開発のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:08 UTC 版)
戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されていったが、民間の無計画な開発はスプロール化をもたらした。また、当時は違法な宅地造成が56%を占める状況であった。そのなかで、このような乱開発を防止するとともに、居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として、多摩ニュータウンが計画された。 開発に当たって、制定されたばかりの新住宅市街地開発法に基づいた初めての事業認可・承認のための申請作業が進められたが、多摩ニュータウン区域内には土地に強い愛着を有する約2000戸に及ぶ農家集落があり、これを全面買収することは困難であった。そして1966年1月の地元住民から既存集落の区域除外の要望を受けて、同年11月に東京都は「新住宅市街地開発事業との関係から施行が急がれるので、この区域は、東京都が施行者となって土地区画整理事業によって整備する」という方針が決定し、土地区画整理事業と併用して開発することとなった。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらした。 法的手続きの経過としては下記の通りである。 1963年(昭和38年)11月 南多摩地域の都市計画区域決定 1964年(昭和39年)5月 多摩新都市開発計画の基本方針の決定 1964年(昭和39年)7月 多摩ニュータウンに関わる用途地域、街路計画の決定告示 1964年(昭和39年)10月~1965年(昭和40年)12月 農林省協議 1965年(昭和40年)12月 多摩ニュータウン新住宅市街地開発事業計画区域決定 1966年(昭和41年)12月 多摩ニュータウン事業決定、土地区画整理事業区域決定 こうして多摩ニュータウン事業が始まった。 しかし一時は、東京都知事に初の革新都政となる美濃部亮吉が当選し、その就任第一声が「東京都は多摩ニュータウンから手を引く」であったため、計画は暗雲に包まれた。多摩ニュータウンの主要なインフラ整備に東京都は不可欠であったが、就任直後にその予算は凍結されてしまった。これは結局、東京都は住宅金融公庫からの借り入れで既に西部地区(南大沢駅を中心とする区域)の百万坪を取得していたため、事業から手を引くことは困難で、事業は継続されることとなった。
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