事故の表面化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:23 UTC 版)
事故はソビエト連邦の軍事施設で起こったため極秘であったが、1958年には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ合衆国にも伝わった。概要が明らかになったのは、1976年11月、ソ連から亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフの、イギリスの科学誌「ニュー・サイエンティスト」掲載論文による。 彼はその後『ウラルの核事故』(日本語翻訳有り)を出版。この告発をソ連は真っ向から否定した。原子力を推進する立場の人々からは、このような事故はあり得ず、単なる作り話と一蹴され、ソ連の陰謀論という扱いだった。当初流布された噂では、核爆発に達する臨界事故が起きたとされていたためである。 このため、1989年9月20日にグラスノスチ(情報公開)の一環として外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は明らかにされなかった。また地域住民に放射能汚染が正式に知らされたのは、ソビエト連邦の崩壊後その後継となったロシア連邦政府発足後の1992年前後であり、対策は後手に回り放射能被害を拡大させた。
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