事故の詳細
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パイロットAはパン・アラスカ航空の社長兼チーフパイロットを務める人物で、アラスカでの飛行経験も豊富なベテランであった。 8時59分、パン・アラスカ航空N1812Hはアラスカ州アンカレッジ国際空港を出発。フライト予定表では、アンカレッジを9時に出発後、V-317航空路を経由してヤクタト上空を通過。目的地のジュノー国際空港には12時半に到着する予定だった。パイロットAと管制との間で、天候やジュノー空港の滑走路の使用状況についてのやりとりはあったが、異変を知らせる通信は無かった。管制塔との最後の通信は9時12分のことだった。13時15分、N1812Hが予定時刻を過ぎてもジュノー空港に到着していなかったため、アラスカ州エルメンドルフ空軍基地のアメリカ空軍レスキュー・コーディネーション・センターに通知。13時45分に捜索が開始された。 捜索には沿岸警備隊、海軍、陸軍、空軍のほか、民間航空警察、民間の捜索救助機が投入された。約100機の航空機のほか、軍用戦略偵察機のSR-71(ブラックバード)も捜索に加わった。N1812Hの捜索範囲は326,000平方マイルと広く、のべ3,602時間、合計1,033回も航空機による捜索が行われたが、遺体はおろか機体の破片すら発見できず、失踪から39日後の11月24日に捜索は正式に終了した。12月29日、誰の遺体も発見されないまま、4人全員の死亡宣告が行われた。
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事故の詳細
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「八王子市F80機墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
1955年(昭和30年)9月19日午後1時頃、横田基地を離陸した米軍のF-80シューティングスターが、東京都八王子市神戸(現・八王子市大楽寺町)の民家が点在する地域の上空で爆発。事故機は火だるま状態で墜落し、周囲の民家数軒を巻き込んで大破炎上、その破片は約100メートル四方に散乱した。 この事故により農家や民家など合計4戸6棟約100坪が焼け、事故機のパイロット1名、地上の住民5名の合計6名が死亡した。 事故直後から、地元の消防団、八王子消防署などからポンプ車20数台をはじめ総勢120名が出動して救護や消火動に当たり、また八王子警察署と警視庁第一予備隊の合計80名が現場に向った。米軍側からも立川基地と横田基地から大型消防車2台、軍用車両多数、軍消防部隊30名、一般兵士数十名が急行して消火活動などを行なった。火災は2時間後にはぼ鎮火したが、事故機は民家を直撃したため、犠牲者の遺体は飛散したり黒コゲになるなど凄惨を極めた。 目撃者の証言によれば、「浅川の方角(墜落現場から見て北側)から低空で飛んできたと思ったら空中で爆発して墜落」しており、エンジントラブルによる事故と推察された。
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「1955年のル・マン24時間レース」の記事における「事故の詳細」の解説
接触事故の発生地点は高速S字カーブ、メゾン・ブランシェを抜けてスタート/ゴールラインにむかう直線区間で、現在は車速を落とすためフォードシケインが設置されている。コース右手にはピット施設、左手には屋根付きのグランドスタンドがある。 34周目走行中の位置関係はマックリンのオースチン・ヒーレー(1周遅れ)の後方にクリングとルヴェーのメルセデス2台がおり、首位を争うホーソーンのジャガーとファンジオのメルセデスが追いついてきた。ホーソーンはクリングとルヴェーを周回遅れにし、マックリンの後方に迫る。クリングはピットインのためルヴェーとファンジオに道を譲る。マックリン、ホーソーン、ルヴェー、ファンジオ、クリングの順で事故現場にさしかかった。 後方のジャガーとメルセデスを確認したマックリンはコース右側を走り、左側のレーシングラインを譲った。 ホーソーンはマックリンを左からかわした直後前方に割り込み、ピットインのため減速した。ジャガーの4輪ディスクブレーキの制動力は高く、マックリンは真後ろから追突しそうになった。 驚いたマックリンは急ブレーキをかけてコース中央へ回避したが、4輪がスライドして姿勢が乱れた。 ルヴェーはマックリンを左から抜こうとしたがかわしきれず、後部に右前輪が乗り上げ宙に舞った。マックリンは「突然大きな衝撃があり、ルヴェーの車のタイヤが私の左耳をかすめた。排気熱まで感じられたほどだ」と語っている。マックリンは衝撃でスピンし、後ろ向きでコース上を滑った。 ルヴェーのマシンはグランドスタンド側の防護土塁の上に落下して転がるように数回バウンド。重量物のエンジンとサスペンションがひきちぎれ、運動エネルギーを保ちながらスタンドに飛散した。マシンはピットとスタンドを繋ぐ地下道階段の側壁に激突して爆発炎上。ルヴェーはマシンから放り出されて死亡した。 ルヴェーの直後にいたファンジオは右側に進路をとり、マックリンとピットレーンで減速中のホーソーンの間に僅かなスペースを見つけて走り抜けた。 マックリンは制御不能のままピットウォールにぶつかり、スタンド側へはじきかえされて止まった。この際ピットレーンにいた警察官や記者数人が轢かれた。マックリンに怪我は無く、ただちにマシンから脱出した。 消火作業と撤去作業でホームストレート付近は混乱し、シャルル・ファルー大会委員長がコース上で黄旗を振って後続車に減速をうながした。ホーソーンはジャガーのピットをオーバーランして70m先で停車したが、この位置ではルール上ドライバー交代できないため、もう1周して再度ピットインした。
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満水亭は、夏季はバーベキューハウス、冬季は和風レストランとして鍋物を提供していた。夏季はガス貯蔵庫(500キログラム入りガスボンベ4本)から地下埋蔵のガス管を経て、店舗内のバーベキューテーブルの床下に設置したガス栓からゴム管で床上へガスを供給していた。一方、冬季は床に畳を敷き詰め、その上に2キログラム入りのガスボンベを置き、そこからガスを供給していた。 事故発生前の11月13日、夏季から冬季への模様替えを行ったが、その作業の過程において作業員が調理器具を繋ぐ末端のガス栓を閉めずに器具の撤去を行い、99箇所のうち31箇所のガス栓が開いたままの状態となった。この作業手順のミスは、工事期間中はガスの元栓が締められていたことから発覚しなかった。 模様替え後初営業日となった11月22日12時過ぎ、調理場の湯沸かし器を使用するため元栓が開かれると同時に開かれたままのガス栓からガスが一気に漏出した。そのとき漏れたガスの量は爆発の時点で1日の平均使用量の2倍に達していた。だが湯沸かし器が作動しなかった上、ガス漏れ警報器(4機のうち2機が作動。残り2機は整備不良のため作動せず)が作動し、従業員の1人が責任者に電話連絡し、責任者は事務所へ電話したが、客への避難誘導やガスの元栓を閉めるなどの対処は行われなかった。店内にいた客もガスの臭いに気づき、たばこを控えた者、火を使わず仕出し弁当を食べた者もいた。2キログラムのガスボンベと湯沸かし器のチェックを行ったにもかかわらず、サービスカウンターのガス漏れ警報機が作動したため、食堂課からの連絡を受けて施設課員が満水亭に到着した直後の12時48分ごろ、漏れたガスが製氷器の火花に引火し、大爆発を起こした。このガス爆発により客や従業員ら14名が死亡、27名が重軽傷を負った。 爆発直後の12時50分にガス貯蔵庫の元栓が止められ、消防隊により13時55分に鎮火した。
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「埼玉県狭山市B57爆撃機墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
1958年(昭和33年)7月25日午前11時25分頃、埼玉県のジョンソン基地(現在の入間基地)を離陸した米軍のB-57爆撃機が、埼玉県狭山市入間川にある豆腐業を営む民家の屋根に接触し、墜落。この事故により、墜落地点に近い場所にある木材店に勤務する14歳の少年1名と、墜落機の乗員1名の合計2名が死亡、29歳の女性とその1歳の息子、17歳の青年の3名が重傷を負うとともに、墜落地点の付近にいた4名が軽傷を負った。 地元の警察署、付近の消防団、そして消防署からは合計十数台の消防車が出動。さらにジョンソン基地からも事故調査班、憲兵隊、基地消防車7台、米兵290名が出動して墜落現場の消火活動を行ったが、民家4戸が墜落の衝撃で全壊するとともに全焼、そして民家1戸が火災が類焼して全焼した。
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「埼玉県名細村米軍機墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
1955年(昭和30年)3月24日、埼玉県のジョンソン基地(現在の入間基地)を離陸した米軍のF-94戦闘機が、午後2時40分頃、埼玉県入間郡名細村の上空を飛行中に、突然火を吹いて同村の下小坂地区に墜落した。墜落地点には民家が数軒あり、そのうちの1軒の庭先に事故機が激しく激突して大破炎上した。墜落と同時に事故機に搭載されていたジェット燃料が周辺へ飛び散ったため、墜落地点のすぐ目の前にある民家1軒が瞬間的に火だるま状態になって燃え上がった。そしてこの民家の中にいた64歳の女性と、その孫の20歳の男性の2名が逃げる暇もなく焼死した。その他に、この民家の周りにいた者など5名が火傷を負った。 即座に消防団が駆けつけて消火活動を行ったものの、結局この火災は同家の2階建住居、納屋、長屋など合計4棟85坪を全焼し、土蔵2棟を半焼した上でようやく消火された。鎮火後、夜になり墜落現場の現場検証が始められたが、事故機は深さ約3メートルの地面まで突き刺さっており、同日の夜9時40分頃になって墜落地点の地面にめり込んでいた操縦席と思われる残骸の中から肉片を見つけたことから、パイロット2名も即死したものと結論付けられた。
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「ユナイテッド航空859便オーバーラン事故」の記事における「事故の詳細」の解説
事故機(N8040U)は、建設機械を含むいくつかの空港車両に衝突し、18人が死亡(地上に1人を含む)し、84人が負傷した。 859便は途中で油圧の不具合が発生し、クルーが油圧の不具合のチェックリストに従った後、通常の着陸準備を行った。859便は正常に接地したが、エンジンのスラストレバーを逆噴射の位置に動かすと、左側のエンジンのスラストリバーサーのバケットが正しく展開しなかった。エンジンの推力を前方に向けるには、バケットを閉じなければいけない。 この故障により、左側の第1エンジンと第2エンジンは通常時の推力、右側の第3エンジンと第4エンジンは逆推力をという状態になった。そのため機体は、非対称的な推力により、右に逸れ始めた。滑走路を逸脱し、建設中の新しい誘導路に接触した後、右のメインギアが壊れた。ノーズギアも壊れ、右翼の燃料タンクが破裂し、火災が発生した。航空委員会(CAB)報告書は逆噴射状態にならなかった要因は、逆推力インジケータライトを副操縦士が監視を怠った事だとした。 18人の死者のうち一酸化炭素中毒が死因なのは、16人であった。1人の高齢女性が避難中に両方の足首を負傷し、後でショックで亡くなった。
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「タイ国際航空261便墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
事故機はバンコク発スラートターニー行きの国内便TG261便として運航されており、1998年12月11日17時40分にバンコクのドンムアン空港を離陸した。同便には他国からの観光客26人を含む乗客132人と乗員14人が搭乗していた。予定飛行時間は1時間55分であった。 スラートターニー空港への着陸準備に入ったときには豪雨であり視界も悪かった。パイロットは着陸を2回試みたがどちらも着陸を断念した。それにもかかわらず、パイロットは3度目の着陸を試みた。事故機はこのアプローチ中にグライドパスより下へ降下し、19時10分(別の文献では18時45分)に空港の3マイル南西にあるゴム農園に墜落した。機体は全壊し沼に埋もれた。 残骸の調査には約500人の救助者が参加し、遺体や残骸を沼や川から回収した[疑問点 – ノート][要出典]。この事故で2人のパイロットを含む乗員11人と、外国人14人(オーストリア、イギリス、ドイツ、ノルウェー、アメリカ合衆国(2人)、フィンランド、日本)を含む乗客90人のあわせて101人が死亡した。死者にはタイ運輸通信省大臣の姉または妹がいた[要出典]。生存者は45人であり(うち子供5人)、人数構成はタイ人33人、オーストラリア人3人、ドイツ人3人、日本人3人、イスラエル人2人、イギリス人1人であった。 この事故は2014年初めの時点で、タイで発生した航空機事故の中では、223人が死亡した1991年のラウダ航空004便墜落事故に次ぎ、2番目に大きな事故である。タイ国際航空の歴史でも1992年にネパールで発生し113人が死亡したタイ国際航空311便墜落事故に次いで2番目に大きな事故である。
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「サラン峠トンネル火災」の記事における「事故の詳細」の解説
ソ連軍には戦争中に大損害を生んだ事故を隠蔽する傾向があったため、この火災事故に関する情報はほとんどが伝聞によるものである。 第1報では燃料や大砲が爆発し、最大2700人が死亡したとされた。また事件後には、西側の外交官が「タンクローリーの衝突により最大700人のソ連兵と、400人から2000人のアフガン市民が死亡した」ことを示唆している。犠牲者の死因は焼死もしくは窒息死だった。この死亡者数は、何度も下方修正された。 ソ連軍の記録によれば、1982年11月3日、軍用車2211と2212がサラン峠トンネル内で衝突事故を起こして渋滞が発生したが、火災や爆発事故は発生していないとされている。その代わり64人のソ連兵と112人のアフガン人が車のアイドリングにより一酸化炭素中毒死したとされている。アメリカの軍事評論家は、犠牲者数をソ連兵・アフガン兵100人から200人としている。 また当時この地域を旅していた旅行者は[信頼性要検証]、軍用燃料輸送車がトンネル内で爆発し、連鎖爆発が起きたと報告している。事故発生後も車やトラック、バスが次々とトンネルの中に入っていったが、爆発が敵軍の攻撃によるものであることを懸念したソビエト部隊がトンネルの両端を戦車で封鎖したことで、多くの人々がトンネル内に閉じ込められ、焼死したり窒息死したり、冬の寒さを和らげるためにアイドリングを続けて一酸化炭素中毒死したりした。結果として最大700人のソ連兵と2000人のアフガン兵・市民が死亡した可能性がある。 なお、アフガニスタンの反乱軍は、この事故に関与していないと述べている。 事故に先立つ1980年2月23日には、サラン峠トンネルで同様の事故が発生し16人のソ連兵が死亡している。
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「八王子市犬目町C-46輸送機墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
1957年(昭和32年)12月12日午後10時45分頃、横田基地へ着陸するために南方向から旋回して高度を落としていたのC-46輸送機が、犬目町の山中の送電線に接触、そのまま墜落炎上した。 八王子警察署や八王子消防署から警察官や消防士多数と消防車10台、そして地元の消防団員約100名が現場に駆けつけて消火や搭乗員の捜索に当たった。 乗員の生存者はなく、翌13日午前1時頃までに5名全員の死体が確認され、米軍によって横田基地へと運ばれた。
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「神奈川県蛭ヶ岳米軍機墜落事故」の記事における「事故の詳細」の解説
4月21日、沖縄県から立川飛行場へ向かっていたC-54輸送機(DC-4の軍用型)が行方不明となった。 燃料が尽きる時間となっても飛行場に現れず、また他の飛行場に着陸したとの確認が取れず、無線での呼びかけにも応じなかったため、在日米軍はただちに捜索を開始すると共に、日本政府にも協力を要請した。輸送機にはパイロットや兵士など35名の米軍人が搭乗しており、行方不明のニュースは大きく報道された。飛行経路から、伊豆半島、箱根、丹沢山地などの山のどこかに墜落したのではないかと推測されたが、翌22日の夜になっても所在は判らないままだった。 4月23日、不明機を捜索していたB-17のパイロットが、山の斜面に散乱する機体の破片を発見した。当初、墜落地点は「丹沢山の山頂より東へ約500メートルの急斜面」と報道されたが、実際は「蛭ヶ岳の山頂より南へ約500メートルの急斜面」で、最初の捜索隊が現場に到着したのは、4月23日の午後だった。 墜落現場は全く人の手の入ってない原生林で、しかもかなりの急斜面でもあり、捜索や遺体の収容作業は難航を極めた。機体は完全にバラバラになり、墜落時に発生した火災のため犠牲者も黒焦げになるなど、極めて悲惨な状態であったという。麓から登ってきた捜索隊は、事故現場で手足の千切れた遺体、木に引っかかった遺体などを目撃している。 この捜索は人海戦術に頼る必要があり、警察、消防団、山岳会、米軍、など総勢1,000名を超える大規模な捜索隊が組まれ、宮ヶ瀬村方面、玄倉川方面、丹沢山方面、塔ノ岳方面、の4方向から分かれて山に入った。最終的に、事故機に乗った全員の死亡が確認された。また、機体の炎が燃え移って山火事となり、400メートル×5000メートルの範囲が燃えたという。 現在、蛭ヶ岳山荘近くに慰霊碑が建っている。
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1958年4月花組公演(3月26日 - 4月29日)「春のおどり、花の中の子供たち」(高木史朗作・演出)第12場トランプの国の場で事故は起きた。恋人同士のハートの6(男)とハートの7(娘)はトランプの国のキング、クイーンの怒りに触れ、殺人光線を浴びせられ、セリで舞台下へ沈んでいく。ハートの7(娘)役を演じていた日夏有里(後の日夏悠理)が風邪で休演したため、3月31日昼の部から香月が代役を務めていた。相手役のハートの6を演じるのは、偶然だが湘南白百合学園同級生の松島三那子だった。 松島のこの事件の回想によれば、31日昼の部、夜の部、4月1日昼の部は問題なく終わった。夜の部午後6時25分頃に事件は起きた。キングの「ボタンじゃ!」のセリフでキリキリという音がだされ、同時に恋人男女は観客に向かって抱き合って苦しむ表情で客席に一番近い一番セリ(縦約1メートル×横約3メートル)に移る。ハートの6(男)が客席から向かって左に、ハートの7(娘)が右である。二人がセリに乗ったと同時に、セリは降下し始める。松島(男役)の衣装は体にびったりついたタイツ姿、香月は円形スカートであった。 松島はトランプの国の場が終わった後、早変わりですぐ次の役に扮しなければならなかった。そのため、姿が客席から見えなくなるとすぐに体をふりほどき、相手役に「オーキニ」と言った後背を向け、セリが下がりきるのを待たず奈落に飛び降りて早変わり室に向けて駆けて行った。松島はこの日、飛び降りて三歩ぐらい走った時、背後で「ヤメテー」という叫びがしたのと同時にバリバリという音、何かが飛び散る音がしたのを聞いた。驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえた。この間一秒程度であった。 松島の衣装の背中には、血しぶきがかかっていた。香月の衣装ドレスにはすそを広げるための幅2センチ、厚さ1ミリのスチールベルトが腰まわり、ひざ、すその三カ所にそれぞれ直径約60センチ、70センチ、1メートルの輪になって取り付けられていた。衣装ドレスの裾がセリのシャフトに巻き込まれたため、セリ台のワクの鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ、腰まわりのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、身体が真っ二つに切断され即死してしまったのである。しかし香月の切断部は衣装ドレスで覆われていたため、松島は香月が死亡したことを認識できなかった。 動転した松島は、「トメテートメテー」と怒鳴りながら、早替わり場にかけつけた。次の場もあるので、とりあえず衣装をつけたが、その時香月が死亡したことを聞き、松島はその後の記憶を失った。後に松島が周囲にいた者に聞いたところでは、その時の彼女は泣きながら香月の名を大声で呼んだり「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら暴れるなど、半狂乱だったという(一部に「松島は鮮血に染まりながらゆっくりと香月の胴体が切断されてゆく様を、ただ黙って見ていることしかできなかった」とする記述があるが、松島の回想によれば事実ではない。松島の回想は警察が作成した彼女の供述調書が全文引用されており、信憑性は高い)。 医師の死亡診断書によれば、香月は腰の部分で切断され、右足がおしつぶされ、左足はヒザ下が骨折しており、上半身は異常がなかった。 宝塚市を管轄している兵庫労働基準局西宮労働基準監督署は香月弘美の死を労働災害死と認定した上で、以下の点を宝塚歌劇団に警告し、設備の改善まで安全な大ゼリを除く六台のセリを使用禁止にした。 セリ台の周りに剥き出しになっているスクリューシャフトや舞台を支えている鉄製アングルなどに出演者が巻き込まれたり、挟まれたりしないように、セリの機械装置とセリ台を隔絶するジャバラ式の安全装置を付ける。 舞台衣装の面でも事故の直接原因となったスチールベルトは禁止し、竹ひごのようにひっかかっても切れるような材質のものに変える。 セリ台の上下するスピードを落とす。 実地検証にあたった兵庫県警宝塚警察署の署長は「絶対に不可抗力の事故とは考えぬ。どこかに過失があったと思う。」と語り、同署刑事課長は、 事故の起こった一号セリの開始動作を操作していた公演係長は仕事の上でどの程度の責任と義務を負わされているかという点で、業務過失の有無が決まるわけだから、今の段階では何とも言えない。 香月さんはあの狭い舞台で裾回り約三メートルもの衣装ドレスを着用しており、しかも直径十センチもの太いスクリューシャフトが剥き出しのままかなりのスピードで回転しているので、誰が見ても危険だ。 ああいう舞台では事故の起きないのが不思議なくらいで、舞台機構上の大きな手落ちと見られる。 と新聞記者に述べ、業務上過失致死傷罪などの刑事責任を宝塚歌劇団・大劇場関係者に追及する姿勢を示した。 しかし、その後宝塚歌劇団・大劇場関係者が香月の死の刑事責任を追及されたか否かについては報道されなかった。
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