開発のきっかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:58 UTC 版)
「シトロエン・2CV」の記事における「開発のきっかけ」の解説
1935年夏、ピエール・ブーランジェは別荘でのバカンスのため、南フランスのクレルモン=フェランの郊外へ赴いた(クレルモン=フェランはミシュランの本社工場所在地である)。 彼はそこで、農民たちが手押し車や牛馬の引く荷車に輸送を頼っている実態に気付いた。当時のフランスの農村は近代化が遅れ、日常の移動手段は19世紀以前と何ら変わらない状態だったのである。 ブーランジェは、シトロエンのラインナップに小型大衆車が欠落していることを認識していた。そこで、農民の交通手段に供しうる廉価な車を作れば、新たな市場を開拓でき、シトロエンが手薄だった小型車分野再進出のチャンスともなる、と着想した。 ブーランジェは周到な市場調査によって、この種の小型車に対するニーズの高さをつかみ、将来性を確信した。そして1936年、アンドレ・ルフェーブルらシトロエン技術陣に対し、農民向けの小型自動車開発を命令する。この自動車は「Toute Petite Voiture(超小型車)」を略した「TPV」の略称で呼ばれた。 TPV、のちの「2CV」開発責任者となったルフェーヴル技師は、元航空技術者であった。航空機開発技術を学んで第一次世界大戦中に航空機メーカーのヴォワザンに入社、芸術家肌の社主ガブリエル・ヴォアザンに師事して軍用機の設計を行なった。戦後ヴォアザンが高級車メーカーに業種転換すると自動車設計に転じ、高級乗用車やレーシングカーなど高性能車の開発に携わっている。 そしてのちヴォアザンの業績悪化に伴い退社、ルノーを経て1933年にシトロエン入りし、「シトロエン・トラクシオン・アバン」の開発に参画して短期間のうちに完成させていた。 彼は天才型の優秀な技術者であり、第二次世界大戦後には「2CV」に続いて未来的な設計の傑作乗用車「シトロエン・DS」の開発にも携わっている。
※この「開発のきっかけ」の解説は、「シトロエン・2CV」の解説の一部です。
「開発のきっかけ」を含む「シトロエン・2CV」の記事については、「シトロエン・2CV」の概要を参照ください。
開発のきっかけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:38 UTC 版)
1960年代より交通戦争といわれるほど車両の通行量が増え、子供たちが巻き込まれる交通事故も増加。その対策のひとつとして、通学路の横断歩道の脇に黄色い旗を取り付け、登校時の児童が手に持ってドライバーに示しながら横断する、という方法が実施されていた。しかし、旗の数が限られているため、すべての横断児童が持つことができない、破損・紛失等で本数が減ってしまうなどという欠点があった。当時、ミヤハラの初代社長にも小学生の息子がおり、事故を心配していた。そこで、旗の代わりに「横断中」の文字と横断歩道の標識がデザインされた黄色の手提げバッグを考案・開発し、1963年より静岡県内で販売。以後、小学校の入学用品のひとつとして購入されるなど、静岡県では定着したグッズである。
※この「開発のきっかけ」の解説は、「横断バッグ」の解説の一部です。
「開発のきっかけ」を含む「横断バッグ」の記事については、「横断バッグ」の概要を参照ください。
- 開発のきっかけのページへのリンク