開発の停滞と再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)
「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「開発の停滞と再開」の解説
これと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため、社内に車両委員会が設置された。 しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから、社内の意見をまとめるのに難航した。運転席を低くしたために 運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」「運転台からの見通しが悪すぎる」 という意見が、また客室床面が低いために 営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」 という意見があったという。必死に説得を続けたものの、「そんな突拍子もない車両は使えない」という運転部門からの反発は大きく、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった。 ところが、半年後の1956年3月、新宿から貨物線経由で小田原や伊豆方面に向かう準急列車「天城」の運行が国鉄から発表された。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想されたため、社内は「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべし」との意見に統一され、開発は再開された。 1956年5月には仕様が決定し、同年6月末から製作が開始されることになった。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている。運転台を2階に上げて展望席を設置する案 や、二等車等の優等車両を設ける案もあったが、最終的にはこれらの案は採用されなかった。 車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった。 こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。
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