開発・発売の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:33 UTC 版)
余剰米の処理に悩んでいた当時の食糧庁長官・三善信二が、当時の日清の社長である安藤百福に「カップヌードルのように手軽に食べられるものはできないか」と相談を持ちかけたことが開発のきっかけである。 前身となったのは、1967年(昭和42年)に同社から発売された即席飯商品「日清ランチ」である。不評であった同商品の反省点から、油熱処理に熱風処理を加えることで脱脂を行なうなど、日清ランチの欠点を徹底的に解消することに重点を置かれた。 発売前年の1974年(昭和49年)に政府の重鎮たちを招いて行われた試食会では、軍人経験を持つ園田直が、火の使えない戦場で干飯で食事を凌いだ逸話を引合いにだし「あのときこれがあったら」と語り、ほかの出席者たちからも好評であった。日本経済団体連合会当時の会長である土光敏夫も、米食文化復興のために、大いに期待を寄せていた。同年に東京都の銀座の歩行者天国で行なわれた試食会でも大人気となった。新聞紙上で「奇跡の食品」「米作農業の救世主」と報じられるなど、マスコミからも絶賛された。 発売時のラインナップは、エビピラフ、ドライカレー、チキンライス、五目寿司、赤飯、中華シチュー、鮭茶漬けの7種類で、値段は中華シチューが160円、ほかは200円であった。正式発売の1975年以来の売れ行きはしばらくは順調であった。「即席のご飯」という商品のもの珍しさ、また当時はピラフという料理自体が珍しかったことも売れ行きに繋がった。このことで日清では、製造にほぼ年間利益に匹敵する30億円をつぎ込んでいた。カップヌードル同様、自動販売機による販売も行われた。
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