昭和20年の戦い
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「初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「昭和20年の戦い」の解説
1945年(昭和20年)1月4日、木村昌福少将の後任として古村啓蔵少将が着任、第二水雷戦隊司令官となる。1月24日、ヒ87船団を護衛してシンガポール方面へ進出中の時雨が沈没した。初霜はシンガポールに移動後、北号作戦に参加する。駆逐艦3隻(霞、初霜、朝霜)は航空戦艦2隻(伊勢、日向)、軽巡大淀を護衛して内地に帰投した。2月10日、夕雲型駆逐艦朝霜は第21駆逐隊に編入された。3月10日、「時雨」の除籍と共に満潮型駆逐艦霞が第21駆逐隊に編入された。第21駆逐隊は朝霜、霞、初霜という編制で坊ノ岬沖海戦に参加した。 詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 4月6日、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:旗艦矢矧)は戦艦大和(第二艦隊司令長官伊藤整一中将座乗)とともに沖縄水上特攻作戦に参加した。4月7日の戦闘で、各艦は大和を中心とした輪形陣を形成、初霜の配置は大和の左舷斜め後方である。激しい空襲により第21駆逐隊の司令駆逐艦朝霜が沈没し駆逐隊司令小滝久雄大佐以下総員戦死、僚艦霞が航行不能となった(乗員を冬月に収容後、自沈処理)。第17駆逐隊からは浜風が轟沈した。空襲の最中、通信機能を喪失した大和は初霜に通信代行を依頼した。初霜に乗船していた士官は「敵の攻撃は大和に集中し、特に大和に近接した初霜は殆ど攻撃らしい攻撃を受けなかった」、「7万トンの巨艦の横に並んだ2、3千トンの駆逐艦など問題にもならなかったのだろう」と、通信代行として大和に隣接した事が幸いしたと述べている。魚雷が1本艦底を通過する幸運にも恵まれた。午後2時20分前後に大和は沈没し、第41駆逐隊司令吉田正義大佐が冬月から残存艦の指揮をとった。初霜の損害は軽傷者3名のみで、他に被害はなかった。各艦は沈没艦の生存者救助を開始。初霜は午後3時前後から浜風生存者救助に従事、256名を救助した。続いて冬月、雪風、初霜は沈没した二水戦旗艦矢矧の生存者の救助を開始、初霜は矢矧乗組員57名、冬月は同276名、雪風は同156名を救助した。 大和の高角砲に撃墜されたアメリカ海軍第三十雷撃中隊第二分隊副隊長のディラニー中尉が部下2名と共にパラシュートで機から脱出し、海面への着水に成功した。ディラニー中尉は救命筏(アメリカ軍パイロットの救命チョッキは空気により膨らみ筏となる構造だった)にしがみ付き約二時間漂流した後、味方のPBM(マーチン飛行艇)2機に発見されたが、この時近くの海上に冬月と初霜がいた。2機の内、スイムス大尉が機長を務めるPBMが対空砲火からディラニー中尉を逸らすため危険を犯し日本艦隊の方向に飛んで行き、もう1機のヤング大尉機は水上滑走しながら着水してディラニー中尉の救助に当たった所、これを見た日本の駆逐艦が12.7センチ主砲による砲撃を加えた。第二水雷戦隊戦時日誌によれば冬月が発砲したとあり、大和生存者も冬月がPBMへ発砲する場面を目撃した。一方の初霜では発砲したと言う将兵らの証言が残っており、酒匂艦長は「やってるな、と救助活動に感心したが、シャクなので砲術長に追い払えと言ってぶっ放した」、「あれ(飛行艇)を追っ払えと命じ、落とせとは一切言わなかった」と述べ、艦長の命令を受け発砲した福井砲術長は、無抵抗な日本兵の生存者には機銃掃射を浴びせる反面、自国のパイロットを救助するアメリカ軍の行動に腹を立てていたと述べている。同じく初霜の松井中尉も「射程距離外であった事はわかっていたが威嚇のため2、3発撃った」と証言している。アメリカ側では、ディラニー中尉の証言に「(駆逐艦は)射撃しながら接近してきた」とあり、ヤング大尉機の搭乗員の証言に「日本の駆逐艦の主砲弾は飛行艇に向かって泳ぐディラニー中尉の200ヤード以内に落ちていた」とある。2機のマーティン飛行艇はディラニー中尉を急ぎ収容すると、彼の部下2名を発見できないまま救助作業を打ち切って発進し、離脱際に航行不能状態の涼月に対して機銃掃射を浴びせた。 第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は初霜に救助されると、そのまま本艦を第二水雷戦隊旗艦とする。このため、遊撃部隊の指揮権は冬月から初霜へ移った。古村司令官が初霜に将旗を掲げた頃、第17駆逐隊司令艦磯風は航行不能となっていた。12時32分の空襲開始から約10分後に第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧は被雷、13時前には航行不能となった。このため磯風は古村司令官と第二水雷戦隊司令部を移乗させるため幾度も矢矧に接近を試みており、そのため矢矧の巻き添えとなって被弾したのである。15時35分に磯風は初霜に対し速力12ノットを報告、帰路誘導を依頼していた。17駆僚艦の雪風が磯風の救援におもむき合流した。その後、古村司令官(初霜座乗)は磯風の曳航許可を求める第17駆逐隊司令部に対し、磯風の放棄と自沈を命令する。翌日の再空襲や潜水艦の襲撃により、更に被害が増えることを避ける為とされる。22時40分、初霜からの下令に従い雪風は姉妹艦の磯風を砲撃で処分した。これにより陽炎型駆逐艦5隻(雪風、磯風、浜風、浦風、谷風)が所属した第17駆逐隊は雪風1隻となった。また古村司令官は初霜より冬月に対し涼月の護衛を命じるが、同時に『状況によっては涼月を処分しても差支なし』と下令していた。だが涼月は冬月に遭遇せず、単艦で佐世保への航海を続けた。酒匂(初霜艦長)の回想では初霜が涼月の後方について針路を指示したとするが、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦(雪風か初霜)』から方位を教えて貰っただけとしている。翌日、二水戦残存艦(初霜、雪風、冬月)は佐世保に帰投。その後、行方不明とされていた涼月も辛うじて同港へ帰還した。 なお、吉田満著『戦艦大和ノ最期』では初霜救助艇の指揮官が、沈没艦生存者救助の際に『軍刀で生存者の手首を切った』という記述が存在する。しかし、2005年(平成17年)4月7日、『朝日新聞』の「天声人語」でこの行動について書かれると、同年6月20日『産経新聞』朝刊一面に松井一彦(初霜短艇指揮官)の反論が掲載された。戦闘詳報によれば大和の救助を行った艦は雪風と冬月である。初霜は浜風の乗組員救助中のため大和救助には従事しておらず、記述に矛盾が生じている。 4月20日、初霜の艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された。同日附で初霜は第21駆逐隊から、磯風、浜風を喪失したばかりの第17駆逐隊に編入され、同隊は2隻(雪風、初霜)となった。なお坊ノ岬沖海戦時の17駆司令新谷喜一郎大佐は4月15日附で呉鎮守府附となっている。5月10日、第21駆逐隊は除籍された。 5月15日、17駆(雪風、初霜)は佐世保から舞鶴へ移動する。5月下旬には阿賀野型軽巡洋艦4番艦酒匂(第十一水雷戦隊旗艦)も舞鶴に到着した。 6月、初霜は宮津湾で砲術学校練習艦となった。7月1日、第十一水雷戦隊司令官は高間完少将から松本毅少将へ交代。だが7月15日、第十一水雷戦隊は解隊された。十一水戦先任参謀松原瀧三郎大佐(駆逐艦五月雨艦長、第二水雷戦隊参謀《多号作戦時島風乗艦》等を歴任)は第17駆逐隊司令に任命される。松原司令は雪風を司令駆逐艦に指定した。
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