民主共和国・ソ連邦時代
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「グルジアの歴史」の記事における「民主共和国・ソ連邦時代」の解説
「コーカサスの戦い(英語版)」、「ロシア革命」、「グルジア民主共和国」、「グルジア問題」、「八月蜂起(英語版)」、「1956年グルジア暴動(英語版)」、および「ペレストロイカ」も参照 1914年に第一次世界大戦が始まると、ロシア・トルコ国境に位置する南カフカス地域は最前線となった。エンヴェル・パシャ率いるトルコ軍はザカフカス西部の奪還をめざしたが、12月の山岳地帯を軽装備で強攻したサルカムシュの戦い(英語版)で兵力の85パーセントを失う大敗北を喫した。これに対し、ロシア帝国軍はグルジア人やアルメニア人の義勇兵の参加も得て1916年7月にはエルズィンジャンにまで侵入した。 大戦中の1917年、ロシア革命が勃発した。二月革命後、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3つの地域は「カフカス特別委員会(英語版)(オザコム)」の名で知られるペトログラードの一委員会によって支配され、また、グルジアの人びとの長年の希望であったグルジア正教会の独立がようやく認められ、カトリコスが選出された。その年、ボリシェヴィキ(ロシア社会民主党多数派)によって引き起こされた十月革命では、ロマノフ王朝の帝政ロシアが崩壊、立憲民主党(カデット)が主導していた臨時政府が倒された。南カフカスの民族主義者・社会主義者(グルジアのメンシェヴィキ、アルメニアのダシュナク党、アゼルバイジャンのミュサヴァト党)はこれを機にロシアから分離し、トビリシに結集してセイム(Sejm、カフカス委員会議(英語版))という新しい機関を設置した。ロシア人兵士は十月革命によって南カフカスを去り、1918年3月にはヴェヒブ・パシャ(英語版)率いるトルコ軍がこの地に押し寄せた。一方、革命の指導者ウラジーミル・レーニンは人民委員会議(ソヴィエト政権)を組織し、1918年1月、ロシア内戦のなかから生まれた赤衛隊をもとに赤軍(労農赤軍)をつくった。 1918年3月3日、ソヴィエト・ロシア政府はカフカス委員会議にはかることなく、バトゥミ、カルス、アルダガンのトルコへの割譲を含むブレスト=リトフスク条約に調印した。西方からのトルコ軍の進撃にさらされた南カフカスでは、1918年4月9日、セイムによってザカフカース民主連邦共和国の建国が宣言された。共和国の最高機関は、ザカフカス議会であり、グルジアのニコライ・チヘイゼが議長を務め、アルメニア人とアゼルバイジャン人が副議長を務めた。4月13日、トルコは新たな要求を掲げ、翌日グルジアのバトゥミに侵入した。連邦共和国政府は、ブレスト=リトフスク条約を認めなかったが、軍事力をほとんど保有していない状態だったため、5月11日以降、バトゥミにおいてドイツ・トルコ軍司令部と交渉に入った。交渉中、グルジアとアルメニアは親ドイツ、アゼルバイジャンは親トルコなどそれぞれの立場に違いがあり、内部対立が生じたことから、連邦は解消され、5月26日、メンシェヴィキの指導のもとにドイツ軍保護下でグルジア民主共和国が独立、トルコ影響下で27日にアゼルバイジャンが、28日にはアルメニアがそれぞれ単独国家を建国した。グルジア民主共和国を承認したのはソヴィエト・ロシアを含む22カ国にのぼった。英米独伊をはじめとするヨーロッパ諸国やトルコ・日本などはボルシェヴィキ政権および赤軍を許可しないという公約を条件に民主共和国を承認した。6月4日、グルジアはトルコと講和を結び、アジャリアなど一部の領土をトルコに割譲し、7月にはボリシェヴィキの建てたクバーニ=黒海ソビエト共和国と抗争した。グルジアは当初ドイツ帝国軍の保護下に置かれ、カフカスの油田地帯にはフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン(英語版)率いる3000人のドイツ軍が進駐し、同盟国トルコとともにアゼルバイジャンを占領した。 グルジア民主共和国は1918年5月26日の建国当初メンシェヴィキが連邦社会主義者、民族民主主義者と連合して国民会議を組織し、ノエ・ラミシヴィリ(ロシア語版)がその議長職を務めたが、7月24日以降はメンシェヴィキのノエ・ジョルダニアが首相として政府を率いた。ジョルダニア政権の農相ホメリキは1919年1月より包括的土地改革を本格化させ、地主や貴族の土地の一部を接収して農民たちに分与して自作農が創設されたため、農民層から支持された。メンシェヴィキは、1919年2月のグルジア制憲議会選挙では得票数50万5,477票中40万9,766票、議席数130議席中109議席という圧倒的な支持を受けて政権は安定し、土地改革のほか司法改革、工業の国有化などの政策を進めた。対ロシア防衛の面では、アントーン・デニーキン率いる白軍が優勢だった時期にはアゼルバイジャンと協力してこれを牽制した。 アゼルバイジャンのミュサヴァト政権はバクーの石油利権をめぐってドイツがトルコに圧力をかけたのでトルコへの併合は免れたが、中央同盟国が敗北しトルコ軍が撤退すると替わってイギリス軍が1918年11月に本格的に進駐してきた。内戦における白軍有利の状況のなかでイギリスは当初ミュサバト政権を承認しなかったが、反共防波堤にする方針に転じ、そのなかで自由選挙も実施されたが、やがてロシア革命干渉戦争から手を引くこととして1919年8月バクーより撤退した。その後、内戦で優勢となった赤軍(のちのソ連軍)がバクーを占領、1920年4月にソヴィエト政権が成立した。 第一次大戦中、オスマン帝国領内でアルメニア人虐殺を経験したアルメニアは、1918年5月の決戦でトルコを撃退した地域をもとにダシュナク政権が独立し、連邦解消後はエレヴァンを首都として建国したものの、トルコ領内からの大量難民にともなう住宅問題・労働問題・感染症問題の発生、オスマン帝国内のアルメニア人有力者からの干渉、さらにアゼルバイジャンやグルジアとの間には国境地帯の帰属をめぐる紛争があって国家運営は難渋をきわめた。イギリス軍の援助でカルス地方を奪還したこともあったが、1920年秋のキャーズム・カラベキル率いる新生トルコ軍との戦争に敗れ、11月には赤軍も侵入してきたため、ダシュナク党は赤軍受け入れを認め、1920年12月にソヴィエト政権が成立した。 グルジアでは、1918年7月末から12月まで、南部のボルチャロ郡(マルネウリ)やロリ地方をめぐってアルメニアとのあいだで戦争状態になった(グルジア・アルメニア戦争(英語版))。グルジアからは国境警備隊のほかドイツ軍もこれに加わった。当初はアルメニアが優勢だったが、のちにグルジアが反撃して膠着状態となった。1918年末のドイツ・オーストリア崩壊後、グルジアはイギリスの占領下に入った。イギリスは1919年1月、グルジア・アルメニアの和平を仲介し、グルジア西部に傀儡国家バトゥミ共和国の建国を宣言した。しかし、グルジアの人びとは、イギリスの支持を受けたデニーキン率いるロシア白軍を、ボリシェヴィキ以上に危険な存在だと考え、白軍の帝政秩序の回復を目的とする活動に対しては協力を拒否した。これにより、バトゥミ共和国は1919年のうちに崩壊、翌1920年7月には英軍はバトゥミから全面的に撤退した。グルジアはロシア支配に入ったアゼルバイジャンとも抗争した。 1919年10月から11月にかけてはグルジア各地で武装蜂起が相次ぎ、これは鎮圧されたもののグルジアは国内外の情勢の悪化にともないロシアとの関係を修復する必要にせまられた。1920年5月7日、ロシア・グルジア間でモスクワ条約(英語版)が結ばれ、グルジアではボリシェヴィキの合法化が義務付けられ、それにもとづいてセルゲイ・キーロフを長とするソヴィエト使節団がトビリシに派遣された。キーロフらは民主共和国を崩壊させてこの地にボリシェヴィキ革命を実現すべく行動した。グルジアではグルジア共産党(英語版)が発足して、メンシェヴィキ政権の打倒を準備した。1920年末の段階ではアルメニアにもソヴィエト共和国が成立していたので、グルジアは三方をソヴィエト共和国にかこまれる状態となっていた。 1921年1月、グルジア民主共和国は旧連合国の多くから独立国としては認められていたものの、前年に発足した国際連盟への加盟は拒否された。すかさず、グルジア人ボリシェヴィキのヨシフ・スターリンとグリゴリー・オルジョニキーゼは赤軍を指揮して軍事行動を起こした(赤軍のグルジア侵攻(英語版))。同年2月のロリでの民衆蜂起を契機に、2月21日、赤軍第11軍が首都トビリシを侵攻、市街戦の結果ここを占拠して、2月25日、グルジア社会主義ソビエト共和国の発足を宣言した。民主共和国政府はバトゥミに逃亡したものの3月17日に国軍が降伏してバトゥミが陥落、亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキはフランスのパリにおいてジョルダニアを首班とするジョルジア民主共和国亡命政府(英語版)として活動をつづけ、新しく成立したグルジア・ソビエト共和国はグルジア共産党第一書記のラヴレンチー・ベリヤによって指導された。 十月革命直後のロシアでは、フィンランドやポーランドなど旧帝国に併合されてまもない地域はいち早く独立を果たしたが、ウクライナで独立の動きが強まってロシア内戦が始まると、モスクワのロシア共産党最高指導部は、完全に独立した主権国家である各共和国が互いに対等な関係で条約をむすびあうことで統一行動を演出するという方針を採用した。このような方針の下、1922年12月13日、グルジアのソビエト共和国はアルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に編入されて独立を失った。そしてそれと同時に、ロシア、ウクライナ、白ロシアおよびザカフカースの4ソビエト共和国の対等な連邦として、ソヴィエト連邦が正式に発足した。ソヴィエト連邦は結局旧ロシア帝国の版図をほぼそのまま引き継いだかたちとなり、各共和国は主権対等の建前をとりながら、実際は各国の共産党はロシア共産党中央委員会の単なる地方委員会にすぎなかった。なお、1922年4月3日、スターリンはレーニンの推挙でソビエト連邦共産党書記長に任命されている。 モスクワによる急速な中央集権化に対し、最も頑強に抵抗したのはグルジアであった。赤軍によるグルジア侵攻直後に始まり、1922年後半にピークを迎えたボリシェヴィキ内の論争が、いわゆる「グルジア問題」である。この政治論争の主要な論点となったのは、グルジアなど3カ国でザカフカース連邦を構成するというモスクワの決定の是非であり、グルジア単独でソ連邦の一員になる立場を望んだフィリップ・マハラゼやブドゥ・ムディヴァニらグルジアのボリシェヴィキ指導者は、この決定に強硬に反対した。モスクワからの自治を維持しようとするグルジア側の願望や、ボリシェヴィキが画策していた国境政策の解釈にグルジア特有の解釈がこれにからんで論争は複雑な様相を呈した。結局論争はスターリンとその盟友オルジョニキーゼの勝利に帰し、マハラゼやムディヴァニは失脚した。グルジアではソヴィエト化の過程、ソ連邦結成時における中央との軋轢がとくに大きかったのである。 スターリンとオルジョニキーゼの立場は「民族主義の害毒」を撲滅し、ソヴィエト体制の枠のなかで国としての結束を固めることを目指したものであり、すべてのソヴィエト国家がロシアに併合されて従属的な立場に陥るよりはむしろロシアと同等の地位にあるべきであるというものであったが、これを病床で聞いたレーニンは官僚制的中央集権にもとづいた大国主義的な抑圧の形態であるとして厳しく批判し、スターリンと晩年のレーニンとの不和の原因のひとつとなった。また、3共和国の権限や機能の分担が曖昧なまま併合されたことは、のちに領土問題・国境問題が浮かび上がってくる元凶の一つとなった。 南カフカスにおけるソヴィエト体制の成立はまた、従来、バクーを除けばボリシェヴィキの勢力の弱い地域であったために、その軋轢も大きかった。旧政権政党の関係者は監視され、幹部は多く追放された。1923年以降、グルジアではメンシェヴィキは解党させられ、旧党員はボリシェヴィキに吸収されるか、国外に亡命するかの選択を余技なくされた。農村に対してはレーニンが中心になって進めたネップ(新経済政策)によって経済の自由化をある程度認めたため、当初は存在した農民の不満もしだいに和らいでいった。 トロツキー派敗北後の1924年には、農村を襲った部分的凶作、穀物調達の不振、穀物投機傾向の拡大と価格の高騰、都市民の不満増大など「1924年秋の危機」と呼ばれる状況が現出した。これは、ネップの行き詰まりを示す事象ともいえたが、カクツァ・チョロカシヴィリ(英語版)らの指導によって大規模な反ソ農民暴動(八月蜂起(英語版))がグルジアで起こったことはロシア共産党中央を震撼させた。この暴動は赤軍によって鎮圧されたが、スターリンはグルジアの暴動について「もしわれわれが農民に対する態度をそのものを根本的に改めないならば、・・・グルジアで発生したことは、ロシア全土でくりかえしおこるであろう」と論じた。 ソ連では、レーニン死去後、スターリンが権力を奪取し、1928年にはネップに対して否定的評価を下し、1929年には第一次五カ年計画を開始して農民から作物を強制的に徴収、これを海外に輸出することで資金を調達し、それをもとに急速な工業化をはかろうとした。コルホーズを中心とする集団化によって農業生産の効率を高め、余剰人員を工業労働力にまわそうとしたのである。その結果、都市住民には食糧が行き渡るようになり、市民生活は厳しく統制された反面、重化学工業化と軍事化によってソ連は再びかつて大国ロシアと同じ道を歩むことが可能となった。スターリン自身はグルジア人であったが、権力を容赦なくふるった独裁者という点では、雷帝イヴァン4世やピョートル1世などと同様、むしろ典型的なロシアの専制君主の系譜を引く人物とみなされることがある。 一方農村では、ようやく安定した農家経営と自らの土地を得た農民たちが集団化と作物強制徴収で生活が脅かされることに反発し、カフカス地方ではウクライナと並んで激しい抵抗運動が起こった。農業生産は激減して飢饉が発生する一方、地方の共産党組織そのものも混乱した。ソヴィエト政権は農業集団化をおこなうにあたって次第に警察力に訴えるようになり、抵抗者には「クラーク(富農)」とレッテルを貼って財産を没収して居住地から追放した。 1930年代、スターリンは「一国社会主義論」を唱えて政敵を追い落とし、スターリン自身を頂点とする党組織の引き締めによって国家の政策を貫徹させようとして1936年夏以降、一切の党内抵抗勢力を粛清した。グルジア人ラヴレンチー・ベリヤはスターリンの片腕として内務人民委員部(NKVD)の長官を務め、その中心人物となった。粛清に際してはNKVDにノルマを設け、国民には密告を奨励したため、無制限なテロリズムとなった。こうして、1936年から1938年にかけての大粛清の時代には、草創期のボルシェヴィキ指導者の多くが「トロツキスト」の烙印を押されて葬り去られ、グルジアでも「ムディヴァニ・オクジョア裁判」などがなされて土着の活動家の多くが「民族主義的偏向」の名のもとに処刑された。1936年12月5日、ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国は廃止され、単独のグルジア・ソビエト社会主義共和国に昇格した。国土とその住民はスターリン憲法のもとで、ソヴィエト連邦からいつでも分離しうる権利を含む数々の権利があたえられた。 スターリンは独ソ戦と第二次世界大戦を通じて絶対的な権力をふるい、そのなかで民族強制移住(英語版)がなされ、多くの民族が犠牲となった。独ソ戦末期の1943年から1944年にかけての北カフカス諸民族に対する過酷な強制移住がおこなわれ、とくにイングーシ人とチェチェン人のそれは大規模であり、のちに帰郷が許されたものの現在もなお大きな爪痕をのこしている。これに対し、「スターリン批判」ののちも故郷への帰還が許されなかったのがグルジア南西部のメスヘティ(英語版)地方に住んでいたムスリム住民(メスフ人)である。メスフ人(メスヘティア・トルコ人)はテュルク系民族で、敵国トルコとの連携を疑われて中央アジアに強制移住させられた。1968年には帰郷の権利が認められたものの歴代のグルジア当局はそれを許そうとせず、現在のジョージア政府も彼らの帰郷を認めていない。一方、二月革命後もグルジア正教会を認めてこなかったロシア正教会が1943年になり、ようやくその独立を認めた。これは総力戦を戦うにあたって、スターリンがグルジア民族主義を取り込む必要を感じたことにより、下した裁定の結果であった。 第二次大戦後の共産党内部ではスターリンの側近にベリヤをはじめとしてグルジア人も多く、ベリヤはスターリン亡き後の有力な後継者のひとりとみなされていた。しかし、晩年のスターリンはベリヤの息のかかったグルジア人側近を警戒して彼らの多くを更迭し、さらに1951年以降はベリヤ本人を失脚させる機会さえうかがっていた。1953年に独裁者スターリンが没すると、ベリヤは「個人崇拝」を批判し、党と国家の分離を主張したがニキータ・フルシチョフらとの政争に敗れ、この年の末、死刑に処せられた。 グルジアはソ連を構成していた諸共和国のなかでも反中央意識がもともと強く、1950年代以降はグルジア人の権利を擁護する民衆運動がたびたび起こった。そのなかでもよく知られているのが、1956年5月9日に起こった1956年グルジア暴動(英語版)(第1次トビリシ事件)である。これは、第20回ソヴィエト共産党大会でのいわゆる「スターリン批判」をきっかけにして起こった民衆暴動であり、武力弾圧によって数百名の死者が出たといわれる。 フルシチョフ時代、戦後の復興も一段落し、スターリン時代の恐怖政治が終わったことで人びとも生活を楽しむ余裕が生まれたが、フルシチョフ政権は一方では「社会主義的競争」の名のもと民族語学校を次々に閉鎖したため、グルジアの都市部ではロシア語学校が大半を占め、「文化のロシア化」が進んだ。その一方、政治の分野では各地で「脱モスクワ化」が進み、グルジアではヴァシーリ・ムジャヴァナゼ(英語版)グルジア共産党第一書記が自国の共産党組織の人事一切を取り仕切った。その任期は1953年から1972年まで21年におよび、フルシチョフ失脚(1964年)後もつづいたが、このような「長期政権」の背景には、スターリン時代に中堅ヴェテランの人材が大粛清によってあまりにも多く失われ、若手が中心になって組織を運営しなければならなかったという事情がある。 レオニード・ブレジネフが政権を掌握していた1970年代、グルジアの反体制派はグルジア人の文化的・宗教的遺産に対する当局の破壊的な扱いにしばしば抗議した。ブレジネフはフルシチョフ政権末期にすでに顕現していた計画経済の失敗を改善するために各共和国の指導部の入れ替えを図り、1972年、グルジアには同共和国グリア州出身のエドゥアルド・シェワルナゼを送り込んだ。シェワルナゼはブレジネフを賛美するキャンペーンを展開し、国内的には「民族主義的偏向」に対する批判をさかんにおこなって中央からの統制を強めようとした。1978年、グルジア・ソヴィエト共和国新憲法草案を作成する際、シェワルナゼは「グルジア語を国語とする」規定を削除したため、グルジア人たちがこれに抗議して4月14日にはトビリシを中心に大規模な1978年グルジアデモ(英語版)が起こったため、削除案は取り消された。この事件はかえってグルジア国内の民族主義を強める結果となり、シェワルナゼは政権を維持するためナショナリストたちとの妥協を余儀なくされた。 1985年、ソヴィエト連邦ではコンスタンティン・チェルネンコ書記長が死去すると後継にミハイル・ゴルバチョフが選ばれ、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(建て直し)が掲げられた。対外面では、グルジア共産党第一書記だったシェワルナゼを外務大臣に起用し、「新思考」外交が展開された。 1989年4月、半世紀以上にわたる冷戦が終結し、ゴルバチョフのペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、トビリシでは治安部隊が反ソ連を掲げるデモ隊を解散させようとしてトビリシ事件(英語版)(第2次)が起こった。これは4月6日にアブハズ人の運動に抗議するハンガーストライキに端を発した4月9日の平和的な大衆集会に、ソ連地上軍がアフガニスタンから引き揚げた戦車や毒ガスまで用いて、公式発表では19名(グルジア活動家の数字では少なくとも50人)の死者を含む犠牲者を大量に出した事件で、「4月9日の悲劇」と称される。この事件は、全ソ的に衝撃をあたえたが、多分に他地域・他民族に対する「見せしめ」的要素をもつものであった。ゴルバチョフはこのとき報道機関を通じて民族運動をおさえる発言をしたことから、グルジア内ではゴルバチョフは「民族主義の味方ではない」というイメージがつくられ、グルジアの民族運動を一挙に加熱させた。 グルジアでは複数政党制の正式承認を待たずに多くの野党が発生した。そのなかでグルジア共産党も民族路線に接近して独立論を掲げるに至った。1989年9月、ソ連の共産党中央委員会総会が民族問題政治綱領を採択したものの、急進主義へと傾いた共和国の運動を満足させることができず、その年のうちにリトアニア、ラトビア、アゼルバイジャン、そしてグルジアも相次いで主権宣言を採択した。この年の11月、グルジア共和国最高会議では1921年のソヴィエト政権樹立を不法とする憲法改正がなされ、これは事実上の主権宣言となった。 反面、ソ連邦時代の末期にはグルジア人とグルジア内に居住する少数民族との関係が悪化した。グルジア・ソビエト社会主義共和国は、その内部にアブハジア、南オセチア、アジャールという3つの自治地域をかかえ、グルジア民族主義とアブハジア民族主義、オセチア民族主義とのあいだにはそれぞれ対抗関係があった。とくにアブハジアの民族主義運動はすでにペレストロイカ初期に高まりをみせていたが、これに対抗するかたちでグルジア民族主義運動も拡大していった。1987年頃から、グルジアの民族主義者たちが独立グルジアへのアブハジアの統合を強調するようになっていたが、アブハジア側はそれに反発し、一独立国として建国することを模索した。1989年7月にはアブハジアでグルジア語の教育をおこなうため、トビリシ大学の分校をスフミに設置する計画に対し、これに反対するアブハズ人がグルジア人を襲撃したことによって1989年スフミ暴動(英語版)が起こった。これは、アブハズ人、グルジア人双方が猟銃・小銃を用いた内戦状態に発展したが、約3,000人のソ連内務省治安部隊によって鎮圧された。犠牲者は、死者16人、負傷者137人にのぼった。
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