両であるT9E1の設計を拡大したものとして行われた。そのため、各部のレイアウトやデザインはM4高速牽引車に類似しており、M4を全長、幅共にそのまま拡大したような車両となっている。エンジンもM4に搭載されたものを2基結合するという形が採用された。 1943年6月にはT22の名称で試作車が完成し、これは片側5個の転輪を持つ方式であったが、テストの結果を受けて片側3組のボギー式サスペンションを持つ6個の転輪と接地式の誘導輪を持つ方式に設計が改められた。この2次試作車はT23と命名され、T23は1944年に「38t HSP M6」の名称で制式化され、M4高速牽引車と同じくアリス・チャルマーズ社が生産を担当し、1944年2月から1945年8月にかけて1,235両が生産された。 大戦後、牽引する砲の分解・組立及び搭載作業を行えるよう、またM6を工兵用の重機として用いるため、車体後部に搭載する20トン回転式クレーン及びそれに装着して用いる掘削バケットが「T9」の名称で開発され、ミルウオーキー・エクスカベーター社(Milwaukee excavator,co)が試作を担当した。T9エクスカベート装置は1947年3月に承認され、「T9S」の名称でM6に搭載した最初の試作機が1947年10月に、試作2号機が1948年初頭に完成してアバディーン試験場においてテストが行われたが、制式採用はなされなかった。
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開発・生産
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ソ連軍は、第二次世界大戦前から水陸両用軽戦車を開発・配備していたが、独ソ戦の開戦後、それらの水陸両用軽戦車の非力さが目立つ上、主力戦車や重戦車の生産が優先されたため、水陸両用軽戦車はT-40以降途絶えていた。しかし、戦後、偵察や上陸作戦支援用として水陸両用軽戦車を開発することとなった。こうして、1947年-1950年に開発されたのがK-90であるが、K-90は浮航時の安定性不足のため不採用となってしまった。 このK-90の経験を活かし、1949年から新規に開発が開始されていた水陸両用軽戦車がPT-76である。K-90の欠点であった浮航時の安定性を改善するため、K-90より大きな船型車体と、車体下部から水流を取り入れ、後面からウォータージェット式推進装置で排出する機構を採用した。エンジンは、戦時中にT-34でも搭載されたV-2 ディーゼルエンジンの気筒数を半分の6気筒にしたV-6を搭載し、主砲も、T-34などが搭載していた76.2mm戦車砲F-34を改良したD-56TまたはD-56TMを採用した。 こうして開発されたPT-76は、満足する性能を有していたため1951年から量産が開始された。 1959年からは改良型のPT-76B(Ob-740B)の生産が開始された。PT-76Bは、核戦争下での活動を視野に入れ、PAZと呼ばれる放射線防護システムを装備している。その他にも、主砲へのスタビライザーの付与、操縦士用赤外線暗視装置の搭載、燃料タンクの拡大による航続距離の延伸などが図られている。 PT-76の生産は1969年まで継続され、生産終了までに総計約7,000両が生産された。
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開発・生産
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代表的なECMシステムであるAN/ALE-50は、アメリカ空軍、アメリカ海軍と米レイセオン社との合弁事業によって開発された。飛行テストと実戦の両方において、AN/ALE-50は実弾発射された地対空・空対空の両ミサイルを無効化することに成功した。現在、空軍、海軍、海兵隊やイスラエル空軍といった複数の軍隊の航空機に搭載・運用されている。このシステムはレイセオン・スペース・アンド・エアボーン・システム社のカリフォルニア州、ゴレタ(Goleta)の施設で製造される。
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開発・生産
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「グラマン アグキャット」の記事における「開発・生産」の解説
初号機は1957年に初飛行し、1959年からはグラマン社からシュワイザー・エアクラフト (Schweizer Aircraft Corporation) に生産が引き継がれ、1979年までに2,689機が生産された。1957年から1983年までに2,455機生産したとする説もある。1995年に製造権はアグキャット・コーポレーション (Ag-Cat Corporation)に売却された。2001年2月にアーカンソー州ウォルナットリッジのアライド・アグキャット・プロダクションInc. (Allied Ag-Cat Productions Inc.) に製造権が移ったが、この会社では現在、製造はされていない。 現在でも数多くの機体が現役で運用されている。
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開発・生産
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1942年、量産が開始されたM4中戦車、そして更に開発中の新型戦車の輸送に対応するため、既存のM19戦車運搬車(“ダイヤモンドT”戦車運搬車)に変わる、新型の40tセミトレーラー式戦車運搬車が求められた。仕様として、M9 24輪スモールホイール・トレーラーよりも良好な路外走行能力、また、シェルボーク アンド ドルーリー(Shelvoke and Drewry)社製 30t 8輪ラージホイール・セミトレーラーよりも搭載容量に優れること、そして、それを問題なく牽引できる牽引車が要求された。 このような重量級のトレーラーに対しては、既存のM20トラクターで仕様に対処するより、新しい牽引車両を開発する方が適当と考えられ、対応が進められた。新型の牽引車およびトレーラーはデトロイトに所在していたフリューホーフ・トレーラー・コーポレーション(Fruehauf Trailer Corporation)によって設計され、搭載するエンジンの設計開発はホール・スコット社が担当した。 この車両は自重12トン、6輪駆動で、本車専用に作られた、240軸馬力を出力する Type440 直列6気筒ガソリンエンジンによって駆動され、最大で130,000ポンド(約60トン)の牽引力を発揮できた。 サンフランシスコに所在するナッキー・トラクター・カンパニー(Knuckey Tractor co.)が生産型の設計と製造の担当として選定され、前線での運用を考慮してキャビンに装甲を施すことが要求されたため、キャビン形式をキャブオーバー形式に準じたものに変更し、M26の制式名称が与えられた。先行試作車は1943年4月に完成して実用試験が始められたが、ナッキー社の生産能力は不十分であることが判明したため、アメリカ陸軍はワシントン州シアトルに拠点を置いていたパシフィック・カー&ファウンダリー社に改めて量産発注を行った。パシフィック社による呼称はTR-1である。 本格生産は1944年6月より開始され、同年10月よりはM26トラクターの非装甲バージョンが生産され、M26A1と呼称された。1943年より1945年にかけて1,372台のM26およびM26A1が生産され、内訳はM26が753台、M26A1が619台である。タイプ440エンジンは約2,100基が製造された。M26A1は戦後に電装系を12ボルトから24ボルトに強化したM26A2に改修された。 40トン級トレーラーはM15 として制式化され、パシフィック・カー&ファウンダリー社により生産された。制式化後、M15に車輪上部を覆う踏板を追加するなどの改修を行い、最大搭載重量を45トンに向上させたM15A1が開発され、朝鮮戦争後には最大搭載重量を50トンに向上させたM15A2がフリューホーフ社により開発・生産され、M26の後継である M123 (G792) 10トン 6x6トラクターと共に用いられている。 イギリスではFVPE(Fighting Vehicle Proving Establishment:戦闘車両検証局)により1輌が実験的なバラストトラクターへ改造され、試験が行われている。
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開発・生産
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「シモノフPTRS1941」の記事における「開発・生産」の解説
1930年代、赤軍では同時期の他国と同様に、個人もしくは少人数で運用できる対戦車兵器として対戦車ライフルの開発を進めた。しかし、口径および使用弾薬を始めとしてその方向性がなかなか定まらず、10種類を超えるものが試作されて検討されたものの、軍の期待する「大威力で動作が確実、かつ可能なかぎり軽量なもの」という点が満たせるものが開発できず、制式採用されたものはなく、本格生産と大規模な部隊配備は行われていなかった。 1938年11月9日にGAU(砲兵管理局)より出された新たな「軽対戦車火器」に対する要求」に基づき、暫定的なものとしてドイツのマウザー M1918を12.7x108mm弾仕様に変更し、いくつかの点に改良を加えたたショロホフ対戦車ライフルが開発され、更に使用弾薬として最終的に14.5x114mm弾が選定され、上記の試作開発の実績に基いて、5連発半自動式のルカヴィシュニコフ PTR-39が開発され、1939年10月に制式採用されたが、PTR-39は機械的信頼性が低い上、「我が国の戦車と同等、もしくはそれ以上の装甲を持つ戦車を列国が開発しているであろうことを考慮すると威力不足である」として1940年8月には制式採用は取り消され、わずか30丁が生産されたのみに終わった。 このように、赤軍内では対戦車ライフルに対してその有効性に疑問が持たれていたが、1941年、ドイツ軍の侵攻により「大祖国戦争」(独ソ戦および第二次世界大戦のソビエト呼称)が勃発すると、急遽対戦車ライフルの大量装備が決定され、「可能なかぎり迅速な実用化と量産」が命じられた。当初はドイツ軍より鹵獲したPzB39対戦車ライフルを使用弾薬の7.92x94 Patr.318弾と共にフルコピーすることが計画され、少数の試作生産も行われたが、最終的には赤軍内での開発計画の実績を基に、セルゲイ・シモノフの設計したガス圧作動方式連発自動式の本銃とボルトアクション方式単発手動式のデグチャレフPTRD1941の2種類が選定されて採用された。基本的な設計が既に固まっていたこともあり、PTRS、PTRD共に開発命令より試作1号銃の製作まで22日間という短期間で開発され、1941年8月29日に制式採用された。 連発自動式と単発手動式のものが並行して採用されたのは、連発自動式は試作の段階で問題を発生させるものが多かったために、連発自動式のみを開発・生産していると情勢に間に合わない、という判断がなされたためである。PTRDも本来は連発式となる予定であったが、装弾・排莢機構に発生する問題を早急に解決できないと判断されたことから、連装式の装弾部を廃した単発式となった。 PTRS、PTRD共に制式採用後即座に生産に入ることが指令されたが、PTRSはガス圧利用式の半自動銃という機構の複雑さから、同時に採用されたPTRDに対して生産性とコストで大きく劣り、1941年11月に生産が開始されたものの、1941年内に生産されたものは77丁に過ぎず、更に主力製造工場が東方に疎開したために生産ラインの構築が遅れ、大量生産体制が整ったのは1942年も半ばに入ってからで、十分な数が前線部隊に供給されたのは1943年以降であった。 1942年には63,308丁が生産されたが、1943年には既に対戦車兵器としては威力不足であることが認識され、生産体制を縮小する命令が下された。1945年の戦争終結までの総生産数は、190,615丁である。
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開発・生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 07:59 UTC 版)
各拠点は産業、資源、燃料を、毎月初頭に生産する。資源の輸送に用いられる商船は、艦隊に随伴し陸上部隊を輸送する為の艦隊輸送船とは全く分離して処理される。生産力は前月の残りに産業、資源の合計を加えたもの、航空生産力は航空機工場の規模、艦船生産力は艦船工場、燃料は前月の残りに油田の合計を加えたものである。 資源と燃料は東京に輸送する必要があり、輸送できないものは使用できない。東京から24ヘックス以内、更に資源は商船数の8倍まで、燃料が商船数まで、と言う制限がある。なお、商船のほかに潜水艦艦隊や、護衛艦などの生産、配備が可能となっている。 開発生産フェイズでは各拠点の工事、艦船や商船の建造、航空隊の作成、陸上部隊の作成/編成などが行えるほか、各種基礎技術(航空技術、レーダー技術、潜水艦技術、対潜水艦技術、原子爆弾技術)を向上させることも可能となっている。 特徴的なのは航空機の生産で、航空技術が該当する機体が求められるレベルまで向上すると、ゲーム中にその機体が登場するが、まだ生産は不可能で、毎ターン、今度は毎月航空機生産画面で開発進度を向上させねばならない。開発進度が100に達するとようやく生産が可能になるが、この段階では1ヶ月に1隊しか生産できない状態である。さらに開発進度を上昇させる事で、開発進度2につき生産ラインが1本増え、250に達すると制限が無くなる。拠点や空母に配置できる機種は6機種以内、との制限もあるため、量産機を絞る必要があり、プレイヤーの構想が問われる所である。
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開発・生産
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「SB2A (航空機)」の記事における「開発・生産」の解説
アメリカ海軍は1938年、新型艦上偵察爆撃機に関する要求をまとめ、国内各社に提示した。ブルースター社はこれに応えB-340(Brewster Model 340の略)の社内名称を付けた設計案を提出、前作SBA (SBN)の性能が高かったこともあり、1939年4月4日、海軍当局はB-340を採用した。 B-340の細部を改修した試作機は1940年12月24日にXSB2Aの名称で発注された。試作機は1941年6月17日に初飛行し、前作SBA(SBN)を上回る性能を示し、これを受けてSB2Aとして制式化された。アメリカ海軍の他、アメリカ陸軍にも対日開戦によって不足している航空戦力を急遽増強するため、1942年2月に急降下爆撃機として採用され、A-34の制式名称が与えられた。 イギリス空軍からは750機、さらにイギリス海軍でも艦上爆撃機として4機、標的曳航機として1機を導入して評価テストが行われたが、採用はなされなかった。オーストラリア空軍では1941年に240機を発注し、同年中にまず11機が引き渡される予定であったが、生産の遅延と量産機への低評価から、1941年11月には発注がキャンセルされている。カナダ空軍でも3機を試験用に発注した。なお、イギリスおよびカナダ軍では本機は'バミューダ(Bermuda)と命名された。 この他オランダより東インド軍航空隊(英語版)向けに162機の発注があった。 これらアメリカ海軍への制式採用とイギリス及びオランダからの発注を受け、ブルースター社では量産型への改修作業と本格的な生産の準備に入ったが、試作機から量産型に改修するにあたり爆弾搭載量を500ポンドから1,000ポンドに倍増、固定武装を強化して装甲を改良・強化したことにより全体的に大型化し、機体重量は3,000ポンド(約1,361kg)以上も増加した。これに対処するために動力銃座を廃止するなどして重量軽減と空力性能の向上に務めたが、総重量に対してエンジンの出力が不足していることは解消できず、量産機は試作機に比べて大幅に性能が低下する結果となった。 会社の規模が小さいために工場の規模も小さかったブルースター社は、本機の大量受注に成功したことに対応するため、生産能力を拡充すべく、大規模な新工場の建設を進めたが、アメリカの第二次世界大戦への参戦を見越して大手航空機メーカーがのきなみ工場を増設・拡張したために、小規模企業であるブルースター社は工場用地の獲得に難渋し、1941年にようやくペンシルベニア州ウォーミンスターに用地が確保された新工場の完成は大幅に遅れる結果になった。更に、急激に航空工の需要が増大したために工員の確保にも苦労し、資本力が小さいため好条件を提示できないブルースター社では技量の高い工員を確保できず、これらの問題から生産は遅延し、イギリス向けの最初の生産機が完成したのは1942年6月のことであった。オランダ向けの生産機は生産が遅延しているうちにオランダが降服してしまったため、1943年8月にアメリカ海兵隊航空隊向けの練習機、SB2A-4として完成して納入された。 SB2Aは英国に供給されたものも含め、各型合わせて総計771機が引き渡された。大戦末期には生産されたものの納入されない機体が多数存在し、それらは工場の生産ラインからロールアウト後そのままスクラップとされた。ブルースター社では引き渡されなかったものを含めると1,052機を製造した。
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開発・生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:16 UTC 版)
1936年3月ラインメタル社はマジノ線を攻撃するための超重榴弾砲の計画を立案した。この兵器の初期の着想では分割して複数の車両で輸送し、陣地にて組み立てることが計画されていたが、これでは射撃準備に非常に時間がかかるため、ラインメタル社は1937年1月、この砲を自走化することとした。1938年から39年にかけて多砲塔戦車NbFzとスケールモデルを用いた広範にわたる走行試験が行われ、巨大車両の極めて高い接地圧と操縦性に関する研究がなされた。1940年5月には実寸大車両の走行試験がウンターリュッセで行われた。砲の発射試験は1939年6月に行われた。これらの結果を元に、懸架装置を始めとして設計の一部を変更した生産型が1940年11月から41年8月にかけて6輛が製造され、軍に引き渡された。 試作車を含む7輛にはそれぞれ固有の名前が命けられており、当初は旧約聖書から、後には北欧神話から引用されて I号車:(生産1号車、以下VI号車までは生産順)“アダム(Adam)” - 初期型走行装置(8転輪型)後に“バルドル(Baldur)”と改名 II号車:“エーファ(Eva)” - 初期型走行装置(8転輪型)後に“ヴォータン(Wotan)”と改名 III号車:“オーディン(Odin)” - 後期型走行装置(11転輪型) IV号車:“トール(Thor)” - 後期型走行装置(11転輪型) V号車:“ロキ(Loki)” - 後期型走行装置(11転輪型) VI号車:“ツィウ(Ziu)” - 後期型走行装置(11転輪型) VII号車(試験用車):“フェンリル(Fenrir)” - 後期型走行装置(11転輪型)当初は固有名なし、試作時の非公式名称は“レクス(Rex:ラテン語で「王」の意)”。 と命名された(本砲は主に54cm砲の射撃データテーブル取得用に用いられた)。 巨大な砲弾の威力は絶大なものの、射程が歩兵用の迫撃砲程度でしかないことは問題であるとして、1941年2月には射程を延ばすための検討が始まり、1942年5月、生産型6輛に搭載する54cm砲身(Gerät 041)が発注された。1943年3月のヒトラーも参席した会議で、最初の54cm Gerät 041が納入されるのは1943年6月、三門めは8月中旬になるということが明らかになった。結局3門の54cm Gerät 041が完成し、I・IV・V号車がこれを搭載可能であった。他の3輌も換装は可能であり、第2次生産と換装も計画されていた。 本車の支援車として、専用弾薬輸送・装填車両'Munitionsträger' も併せて開発され、22輛が生産されて装備された。これは通常のIV号戦車D/E/F型の車台を利用し、砲塔のかわりに4発の砲弾を運搬できる装備と専用のクレーンを設置したものであった。自走臼砲1輛につき2輛の'Munitionsträger'と1輛の予備車両が割り当てられた。
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開発・生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 07:28 UTC 版)
試作機であるB-139は1936年6月21日に発注され、1937年12月に初飛行した。1938年1月、“XF2A-1”として海軍に納入されて評価が始まり、当初は設計通りの最高速度が発揮されないという問題があったものの、ヴァージニア州ハンプトンのNACA(国立航空諮問委員会)ラングレー研究所に建設された大型風洞実験施設で実機を用いた風洞実験を行い、この分析結果を基にエンジンカウリングとキャブレター/オイルクーラーの空気取り入れ口を改良、最高速度は447km/時から489 km/時と、10%向上している。 XF2A-1に対し、競合機であったグラマンのXF4F-2はトラブルを多発させて試験飛行中に損傷、「改修点が多すぎて実用の粋に達していない」として、セバスキーのXFN-1(同社のP-35の艦上機型)は「艦上機としては空母での運用に不向きである」として共に却下されたことから、XF2A-1は機銃を主翼内にも搭載する等の修正を加えて最終的に採用され、1938年6月11日に海軍はF2A-1の制式名称で66機の発注を行った。 しかし、ブルースター社では生産ラインの構築と工員の養成に予想外の期間を要したために生産が遅延、納入が大幅に遅れ、引渡しは1939年6月に始まったが、同年11月までの半年間に5機しか納入されなかった。ブルースターにとってF2Aは初めての自社生産機、しかも当時まだ珍しい全金属製機であり、同社はそのような機体を多数生産する経験に乏しく、更に、生産が行われたニューヨーク州クイーンズとニュージャージー州ニューアークの工場はどちらも規模が小さいために、一度に生産できる機体の数に限りがあり、更にクイーンズ工場は本来は自動車の組み立て工場であったため、工場内で一旦組み上がった機体を輸送するために外に出すには分解せねばならない、完成した機体は東に25キロほど離れたミネオラにあるルーズベルト飛行場(英語版)まで陸送した後に飛行させねばならない等、航空機の製造には構造的に不向きだった。F2Aの生産/納入遅延のため、アメリカ海軍は前任であったはずのグラマンF3Fの改良型を急遽発注することでしのいでいる。以後もブルースター社の生産能力の低さはF2Aの、そしてブルースター製航空機の問題として1946年に同社が倒産するまでついて回ることになった。 1939年3月22日、海軍当局はブルースターに対し、F2A-1に爆装能力を追加して汎用性を高め、エンジンの出力向上などの改良を加えた性能向上型を開発することを指令、同年7月より試作機XF2A-2の試験が始まった。同年同月にはF2A-2として43機が発注され、1940年9月から引渡された。F2A-2はエンジン出力の増加により最高速度が向上したものの、総重量の増加によって上昇能力と運動性が低下したが、現場でのパイロットの評価を含め、さほど問題とはされていない。 次に、操縦席装甲と防漏燃料タンク(セルフシーリングタンク)を装備し耐弾性能を強化し、燃料タンクの容量を拡大して燃料搭載量を増加させたF2A-3が1941年1月21日付で108機発注され、同年7月から引渡された。しかし、F2A-3は各種追加装備の結果重量が増加して運動性(格闘戦性能)がF2A-2から更に低下してしまい、重量増による主脚負荷の増加から、離着陸時の事故が多発した。 この時には前述のグラマンXF4F-2の改良型であり、本機の製造遅延に対する対処の一環として開発の続行が命じられていたXF4F-3がF4Fとして採用されており、部隊配備も1940年12月より開始されていた。ブルースター社とグラマン社の生産能力の差から、F2AよりもF4Fの方が納入/配備が進んでおり、数の上でも後発のF4Fの方が主力となりつつあった。また、1930年代から1940年代にかけての航空機の急速な進歩は、採用時には最新の性能であったF2Aを僅かな期間で急速に陳腐化させてしまい、「新世代の全金属製艦上戦闘機」としてのF2Aの優位性は大幅に減じられていた。これに対処すべく、2段過給器を備えコクピットに与圧装備を施した高高度戦闘型も開発が準備されたが、海軍当局は「既に必要性はない」として興味を示さなかった。 F2AはNACAにおいて1941年から新型フラップとエルロン、尾翼を装備した縮小模型を用いて風洞実験が行われており、ブルースターではこれらと前述の高高度戦闘型の開発計画を踏まえ、1941年1月25日にはF2A-3の更なる改良型であるXF2A-4を海軍に提示している。これは 新型フラップとエルロンを備え、運動性の向上した主翼への変更 エンジンをライト R-2600-12“ツイン・サイクロン”(1,700馬力)に変更し、胴体を18インチ延伸する 翼内機銃を片側3丁に増加させ、機首機銃を廃止する 最高速度は403mph(648.57km/h)、予想総重量は8,185ポンド(約3,712kg) といったもので、F2A-1からF2A-2の開発に用いられた機体(Bu.No.1388)を改造して試作機の製作が進められたが、この時点で既に海軍がF2A/F4Fの次世代の主力艦上戦闘機として期待していたF4Uの開発が始められており、試作機も初飛行に成功していたため、海軍は興味を示さず、提案から一ヶ月後の1941年2月17日には「魅力的ではない」として却下され、ブルースターにはF4Uの生産分担が求められることになった(これも生産遅延と品質不良が多発して問題となる)。 前述の模型を用いた風洞実験は1943年まで行われており、更にF2A-3が1942年5月より翼のねじれを測定するテストに用いられている。 NACAラングレー研究所で風洞実験中のXF2A-1(Bu No.0451号機) (1938年5月2日の撮影) イラストレーターであり海軍予備役軍人でもあったマクレランド・バークレイ(英語版)による迷彩塗装のテストに用いられたF2A-1(1940年11月の撮影) NACAでテストに用いられたF2A-3 Bu.No.01516号機(1943年2月9日の撮影)
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