民主党離党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:52 UTC 版)
2004年、民主党を離党し第20回参院選岩手県選挙区で自由民主党系無所属の新人候補者の支援を表明した。 高橋は秘書時代の人脈を生かして盛岡市内の大手ゼネコン社員を動員し、一晩で候補者の選挙ポスターを県内全域に張り巡らせるなど相変わらずの「選挙巧者」振りを見せ付けたものの、民主党公認候補の主濱了に大差で敗北した。 2006年3月19日に行われた奥州市長選に出馬、25,078票(30%)獲得するも落選したが、本命視されていた旧水沢市長の高橋光夫が落選し、旧江刺市長の相原正明が当選した背景には高橋の出馬による票割れが一因にあった。 小沢との決別の真相について周囲には「墓まで持っていく」と述べている。現在のところ真相は不明であるが、一説には硬直化した小沢後援会に危機感を抱き、後援会運営の中心であった自分が離反することで組織の活性化を促したと言われ、「平成の石川数正」と一部で囁かれた。後に、「小沢一郎の敵か下かに終始する政治手法で自由な議論が封じられたこと」に不満をもっていたこと、小沢一郎の影響力が大きかった地元テレビ局の岩手めんこいテレビにおいて、会長人事や本社移転で小沢と対立があったことが判明している。 衆議院議員遠藤宣彦は政策秘書、江別市議会議員角田一は奥州市長選まで行動をともにした最後の秘書。
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