統治機構
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サータヴァーハナ朝の中央政府の組織はほぼわかっていない。数少ない史料などから都市管理官、将軍、内侍官、会計官、家庭祭火管理官、倉庫管理官などの地位があったといわれているが、必ずしも中央政府の官制を示すものであるか断定はできない。 サータヴァーハナ朝の地方行政区画の単位はラーシュトラ(Rāṣṭra 地方)であり、各地方を支配するのはマハーセナーパティ(Mahāsenāpati 大将軍)であった。大将軍という称号は当時の南インドでのみ見られるものであり、「将軍」とは言っても、中央政府によって任命された軍事司令官ではなく、世襲的な封建諸侯であった。この地位についてはドイツ語のヘルツォークが元々軍の指揮官の意味であったが、後に貴族の称号となったのと同様の経緯によって地方貴族の称号となったものであると言われている[誰によって?]。それに続く地位としてマハーボージャ(Mahābhoja 大封侯)やマハーラーシュトリン(Mahārāṣṭrin 大領主)などがあり、両者はほぼ同列の地位であったと言われているが[誰によって?]詳細は不明である。(マハーラーシュトリンの中には「アーンビ家の裔」と称する家もあったが、これとアレクサンドロス大王に服したタクシラの王アーンビ(英語版)との関係を指摘する学者もいる。しかし時代的、地理的な隔たりが大きく不詳。)。藩侯にはそれぞれ書記などお抱えの官僚があって地方政府を形成していた。 王族の分家も各地に藩侯として封じられていたことがわかっており、中には3世紀にサータヴァーハナ朝本体が崩壊した後も4世紀まで命脈を保った分家もある(クンタラ地方)。 こういった藩侯とは別にアマーティヤ(Amātya 地方官)が配置され、赴任地の土地問題などを管轄していた。例えばサータヴァーハナ朝の国王が仏教教団に対する土地の寄進などを命じた場合に実際にこの業務にあたるのはアマーティヤであり、中央の命令を地方に伝える上で重要な官職であった。
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統治機構
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インドネシアの統治機構は、立法・行政・司法の三権をそれぞれ別の国家機関に属させる三権分立を採っている。国民の選挙によって選出される大統領を国家元首とする共和制である。立法府は、国民議会(定数560)及び地方代表議会(定数132)と、この二院双方の議員からなる国民協議会で構成されるが、国民議会・地方代表議会のいずれの議員も国民の選挙によって選出される。また、インドネシアの行政区画は34の州に分かれるが、州ごとに地方自治を認め、知事及び地方議会が置かれている。 総人口約2億5000万人の80%以上をイスラム教徒が占め、世界最大のイスラム人口を有する国家であるが、イスラム教を国教としているわけではなく、法制としても、イスラム法(シャリーア)による統治を掲げていない。多民族国家として、「多様性の中の統一(インドネシア語版、英語版)」(Bhinneka Tunggal Ika)を国是としている。
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統治機構
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マッラ族を含めて9つの部族が国内各地におり、その居住地に合うようにマッラ国は9つの地方に区分された。その区分において選ばれる代表による会議(संघ サンガ)によって、国政が運営されていたと伝えられている。この会議の構成員は、自ら「王」(राजन् ラージャン)と名乗る習わしであった。近年、このような古代インドの国家をガナ・サンガ国というようになっている。
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統治機構
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「銀河帝国 (スター・ウォーズ)」の記事における「統治機構」の解説
帝国政府 (Imperial Government) パルパティーンはクローン大戦時に付与された非常時大権を保持し続けたため、皇帝として絶対的な権力を持っていた。彼は居城インペリアル・パレスに籠り命令を下し、腹心であるベイダーが恐怖支配の執行者として銀河中を巡り、人々から恐れられる存在として君臨した。帝国にはヤヴィンの戦いの直前まで元老院が存在したが実質的な権力は持っておらず、元老院の解散後はモフ(総督)やその上位者であるグランド・モフが各惑星や星系を統治した。 帝国軍 (Imperial Military) インペリアル・ガード (Imperial Guard) シーヴ・パルパティーン皇帝の親衛隊。赤い装甲服と赤衣を着たストームトルーパーで、高い忠誠心と能力を認められた者の中から選抜される。原則的に彼らはパルパティーン皇帝に直属しており、ダース・ベイダーですら彼らへの指揮権を得るには皇帝からの特別な許可を必要とする。 前身となったのは、共和国末期にパルパティーンが創設した警護兵レッド・ガードで、この頃から赤衣を着用していた。元々最高議長の護衛は元老院の下部組織として青衣を着たセネト・ガードが担当していたが、パルパティーンは元老院の警護兵を議長個人の私設部隊レッド・ガードや、コルサントの保安部隊として特殊訓練を受けたクローン・トルーパーで構成されたクローン・ショック・トルーパーへと段階的に入れ替え、帝国成立時には彼の護衛は完全にインペリアル・ガードが担当するようになった。 宇宙軍 (Imperial Navy) 銀河系の秩序を維持するために編成された帝国軍の主力。パルパティーンの「New Order(新秩序)」に基き、ベイダーの命令で共和国軍から再編され、モフが統率した。反帝国運動の弾圧の他に海賊や密輸業者の取締りを担当し、帝国内の交易の監督も行っていた。 最盛期には2万5,000隻のスター・デストロイヤーを含む数百万隻の軍艦を保有し、パルパティーンの恐怖支配を実現した。宇宙軍は大型艦の攻撃を想定して設計されたため、同盟軍の小型戦闘機による攻撃に苦戦した。パルパティーンの死後は各地のモフが統率下にある艦隊を私兵化して軍閥を形成したため、宇宙軍は分裂した。 地上軍 (Imperial Army) AT-ATなどの兵器を中心に編成され各惑星に駐屯しているが、パルパティーンを守るため首都星コルサントにも大規模な師団が駐屯している。兵力は銀河中での作戦を展開するため膨大な師団が存在し、宇宙軍とも連携して行動する。 ストームトルーパー (Stormtrooper) 帝国軍の歩兵部隊。地上軍に所属して治安維持の任務に就いているが、宇宙軍の揚陸部隊としても活動している。 帝国保安局 (Imperial Security Bureau) 保安問題を担当する諜報機関で、秘密警察の役割を担っている。帝国軍の指揮系統からは独立しており、国民や帝国軍内部の監視・摘発を行っている。 帝国情報部 (Imperial Intelligence) 帝国軍に所属する諜報機関で、パルパティーンや帝国軍本部に情報を報告している。元々は宇宙軍情報部が存在したが、宇宙軍情報部長官が反逆罪で処刑された後、帝国情報部に統合された。別系統の諜報機関である保安局とは対立関係にある。 黒い装甲服を着用したストームトルーパー部隊「デス・トルーパー」を組織している。
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「カバドゥグー (王国)」の記事における「統治機構」の解説
カバドゥグーの支配者は政治、軍事、司法において最高権力を持つファアマであり、ファアマは自ら地方の長(ファアマ・ディン)を任命した。
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グアンチェ族の政治・社会構造については不明な点が多い。グラン・カナリア島などでは母系優位で世襲の専制政治が行われており、その他の島では選挙により統治者を決めていた。テネリフェ島では土地は全て王のものであり、民にこれを貸し与えていることになっていた。グラン・カナリア島では自死は名誉であり、新しい王が就任するとき、臣民のうちひとりが誇りを持って断崖絶壁からの自発的な身投げを行った。一部の島では一妻多夫制がとられたが、それ以外の地域は一夫一婦制であった。武装した男性が女性を辱めた場合、死罪にされたという。犯罪行為を告発したい場合は必ずTagoror(集会広場)での会議に持ち込むことになっており、告発された者は公開裁判で討議の後に判決を言い渡された。 テネリフェ島は9の小さな国(menceyato)に別れており、それぞれに統治者(Mencey)が存在した。Menceyは各国の最高権力者で、定期的に他の国の統治者達と討議を行っていた。カスティーリャ勢力がカナリア諸島へ進攻した際、島南部の諸国は比較的豊かな島北部の土地を与えられるとの条件で、カスティーリャ側についた。しかしカスティーリャ勢力はアグエーレの戦い(英語版)と第二次アセンテホの戦い(英語版)によって優位を確定的なものとすると、この約定を破棄した。
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統治機構
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ウォールデン2は、「プランナー(Planner、別訳「企画委員」)」、「マネージャー(Manager、別訳「役員」)」、「ワーカー(Worker、別訳「労働者」)」、「サイエンティスト(Scientist、別訳「科学者」)」の4つの階級(またはグループ)の人々で構成される。この階級は一般的な社会階級のように固定されたものではなく、流動的なものである。ウォールデン2には、この共同体の「唯一の政府」である「プランナー評議会(Board of Planners、別訳「企画委員会」)」が置かれている。ただしこの評議会が行使できる権力は、共同体の世話役程度のものでしかない。プランナー評議会は、この共同体がまだ計画段階だったときに着想された。プランナー評議会は6名(通常は男女3名ずつ)のプランナーで構成される。プランナー評議会のメンバーは、共同体の成功に責任を負い、政策を策定し、マネージャー(各労働領域の責任者)たちが行った仕事を評価し、共同体の全体としての状態に気を配る。また、いくつかの司法機能も担う。任期は7年を超えることができない。プランナー委員会に欠員が生じたときは、マネージャーたちから推薦された2名の候補から、評議会メンバーが1名を選び補充する。統治機構に関わるこうしたルールは、プランナー全員の賛成およびマネージャーの3分の2の賛成があったときは、変更できる。 バリスたちがウォールデン2を訪れたときは、フレイジャーを含む6名がプランナー評議会のメンバーだった。メンバーの任期は短く、互いにずらされている。プランナー評議会による統治には、いかなる強制力も用いられない。個人崇拝や依怙贔屓など、共通善に反する腐敗行為が起こる可能性は極端なまでに抑止されている。たとえばプランナー評議会に就任したメンバーは、就任を公式に発表することさえしない。共同体の成員のほとんどは、誰がプランナーなのかさえ知ろうとしない。そのため、またその結果として、プランナーたちは共同体の他の成員と変わらない質素な生活を送っている。ウォールデン2の平等主義的文化構造にあっては、富や地位のこれみよがしな顕示が起こる余地はまったくない。 マネージャーは各分野の専門家で、ウォールデン2の各部門・サービスの責任者を務める。ウォールデン2の成員は、様々な責任を負う中間管理者の地位に就き、必要な下積みを積んだ上で、マネージャーまで出世できる。マネージャーは、ウォールデン2の成員の投票によって選ばれるわけではない。マネージャーを選出する方法の詳細は作品中に示されていないが、ウォールデン2の「唯一の政府」であるプランナー評議会によって任命されると考えられる。 ウォールデン2の一般のメンバーは(公式には)「ワーカー」と呼ばれる。ワーカーは、退屈しないように、仕事の領域や場所を毎日変えることができる。1日の労働時間は平均4時間である。就くことができる仕事には、建設作業、修繕、清掃、農作業といった共同体を維持するための肉体労働が含まれることが多い。報酬には「労働クレジット」を単位とするポイント制が用いられる。ごみの処理など比較的好まれない仕事をすると、より多くの「労働クレジット」を稼ぐことができ、稼いだ「労働クレジット」でより多くの自由時間を得ることができる。 サイエンティストは、工場、家畜の交配、幼児の行動の監督、いくつかの種類の教育プロセス、および一部の天然資源の利用法に関する実験を行う。サイエンティストに関する説明は最も少なく、その選抜、総人数、固有の義務、実験の方法についてはほとんど言及されていないが、ウォールデン2にとって最も有益な戦略を策定するための社会実験を行っていると推測される。
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統治機構
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マウリヤ朝の政府組織は史料的制約によって全貌は今なお知られていない。主にアショーカ王時代の勅令などからは「会議」(パリシャド Pariṣad)などの政府組織や、「大官」(マハーマートラ Mahāmātra)などの官職などが復元されうる。 上級官僚の地位は世襲され、身分集団となっていた。カウティリヤの『実利論』では、上級官僚は高貴な家柄の出身を求めつつ、能力に応じた役職につける必要性も論じている。
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統治機構
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光武帝期における統治機構の整備としては次のようなものが挙げられる。 後漢は前漢の統治機構を踏襲して郡国制を採用したが、諸侯王・列侯の封邑は前漢に比してきわめて小さいものであった。諸侯王の封邑も1郡に過ぎず、功臣を封侯しても多くとも数県を与えるのみであった。王莽が廃した前漢の諸侯王で光武帝の即位時に地位を回復されたものも37年(建武13年)には列侯に格下げされ、その後に光武帝期に諸侯王とされたのはかれの同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみであった。 中央政府には大司徒・大司空・大司馬の三公を政治の最高責任者として設けた。もっとも、政治の実務上は皇帝の秘書たる尚書が重用された。その他、官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。 また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした。
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国内政治の機構もナチズムの影響を強く受けた。ヴァイマル共和政の時代では内閣は合議機関であったが、やがて形式だけのものとなり、権力を持つものは一部の大臣のみとなった。ドイツ帝国以来の官僚機構と並立して党の機関も権力の一部となり、時には優位に立つこともあった。党の地方区分であった大管区は公的なものとなり、大管区指導者は地方の長として大きな権限をふるった。また親衛隊の勢力拡大は大きく、国内の治安権力を掌握した最有力組織の一つとなった。またナチス時代初期の外交分野では、外務省のほか党の外交政策局、さらにリッベントロップの個人事務所(「リッベントロップ事務所」Büro Ribbentrop、1936年以降は「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop)が並立し、それぞれ別個の外交活動を行うことさえあった。 またナチ党はヴァイマル共和政下の強い地方自治は阻害要因でしかないと考えており、ヒトラー内閣が成立すると州の自治権は次第に奪われていった。中央政府から国家代理官や国家弁務官が送り込まれ、中央政府の権限が強化される一方で、地方議会は解散に追い込まれ、州政府は形骸化した。またナチ党の地方組織大管区が実質的な地方区分となり、大管区指導者が地方の支配者となった。
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統治機構
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律令に定める統治機構は、祭祀を所管する神祇官と、政務一般を統括する太政官の二官に大きく分けられていた。中国律令では、祭祀所管庁が通常の官庁と同列に置かれていたが、日本律令は、神祇官を置くことで祭祀と政務を明確に分離した。太政官の下には、実際の行政を担当する八省が置かれ、更に各省の下に個々の事務を分掌する職・寮・司・所などの諸官庁が置かれた。この機構を総称して二官八省という。 太政官は、国政の意思決定を行う最も重要な機関であり、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言(後に中納言・参議が加わる)による議政官組織とそれを実務面で補佐する少納言・左右弁官局・外記局から構成されていた。 議政官は政務の重要な案件を審議し、最終的な裁可は天皇が行うとされていた。重要でない案件の場合は、議政官の審議のみとされた。このように議政官の任務は非常に重要であり、実質的に国政の意思決定を左右する組織であった。天皇が裁可、もしくは議政官が審議して決裁された案件は、弁官に回付され、弁官が太政官符を作成して実行に移された。弁官は国政中枢の実務を担っていたため、これも重要な官職と見られていた。また、天皇が案件を提起する場合は、天皇から中務省へ命じて詔書が作成され、中務省が起案した詔書の文案は、外記局で点検を受けて天皇または弁官へ回付されており、外記局も重要な部署と認識されていた。決裁された政策を実行するのが八省であり、左弁官と右弁官が四省ずつ担当していた。 以上に見る太政官の組織形態は、唐律令のそれを大きく改変したものである。唐律令では、国政の意思決定機構は、天子の命を受けて政策を企画立案する中書省、中書の立案を審議する門下省、門下省が同意した政策を実行する尚書省から構成されていた。このうち、中書省は天子とのつながりが強かったが、門下省は貴族層の意思を代表する機関であり、中書と門下の力が拮抗していた。日本と比較してみると、中書省が中務省、門下省が議政官、尚書省が左右弁官およびその下の八省に当たる、日本では太政官が門下・尚書の両省を兼ねて更に中書省である中務省を指揮するなど強力な権限を有し、とりわけ門下省に当たる議政官、即ち貴族層の役割が非常に大きかったことが判る。 中央官制の詳細は日本の官制の項を参照。 地方統治は、中央に近い大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国の五国を畿内とし、その他を七つの道(どう)に区分した。これを五畿七道という。行政単位としては、国・郡・里(郷)の三層に分けて、国には国司、郡には郡司、里には里長(郷長)を置いた。このうち、国司には中央から派遣されたが、郡司・里長はかつての在地首長である地域の豪族層が終身官として任命され、実質上自分の支配地域を行政単位として認められていた。これについては、日本の律令制が、律令に基づく国家による人民支配と並行して、在地首長による氏族制的な人民支配をも内包していたとする見解がある。 重要な地域には特別の機関が置かれた。首都である京域を管轄する左右京職、首都の外交窓口である難波を管轄する摂津職、国家の外交窓口である西海道を管轄する大宰府である。 中央と地方の情報伝達を迅速・円滑に行うために駅伝制が実施され、この駅伝制の下で、中央と諸国とを結ぶ道路網が整備されていた。道路網は、幅員が広く長い直線区間を持つ古代日本のハイウェイであり、現代までその痕跡が残っている。 地方官制の詳細は古代日本の地方官制の項を参照。 古代日本の道路網の詳細は、日本の古代道路の項を参照。 以上の統治機構に属する官僚は、それぞれ官職と位階が与えられていた。官職とは官庁における役職で、押し並べて官庁内では役職が四階級、即ち長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)に区分されていた。これを四等官制という。また、位階とは官僚の序列を表す等級である。律令において、全ての官職は相当する位階が定められており、これを官位相当制という。例えば、弁官局の次官である左右中弁は正五位上と定められ、正五位上の者の中から左右中弁が選任されていたのである。位階のうち五位以上の者には位田・位封・位禄・位分資人(使用人)が給与されるなど多くの特権が与えられており、特別の身分階層を形成していた。これを貴族という。 詳しくは、官位、位階の項を参照。
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統治機構
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ザンジバル革命政府の長は大統領(タンザニアの大統領とは別の役職)で、ザンジバル革命政府が管轄する5州の住民によって直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止されている。閣僚は大統領がザンジバル議会の議員の中から任命する。現在の大統領はタンザニア革命党 (CCM) のフセイン・ムウィニ(英語版)(第8代)。フセインは第2代タンザニア大統領・第3代ザンジバル大統領を務めたアリ・ハッサン・ムウィニの息子であり、親子2代でザンジバルを率いることになる。 大統領のもとには革命評議会が置かれ、大統領への諮問機関として機能する。革命評議会の議長は大統領が兼任するが、その他の議員はザンジバル革命政府の閣僚や、大統領が任命する議員で構成される。 立法府は一院制の議会で、定数は81議席。50議席は小選挙区制に基づく住民の選出枠、15議席は選挙の結果を考慮して割り振られる女性議員枠、10議席は大統領の任命枠、5議席は政府により任命された5州の知事が着任し、最後の1議席は司法長官に割り当てられている。議員の任期は5年。 ザンジバル革命政府の成立以降、ザンジバルの政治はアフロ・シラジ党 (ASP) の一党独裁のもとに置かれてきたが、1977年にタンガニーカの支配政党であるタンガニーカ・アフリカ民族同盟 (TANU) とASPが合併し、タンザニア革命党 (CCM) を樹立。以後CCMがタンザニア政府に加え、ザンジバルの政治も支配している。1992年からはCCM以外の政党の設立も許可されるようになったが、野党の勢力は弱く、CCM政権が依然として続いている。比較的有力な野党としては、ザンジバルを支持基盤とする市民統一戦線(CUF)が存在する。
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統治機構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 20:31 UTC 版)
サウジアラビアは、国王を元首とする絶対君主制の国家であり、その統治は、実質的にも国王の親政で、「司法、行政、立法の三権は、国王の下で、相互に協力して執行される」とされている(統治基本法44条)。 国王は行政府の長である首相も兼ね、副首相以下の閣僚を任命する。制定法の立法権も国王に属するが、国王が任命する150名の議員と1名の議長で構成される諮問評議会が法律制定・改正などの実質的な検討をする機関として存在する。法律制定の通常のプロセスは、行政府の担当閣僚等が法律案を起草し、諮問評議会の審議に付され、諮問評議会に異議がなければ国王の承認を得た上で法律として公布されるというものである。ただし、上記のとおり、制定法を設けることができる範囲は、イスラム法(シャリーア)との関係で、相当に制約されている。
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統治機構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/10/23 19:35 UTC 版)
ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考えられている。「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表者から成り、国政を取り仕切っていたものと考えられている。近年、このような古代インドの国家をガナ・サンガ国というようになっている。
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