民主共和国・ソ連邦時代とは? わかりやすく解説

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民主共和国・ソ連邦時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:30 UTC 版)

グルジアの歴史」の記事における「民主共和国・ソ連邦時代」の解説

コーカサス戦い英語版)」、「ロシア革命」、「グルジア民主共和国」、「グルジア問題」、「八月蜂起英語版)」、「1956年グルジア暴動英語版)」、および「ペレストロイカ」も参照 1914年第一次世界大戦が始まると、ロシア・トルコ国境位置する南カフカス地域最前線となったエンヴェル・パシャ率いトルコ軍ザカフカス西部奪還めざしたが、12月山岳地帯軽装備で強攻したサルカムシュの戦い英語版)で兵力85パーセントを失う大敗北を喫した。これに対しロシア帝国軍グルジア人アルメニア人義勇兵参加得て1916年7月にはエルズィンジャンにまで侵入した大戦中の1917年ロシア革命勃発した二月革命後、グルジアアルメニアアゼルバイジャン3つの地域は「カフカス特別委員会英語版)(オザコム)」の名で知られるペトログラードの一委員会によって支配されまた、グルジア人びと長年希望であったグルジア正教会独立がようやく認められカトリコス選出された。その年、ボリシェヴィキロシア社会民主党多数派)によって引き起こされ十月革命では、ロマノフ王朝帝政ロシア崩壊立憲民主党カデット)が主導していた臨時政府倒された。南カフカス民族主義者社会主義者グルジアメンシェヴィキアルメニアダシュナク党アゼルバイジャンミュサヴァト党)はこれを機にロシアから分離しトビリシ結集してセイム(Sejm、カフカス委員会議(英語版))という新し機関設置したロシア人兵士十月革命によって南カフカス去り1918年3月にはヴェヒブ・パシャ(英語版率いトルコ軍がこの地に押し寄せた一方革命指導者ウラジーミル・レーニン人民委員会議ソヴィエト政権)を組織し1918年1月ロシア内戦のなかから生まれた赤衛隊をもとに赤軍労農赤軍)をつくった1918年3月3日ソヴィエト・ロシア政府カフカス委員会議にはかることなくバトゥミカルス、アルダガンのトルコへ割譲を含むブレスト=リトフスク条約調印した西方からのトルコ軍進撃さらされ南カフカスでは、1918年4月9日セイムによってザカフカース民主連邦共和国建国宣言された。共和国最高機関は、ザカフカス議会であり、グルジアニコライ・チヘイゼ議長務めアルメニア人アゼルバイジャン人副議長務めた4月13日トルコ新たな要求掲げ翌日グルジアバトゥミ侵入した連邦共和国政府は、ブレスト=リトフスク条約認めなかったが、軍事力をほとんど保有していない状態だったため、5月11日以降バトゥミにおいてドイツ・トルコ軍司令部交渉入った交渉中、グルジアアルメニアは親ドイツアゼルバイジャンは親トルコなどそれぞれの立場違いがあり、内部対立生じたことから、連邦解消され5月26日メンシェヴィキ指導のもとにドイツ軍保護下でグルジア民主共和国独立トルコ影響下で27日アゼルバイジャンが、28日にはアルメニアそれぞれ単独国家建国した。グルジア民主共和国承認したのはソヴィエト・ロシアを含む22カ国にのぼった英米独伊をはじめとするヨーロッパ諸国トルコ日本などボルシェヴィキ政権および赤軍許可しないという公約条件民主共和国承認した6月4日グルジアトルコ講和を結び、アジャリアなど一部領土トルコ割譲し7月にはボリシェヴィキ建てたクバーニ=黒海ソビエト共和国抗争した。グルジア当初ドイツ帝国軍保護下に置かれカフカス油田地帯にはフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版率い3000人のドイツ軍進駐し、同盟国トルコとともにアゼルバイジャン占領したグルジア民主共和国1918年5月26日建国当初メンシェヴィキ連邦社会主義者民族民主主義者と連合して国民会議組織し、ノエ・ラミシヴィリ(ロシア語版)がその議長職を務めたが、7月24日以降メンシェヴィキノエ・ジョルダニア首相として政府率いた。ジョルダニア政権農相ホメリキは1919年1月より包括的土地改革本格化させ、地主貴族土地一部接収し農民たちに分与し自作農創設されたため、農民層から支持された。メンシェヴィキは、1919年2月グルジア制憲議会選挙では得票数505,477票中409,766票、議席130議席109議席という圧倒的な支持受けて政権安定し土地改革のほか司法改革工業国有化などの政策進めた対ロシア防衛の面では、アントーン・デニーキン率い白軍優勢だった時期にはアゼルバイジャン協力してこれを牽制した。 アゼルバイジャンのミュサヴァト政権バクー石油利権めぐってドイツトルコ圧力をかけたのでトルコへ併合免れたが、中央同盟国敗北しトルコ軍撤退する替わってイギリス軍1918年11月本格的に進駐してきた。内戦における白軍有利の状況のなかでイギリス当初ミュサバト政権承認しなかったが、反共防波堤にする方針転じそのなかで自由選挙実施されたが、やがてロシア革命干渉戦争から手を引くこととし1919年8月バクーより撤退したその後内戦優勢となった赤軍(のちのソ連軍)がバクー占領1920年4月ソヴィエト政権成立した第一次大戦中、オスマン帝国領内でアルメニア人虐殺経験したアルメニアは、1918年5月決戦トルコ撃退した地域をもとにダシュナク政権独立し連邦解消後はエレヴァン首都として建国したものの、トルコ領内からの大量難民にともなう住宅問題労働問題感染症問題の発生オスマン帝国内のアルメニア人有力者からの干渉、さらにアゼルバイジャングルジアとの間には国境地帯帰属をめぐる紛争があって国家運営難渋きわめたイギリス軍援助カルス地方奪還したこともあったが、1920年秋のキャーズム・カラベキル率い新生トルコ軍との戦争敗れ11月には赤軍侵入してきたため、ダシュナク党赤軍受け入れ認め1920年12月ソヴィエト政権成立したグルジアでは、1918年7月末から12月まで、南部のボルチャロ郡(マルネウリ)やロリ地方めぐってアルメニアとのあいだで戦争状態になった(グルジア・アルメニア戦争英語版))。グルジアからは国境警備隊のほかドイツ軍もこれに加わった当初アルメニア優勢だったが、のちにグルジア反撃して膠着状態となった1918年末のドイツ・オーストリア崩壊後グルジアイギリス占領下入ったイギリス1919年1月、グルジア・アルメニアの和平仲介しグルジア西部傀儡国家バトゥミ共和国建国宣言した。しかし、グルジア人びとは、イギリス支持受けたデニーキン率いロシア白軍を、ボリシェヴィキ以上に危険な存在だと考え白軍帝政秩序回復目的とする活動に対して協力拒否した。これにより、バトゥミ共和国1919年のうちに崩壊、翌1920年7月には英軍バトゥミから全面的に撤退したグルジアロシア支配入ったアゼルバイジャンとも抗争した。 1919年10月から11月にかけてはグルジア各地武装蜂起が相次ぎ、これは鎮圧されたもののグルジア国内外情勢悪化にともないロシアとの関係修復する必要にせまられた。1920年5月7日、ロシア・グルジア間でモスクワ条約英語版)が結ばれグルジアではボリシェヴィキ合法化義務付けられ、それにもとづいてセルゲイ・キーロフを長とするソヴィエト使節団トビリシ派遣された。キーロフらは民主共和国崩壊させてこの地にボリシェヴィキ革命実現すべく行動したグルジアではグルジア共産党英語版)が発足してメンシェヴィキ政権打倒準備した1920年末の段階ではアルメニアにもソヴィエト共和国成立していたので、グルジア三方ソヴィエト共和国かこまれる状態となっていた。 1921年1月グルジア民主共和国旧連合国多くから独立国としては認められいたものの、前年発足した国際連盟への加盟拒否された。すかさずグルジア人ボリシェヴィキヨシフ・スターリングリゴリー・オルジョニキーゼ赤軍指揮して軍事行動起こした赤軍グルジア侵攻英語版))。同年2月ロリでの民衆蜂起契機に、2月21日赤軍第11軍首都トビリシ侵攻市街戦結果ここを占拠して2月25日グルジア社会主義ソビエト共和国発足宣言した民主共和国政府バトゥミ逃亡したものの3月17日国軍降伏してバトゥミ陥落亡命余儀なくされた。メンシェヴィキフランスパリにおいてジョルダニアを首班とするジョルジア民主共和国亡命政府英語版)として活動をつづけ、新しく成立したグルジア・ソビエト共和国グルジア共産党第一書記ラヴレンチー・ベリヤによって指導された。 十月革命直後ロシアでは、フィンランドポーランドなど旧帝国に併合されまもない地域いち早く独立果たしたが、ウクライナ独立動き強まってロシア内戦が始まると、モスクワロシア共産党最高指導部は、完全に独立した主権国家である各共和国互いに対等な関係で条約をむすびあうことで統一行動演出するという方針採用したこのような方針の下、1922年12月13日グルジアソビエト共和国アルメニアアゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国編入され独立失った。そしてそれと同時にロシアウクライナ白ロシアおよびザカフカースの4ソビエト共和国対等な連邦として、ソヴィエト連邦正式に発足したソヴィエト連邦結局旧ロシア帝国版図をほぼそのまま引き継いだかたちとなり、各共和国主権対等建前をとりながら、実際各国の共産党ロシア共産党中央委員会単なる地方委員会にすぎなかった。なお、1922年4月3日スターリンレーニン推挙ソビエト連邦共産党書記長任命されている。 モスクワによる急速な中央集権化対し、最も頑強に抵抗したのはグルジアであった赤軍によるグルジア侵攻直後始まり1922年後半ピーク迎えたボリシェヴィキ内の論争が、いわゆるグルジア問題」である。この政治論争主要な論点となったのは、グルジアなど3カ国でザカフカース連邦構成するというモスクワ決定の是非であり、グルジア単独ソ連邦一員になる立場望んだフィリップ・マハラゼブドゥ・ムディヴァニグルジアボリシェヴィキ指導者は、この決定強硬に反対した。モスクワからの自治維持しようとするグルジア側の願望や、ボリシェヴィキ画策していた国境政策解釈グルジア特有の解釈がこれにからんで論争複雑な様相呈した結局論争スターリンとその盟友オルジョニキーゼ勝利帰し、マハラゼやムディヴァニは失脚したグルジアではソヴィエト化の過程ソ連邦結成時における中央との軋轢がとくに大きかったのであるスターリンオルジョニキーゼ立場は「民族主義害毒」を撲滅しソヴィエト体制のなかで国としての結束固めることを目指したものであり、すべてのソヴィエト国家ロシア併合され従属的な立場陥るよりはむしろロシア同等の地位あるべきであるというものであったが、これを病床聞いたレーニン官僚制的中集権にもとづいた大国主義的な抑圧形態であるとして厳しく批判しスターリン晩年レーニンとの不和原因のひとつとなったまた、3共和国権限機能分担曖昧なまま併合されたことは、のちに領土問題国境問題浮かび上がってくる元凶一つとなった南カフカスにおけるソヴィエト体制の成立また、従来バクー除けばボリシェヴィキ勢力の弱い地域であったために、その軋轢大きかった旧政権政党関係者監視され幹部多く追放された。1923年以降グルジアではメンシェヴィキ解党させられ、旧党員ボリシェヴィキ吸収されるか、国外亡命するかの選択余技なくされた。農村に対してレーニン中心になって進めたネップ新経済政策)によって経済自由化ある程度認めたため、当初存在した農民の不満もしだいに和らいでいった。 トロツキー派敗北後1924年には、農村襲った部分的凶作穀物調達不振穀物投機傾向拡大価格の高騰都市民の不満増大など「1924年秋の危機」と呼ばれる状況現出した。これは、ネップ行き詰まりを示す事象ともいえたが、カクツァ・チョロカシヴィリ(英語版)らの指導によって大規模な反ソ農民暴動八月蜂起英語版))がグルジア起こったことはロシア共産党中央震撼させた。この暴動赤軍によって鎮圧されたが、スターリングルジア暴動について「もしわれわれが農民対す態度そのもの根本的に改めないならば、・・・グルジア発生したことは、ロシア全土くりかえしおこるであろう」と論じたソ連では、レーニン死去後スターリン権力奪取し1928年にはネップに対して否定的評価下し1929年には第一次五カ年計画開始して農民から作物強制的に徴収、これを海外輸出することで資金調達し、それをもとに急速な工業化はかろうとした。コルホーズ中心とする集団化によって農業生産効率高め余剰人員工業労働力まわそうとしたのであるその結果都市住民には食糧が行き渡るようになり、市民生活厳しく統制され反面重化学工業化と軍事化によってソ連は再びかつて大国ロシアと同じ道を歩むことが可能となったスターリン自身グルジア人であったが、権力容赦なくふるった独裁者という点では、雷帝イヴァン4世ピョートル1世などと同様、むしろ典型的なロシア専制君主系譜を引く人物みなされることがある一方農村では、ようやく安定した農家経営と自らの土地得た農民たちが集団化と作物強制徴収で生活が脅かされることに反発しカフカス地方ではウクライナ並んで激し抵抗運動起こった農業生産激減して飢饉発生する一方地方共産党組織そのもの混乱したソヴィエト政権農業集団化をおこなうにあたって次第警察力訴えるようになり、抵抗者には「クラーク富農)」とレッテル貼っ財産没収し居住地から追放した1930年代スターリンは「一国社会主義論」を唱えて政敵追い落としスターリン自身頂点とする党組織引き締めによって国家政策貫徹させようとして1936年以降一切党内抵抗勢力粛清した。グルジア人ラヴレンチー・ベリヤスターリン片腕として内務人民委員部NKVD)の長官務め、その中心人物となった粛清に際してNKVDノルマ設け国民には密告奨励したため、無制限なテロリズムとなった。こうして、1936年から1938年にかけての大粛清時代には、草創期ボルシェヴィキ指導者多くが「トロツキスト」の烙印押され葬り去られグルジアでも「ムディヴァニ・オクジョア裁判」などがなされて土着の活動家多くが「民族主義的偏向」の名のもとに処刑された。1936年12月5日ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国廃止され単独グルジア・ソビエト社会主義共和国昇格した国土とその住民スターリン憲法のもとで、ソヴィエト連邦からいつでも分離しうる権利を含む数々権利あたえられた。 スターリン独ソ戦第二次世界大戦通じて絶対的な権力をふるい、そのなかで民族強制移住英語版)がなされ、多く民族犠牲となった独ソ戦末期1943年から1944年にかけての北カフカス諸民族対す過酷な強制移住おこなわれ、とくにイングーシ人チェチェン人のそれは大規模であり、のちに帰郷許されたものの現在もなお大きな爪痕のこしている。これに対し、「スターリン批判」ののちも故郷へ帰還許されなかったのがグルジア南西部のメスヘティ(英語版地方住んでいたムスリム住民(メスフ人)である。メスフ人(メスヘティア・トルコ人)はテュルク系民族で、敵国トルコとの連携疑われ中央アジア強制移住させられた。1968年には帰郷権利認められたものの歴代グルジア当局はそれを許そうとせず、現在のジョージア政府も彼らの帰郷認めていない。一方二月革命後もグルジア正教会認めてこなかったロシア正教会1943年になり、ようやくその独立認めた。これは総力戦を戦うにあたってスターリングルジア民族主義取り込む必要を感じたことにより、下した裁定結果であった第二次大戦後の共産党内部ではスターリン側近ベリヤはじめとしてグルジア人多くベリヤスターリン亡き後有力な後継者のひとりとみなされていた。しかし、晩年スターリンベリヤの息のかかったグルジア人側近警戒して彼らの多く更迭し、さらに1951年以降ベリヤ本人失脚させる機会さえうかがっていた。1953年独裁者スターリン没すると、ベリヤは「個人崇拝」を批判し、党と国家分離主張したニキータ・フルシチョフらとの政争敗れこの年の末、死刑処せられた。 グルジアソ連構成していた諸共和国なかでも反中意識がもともと強く1950年代以降グルジア人権利擁護する民衆運動がたびたび起こったそのなかでもよく知られているのが、1956年5月9日起こった1956年グルジア暴動英語版)(第1次トビリシ事件)である。これは、第20回ソヴィエト共産党大会でいわゆるスターリン批判」をきっかけにして起こった民衆暴動であり、武力弾圧によって数百名の死者出たといわれるフルシチョフ時代戦後復興一段落しスターリン時代恐怖政治終わったことで人びとも生活を楽しむ余裕生まれたが、フルシチョフ政権一方では「社会主義的競争」の名のもと民族語学校次々閉鎖したため、グルジア都市部ではロシア語学校大半占め、「文化ロシア化」が進んだ。その一方政治分野では各地で「脱モスクワ化」が進みグルジアではヴァシーリ・ムジャヴァナゼ(英語版グルジア共産党第一書記自国共産党組織人事一切取り仕切った。その任期1953年から1972年まで21年におよび、フルシチョフ失脚1964年)後もつづいたが、このような長期政権」の背景には、スターリン時代中堅ヴェテラン人材大粛清によってあまりにも多く失われ若手中心になって組織運営しなければならなかったという事情がある。 レオニード・ブレジネフ政権掌握していた1970年代グルジア反体制派グルジア人文化的宗教的遺産対す当局破壊的な扱いにしばしば抗議したブレジネフフルシチョフ政権末期にすでに顕現していた計画経済失敗改善するために各共和国指導部入れ替え図り1972年グルジアには同共和国グリア州出身エドゥアルド・シェワルナゼ送り込んだシェワルナゼブレジネフ賛美するキャンペーン展開し国内的には「民族主義的偏向」に対す批判さかんにおこなって中央からの統制強めようとした。1978年、グルジア・ソヴィエト共和国新憲法草案作成する際、シェワルナゼは「グルジア語国語とする」規定削除したため、グルジア人たちがこれに抗議して4月14日にはトビリシ中心に大規模な1978年グルジアデモ(英語版)が起こったため、削除案は取り消された。この事件はかえってグルジア国内民族主義強め結果となり、シェワルナゼ政権維持するためナショナリストたちとの妥協余儀なくされた。 1985年ソヴィエト連邦ではコンスタンティン・チェルネンコ書記長死去する後継ミハイル・ゴルバチョフ選ばれグラスノスチ情報公開)とペレストロイカ建て直し)が掲げられた。対外面では、グルジア共産党第一書記だったシェワルナゼ外務大臣起用し、「新思考外交展開された。 1989年4月半世紀以上にわたる冷戦終結しゴルバチョフペレストロイカ路線が行詰まり見せると、トビリシでは治安部隊反ソ連を掲げデモ隊解散させようとしてトビリシ事件英語版)(第2次)が起こった。これは4月6日アブハズ人運動抗議するハンガーストライキ端を発した4月9日平和的な大衆集会に、ソ連地上軍アフガニスタンから引き揚げ戦車毒ガスまで用いて、公式発表では19名(グルジア活動家数字では少なくとも50人)の死者を含む犠牲者大量に出した事件で、「4月9日の悲劇」と称される。この事件は、全ソ的に衝撃あたえたが、多分に他地域・他民族対する「見せしめ」的要素をもつものであったゴルバチョフはこのとき報道機関通じて民族運動をおさえる発言をしたことから、グルジア内ではゴルバチョフは「民族主義味方ではない」というイメージつくられグルジア民族運動一挙に加熱させた。 グルジアでは複数政党制の正式承認待たず多く野党発生したそのなかでグルジア共産党民族路線接近して独立論を掲げるに至った1989年9月ソ連共産党中央委員会総会民族問題政治綱領採択したものの、急進主義へと傾いた共和国運動満足させることができず、その年のうちにリトアニアラトビアアゼルバイジャン、そしてグルジア相次いで主権宣言採択したこの年11月グルジア共和国最高会議では1921年ソヴィエト政権樹立不法とする憲法改正がなされ、これは事実上主権宣言となった反面ソ連邦時代末期にはグルジア人グルジア内に居住する少数民族との関係が悪化したグルジア・ソビエト社会主義共和国は、その内部にアブハジア南オセチア、アジャールという3つの自治地域をかかえ、グルジア民族主義アブハジア民族主義オセチア民族主義とのあいだにはそれぞれ対抗関係があった。とくにアブハジア民族主義運動はすでにペレストロイカ初期高まりをみせていたが、これに対抗するかたちでグルジア民族主義運動拡大していった。1987年頃から、グルジア民族主義者たちが独立グルジアへのアブハジア統合強調するようになっていたが、アブハジア側はそれに反発し、一独立国として建国することを模索した1989年7月にはアブハジアグルジア語教育をおこなうため、トビリシ大学分校スフミ設置する計画対し、これに反対するアブハズ人グルジア人襲撃したことによって1989年スフミ暴動英語版)が起こった。これは、アブハズ人グルジア人双方猟銃小銃用いた内戦状態発展したが、約3,000人のソ連内務省治安部隊によって鎮圧された。犠牲者は、死者16人、負傷者137人にのぼった

※この「民主共和国・ソ連邦時代」の解説は、「グルジアの歴史」の解説の一部です。
「民主共和国・ソ連邦時代」を含む「グルジアの歴史」の記事については、「グルジアの歴史」の概要を参照ください。

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