昭和20年 (きのととり 乙酉)
年(年号) | |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック |
1945年
(昭和20 年 から転送)
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1945年(1945 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。昭和20年。
- 1 1945年とは
- 2 1945年の概要
昭和20年(1945年)
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「京城日本人世話会」の記事における「昭和20年(1945年)」の解説
8月25日 - 京城内地人世話会発足。 9月2日 - 「会報」を発行。 9月15日 - 「京城日本人世話会」と改称。 9月28日 - 法律相談部を設置し職員を置く。 10月1日 - 罹災民救済病院を設置。 10月20日 - 倭奴掃蕩本部なる団体から「残留日本人に告ぐ」というビラがばら撒かれる。 10月23日 - 本格的な引揚が始まる。 10月25日 - アメリカ軍政庁、倭奴掃蕩本部に対し不穏ビラを撒いたことに警告を発する。 12月1日 - 旧朝鮮総督府の京城案内所を吸収。 12月11日 - 「みなし児収容所」を開設。 12月30日 - 38度線上にある延安・青丹に派遣隊を送る。
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昭和20年(1945年)
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「第一四一海軍航空隊」の記事における「昭和20年(1945年)」の解説
1月8日:要員撤退のため、一航艦附属に転籍。翌日より台湾への撤退を開始。
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昭和20年
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1945年(昭和20年)1月初旬、連合軍はリンガエン湾に進出し、上陸作戦を開始した(ルソン島の戦い)。南西方面艦隊(司令長官:大川内傳七中将)は第三十一戦隊所属艦を含めた第二遊撃部隊に水上突入作戦を命じたが、第52駆逐隊(檜、樅)が空襲と水上艦艇による攻撃で撃沈された。1月8日、大川内長官は第三十一戦隊残余(梅、樫、杉)の進出を命じたが翌日には取り消し、駆逐隊は第二遊撃部隊から除かれた。第三十一戦隊司令部は台湾高雄市に移転した。各艦は、南西方面から内地や台湾への撤退を開始する。香港で修理中の駆逐艦「梅」は1月20日に高雄港へ到着し、姉妹艦(樫、杉)と合流した。ルソン島からの航空兵力撤収作戦で、1月31日に「梅」が空襲により沈没、駆逐艦「楓」も損傷した。 2月5日、第五艦隊は戦時編制からのぞかれて解隊され、第二遊撃部隊の残存部隊は新編の第十方面艦隊(司令長官:福留繁中将)に編入された。ただし、第三十一戦隊は戦時編制において連合艦隊付属に戻された(高雄警備府部隊付属)。そして、同年3月15日には日本列島内海西部所在の第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将)に編入された。ただし、スラバヤで修理中の「五十鈴」は損傷のため3月25日付で第十方面艦隊に編入されて第三十一戦隊から除かれ、駆逐艦としては大柄な秋月型駆逐艦の「花月」が第三十一戦隊に与えられた。第三十一戦隊旗艦は駆逐艦「竹」を経由して「花月」となった。 4月初旬の天一号作戦における第三十一戦隊は、豊後水道を通過する海上特攻隊を援護するため、呉鎮守府麾下の呉防備戦隊や応援部隊と共に対潜掃討を実施する(坊ノ岬沖海戦)。4月6日午後3時20分、海上特攻隊(大和、二水戦、第三十一戦隊)は徳山沖を出撃した。午後4時20分、第三十一戦隊(花月、榧、槇)は解列し、以後は待機部隊として第11水雷戦隊司令官の指揮下に入った。 坊ノ岬沖海戦で主力艦艇を失った第二艦隊が4月20日付で解隊されると、第三十一戦隊は再び連合艦隊直属となった。同じく第二艦隊に所属していた第二水雷戦隊も解隊されて、残存駆逐艦(第7駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊)は第三十一戦隊に編入された 本土決戦準備が進められる中、同年5月20日に第三十一戦隊(第17駆逐隊欠)と軽巡「北上」(人間魚雷回天母艦)を基幹として海上挺進部隊の軍隊区分が設置され、本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務に充てられることになった。しかし、燃料不足で行動は極めて制限されていた。同年7月15日には最後の水雷戦隊である第十一水雷戦隊(新造駆逐艦の練習部隊)が解隊されたため、第三十一戦隊は日本海軍で唯一、駆逐艦以上の艦艇多数を擁する水上戦部隊として終戦の日を迎えた。
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昭和20年
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1945年(昭和20年)はじめもしくは1944年末ごろ、艦橋左右に機銃台を増設し25mm3連装機銃2基を増備した(合計7基)。また前マスト上の21号電探を撤去し、跡に22号電探1基・13号電探1基を設置(13号電探は合計2基)。 1945年(昭和20年)2月下旬、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(海兵45期)及び指揮下二水戦各艦は北号作戦で日本に帰投。2月20日附で人事異動がおこなわれ、涼月水雷長は澤岡信男大尉から岩越朴雄大尉に交代。涼月機関長も桑原堅志少佐から原田周三大尉(当時、夕雲型駆逐艦朝霜機関長)に交代する。 2月21日、41駆(涼月、冬月)は正式に、第二水雷戦隊司令官の指揮下に入った。 3月1日、第41駆逐隊司令として夕雲型駆逐艦風雲初代艦長等を歴任した吉田正義大佐(海兵50期)が着任する。3月10日附で杉谷大佐(涼月艦長)は第52駆逐隊司令へ転任、涼月新艦長として平山敏夫中佐(海兵55期。平山は、夕雲型駆逐艦早霜沈没時の艦長)が着任した。 呉軍港空襲 3月19日の呉軍港空襲では、広島湾にて戦艦大和(艦長有賀幸作大佐)の護衛についた。第二艦隊に大きな被害はなかった。 3月29日、海上特攻隊(指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官/海軍中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した。敵水上艦隊との戦闘が行われる場合、第41駆逐隊(冬月、涼月)は第一遊撃部隊(1YB)第一部隊(1NB)となり、大和の直衛艦として行動する予定だった。 3月26日、倉橋友二郎少佐(涼月砲術長)を第36号海防艦長(丁型海防艦)に、平田茂男大尉(当時、雲龍型航空母艦笠置艤装員)を涼月砲術長とする人事が発令される。倉橋によれば、平山(涼月艦長)や第二艦隊司令部の意向により、しばらく様子を見ることになったという。また沖縄への出撃に際し、生還は見込めないことから涼月主計長を退艦させている。 坊ノ岬沖海戦 詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 4月6日15時、海上特攻隊(第一遊撃部隊)は、第二艦隊長官伊藤整一中将指揮下、第一航空戦隊(大和)、第二水雷戦隊(軽巡〈矢矧〉、第17駆逐隊〈磯風、雪風、浜風〉、第21駆逐隊〈朝霜、霞、初霜〉、第41駆逐隊〈冬月、涼月〉)という戦力で徳山を出撃(対潜警戒の第三十一戦隊は午後4時以降分離、帰投)。少なくとも3隻(磯風、涼月、冬月)は煙突に菊水マークを描いていたという。19時50分からの第一警戒航行序列では、涼月は大和(旗艦)の右側を占位した。 翌4月7日6時に第三警戒航行序列に切り替わってからは、大和左後方に位置した。同日午前中、夕雲型駆逐艦朝霜(第21駆逐隊司令小滝久雄大佐座乗)が機関故障により落伍。12時30分前後にアメリカ軍機に襲撃されて沈没した。涼月からは朝霜のマストだけが見えていたという。 12時32分、アメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)からの艦載機の第一波がやってくる。度重なる転舵で輪形陣が崩れる中、涼月は大和左舷後方に位置して掩護を続けた。第一波攻撃により、矢矧(第二水雷戦隊旗艦)は被雷して航行不能、浜風(第17駆逐隊)は沈没した。 第一波の空襲が終わりに近づいてきた13時8分(涼月艦橋の電気時計の停止時間。実際の被弾時間は不明)、空母エセックス (USS Essex, CV-9) のSB2C「ヘルダイバー」4機から投じられた150キロ爆弾のうち一発が艦橋前に命中して船首楼甲板、上甲板、右舷側外板に大破口が生じ、他の二発が後方への至近弾となった。命中弾により火災が発生し、海図も方面違いの5枚を残して全て焼失、通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した。一番砲塔、二番砲塔も大破し、弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した。艦内電源が断たれたため消火活動を開始するまでに時間がかかり、二番砲塔の誘爆を招いてしまったという。冬月は13時15分に『涼月火災中ナルヲ認ム』と記録している。この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった。操舵装置の破壊と速力指示機の故障により涼月は右旋回を続けていたが、このとき、大和が左舷に回頭したため、2隻は50m程まで接近した。涼月側は後進をかけ、衝突は直前で回避されている。涼月からは大和に舵故障の旗流信号(D旗)が上がっているのが見られた。 13時30分頃よりアメリカ軍機動部隊艦載機の第二波攻撃がはじまった。アメリカ軍攻撃隊の報告によれば、当時の第二艦隊は健在の大和直衛群(大和、冬月、初霜、雪風、霞)、航行不能の矢矧(第二水雷戦隊旗艦)および同艦救援の磯風(第17駆逐隊)に分離し、その間に軽巡洋艦1隻が航行していた。涼月を軽巡洋艦と誤認したものとみられる。この攻撃で大和と矢矧が沈没。霞が航行不能となり、損傷を受けた磯風は自力で北方へむかった。 作戦中止後 涼月戦闘続行不能と判断した涼月艦長の平山は、大和沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。涼月は被弾により艦首が沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十cmという状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇(後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた。9ノットの速力を安定して発揮。 この時、空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) のTBF「アヴェンジャー」が魚雷を放ってきたものの、命中しなかった。海図焼失、ジャイロコンパス破損の状況ながらも涼月は日本本土を目指した。その際、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦』に手旗信号で方向を教えてもらい、北東へ針路をとった……としているが、酒匂(初霜艦長)の回想では初霜(第21駆逐隊)が涼月の後方について針路を指示した」となっている。14時55分、涼月は「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという。夜になって実際に雷撃されたが、艦尾前方を通過していったという回想も残されている。15時15分、初霜に対して突入作戦が続行中かどうか信号で交信したが、「不明」との返事をもらう。次いで15時25分には冬月に対して二軸運転で航行可能な旨を報じた。17時30分、涼月は洋上に停止して応急修理を行う磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と遭遇した。 同時刻、矢矧(艦長原為一大佐)沈没後、初霜に救助されていた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、遊撃部隊の指揮を吉田正義大佐(第41駆逐隊司令、冬月座乗)から継承した。初霜(二水戦司令部)は磯風の曳航準備を進める陽炎型駆逐艦雪風(第17駆逐隊)に対し、磯風処分を下令した。第17駆逐隊および雪風の磯風曳航の意見具申を二水戦司令部(初霜)は却下し、磯風は雪風に処分された。 また二水戦司令部(初霜)は冬月に対しても『涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』と命ずるが、同時に『状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ』とも通達している。 日没後、涼月を護衛もしくは処分するため冬月が捜索を開始したが、見つけることは出来ず、すでに先行していると推定された。 4月8日朝、冬月は各隊に単独帰投中の涼月の掩護を要請した。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される。 昼前には1隻の漁船(漁船改造の特設掃海艇とも、駆潜艇とも)から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおくられ、涼月乗組員一同を苦笑させた。 14時30分、ついに佐世保に帰投する。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。 しかし佐世保入港時に後進から前進に切り換えたことで浸水が進行。係留中にも浸水が止まらなかったので大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった。 大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された。また涼月砲術長によれば、3名のうち江藤虎蔵(二等主計兵曹)は短刀で自決していたという。本海戦において涼月は戦死者57名、負傷者34名(35名とも)を出した。
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昭和20年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 01:16 UTC 版)
1945年(昭和20年)1月初頭、連合軍は大船団をルソン島リンガエン湾に派遣し、6日より同湾への艦砲射撃を開始した。1月8日、日本海軍は第13航空艦隊を南西方面艦隊よりのぞき(大川内長官は兼務職をとかれ、南西方面艦隊長官専任)、第一南遣艦隊司令長官田結穣中将の兼任とした。同日附で第二航空艦隊も解隊された。 マニラの海軍守備隊は陸軍の方針に従わず、2月初頭以降のマニラ市街戦により壊滅、第31特別根拠地隊司令官岩淵三次少将(マニラ海軍防衛部隊指揮官)は2月下旬に戦死した。 2月5日、遊兵化した東南アジア方面の部隊を再編するため、日本海軍は第五艦隊(司令長官志摩清英中将)を解隊する。第五艦隊残存戦力を基幹として、第十方面艦隊(司令長官福留繁中将)が新編された。第一南遣艦隊・第二南遣艦隊・第四南遣艦隊・第十三航空艦隊は第十方面艦隊に移管した。3月10日には第四南遣艦隊が解隊された。 1945年(昭和20年)5月8日、第一航空艦隊は連合艦隊に復帰した(6月15日附で解隊)。5月29日に小沢治三郎中将が連合艦隊司令長官に就任した。小沢中将と大川内中将(南西方面艦隊司令長官)は海軍兵学校同期生だったが、大川内の方が先任順位が上であった。先任者を後任者の指揮下に入れないという日本海軍の慣例のため、南西方面艦隊は小沢の指揮系統からはずされて、大本営直轄部隊に切り替えられた。最終的に南西方面艦隊が指揮したのは、第三南遣艦隊のみになっている。終戦時にはセブやミンダナオなどの主要拠点を失い、壊滅状態に陥っていた。
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