昭和20年の戦いとは? わかりやすく解説

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昭和20年の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:35 UTC 版)

初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「昭和20年の戦い」の解説

1945年昭和20年1月4日木村昌福少将後任として古村啓蔵少将着任第二水雷戦隊司令官となる。1月24日ヒ87船団護衛してシンガポール方面進出中の時雨沈没した初霜シンガポール移動後、北号作戦参加する駆逐艦3隻(初霜朝霜)は航空戦艦2隻(伊勢日向)、軽巡大淀護衛して内地帰投した。2月10日夕雲型駆逐艦朝霜は第21駆逐隊編入された。3月10日、「時雨」の除籍と共に満潮駆逐艦が第21駆逐隊編入された。第21駆逐隊朝霜初霜という編制坊ノ岬沖海戦参加した詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 4月6日第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将旗艦矢矧)は戦艦大和第二艦隊司令長官伊藤整一中将座乗とともに沖縄水上特攻作戦参加した4月7日戦闘で、各艦は大和中心とした輪形陣形成初霜配置大和左舷斜め後方である。激し空襲により第21駆逐隊司令駆逐艦朝霜沈没し駆逐隊司令小滝久雄大佐下総戦死僚艦航行不能となった乗員冬月収容後、自沈処理)。第17駆逐隊からは浜風轟沈した。空襲最中通信機能を喪失した大和初霜通信代行依頼した初霜乗船していた士官は「敵の攻撃大和集中し、特に大和近接した初霜は殆ど攻撃らしい攻撃を受けなかった」、「7トン巨艦の横に並んだ2、3トン駆逐艦など問題にもならなかったのだろう」と、通信代行として大和隣接した事が幸いした述べている。魚雷が1本艦底を通過する幸運に恵まれた午後2時20前後大和沈没し、第41駆逐隊司令吉田正大佐冬月から残存艦の指揮をとった。初霜損害軽傷者3名のみで、他に被害はなかった。各艦は沈没艦生存者救助開始初霜午後3時前後から浜風生存者救助従事256名を救助した続いて冬月雪風初霜沈没した二水戦旗矢矧生存者救助開始初霜矢矧乗組員57名、冬月は同276名、雪風は同156名を救助した大和高角砲撃墜されアメリカ海軍第三雷撃中隊第二分隊副隊長のディラニー中尉部下2名と共にパラシュートで機から脱出し海面への着水成功した。ディラニー中尉救命筏アメリカ軍パイロット救命チョッキ空気により膨らみ筏となる構造だった)にしがみ付き二時漂流した後、味方PBMマーチン飛行艇)2機に発見されたが、この時近く海上冬月初霜がいた。2機の内、スイムス大尉機長務めPBM対空砲火からディラニー中尉を逸らすため危険を犯し日本艦隊方向飛んで行き、もう1機のヤング大尉機は水上滑走しながら着水してディラニー中尉救助当たった所、これを見た日本駆逐艦が12.7センチ主砲による砲撃加えた第二水雷戦隊戦時日誌によれば冬月発砲したとあり、大和生存者冬月PBM発砲する場面目撃した一方初霜では発砲したと言う将兵らの証言残っており、酒匂艦長は「やってるな、と救助活動感心したが、シャクなので砲術長に追い払えと言ってっ放した」、「あれ(飛行艇)を追っ払え命じ落とせとは一切言わなかった」と述べ艦長命令を受け発砲した福井砲術長は、無抵抗日本兵生存者には機銃掃射浴びせる反面自国パイロット救助するアメリカ軍行動腹を立てていたと述べている。同じく初霜松井中尉も「射程距離であった事はわかっていたが威嚇のため2、3撃った」と証言している。アメリカ側では、ディラニー中尉証言に「(駆逐艦は)射撃しながら接近してきた」とあり、ヤング大尉機の搭乗員証言に「日本駆逐艦主砲弾は飛行艇向かって泳ぐディラニー中尉200ヤード以内落ちていた」とある。2機のマーティン飛行艇はディラニー中尉急ぎ収容すると、彼の部下2名を発見できないまま救助作業打ち切って発進し離脱際に航行不能状態の涼月に対して機銃掃射浴びせた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将初霜救助されると、そのまま本艦第二水雷戦隊旗艦とする。このため遊撃部隊指揮権冬月から初霜移った。古司令官初霜将旗掲げた頃、第17駆逐隊司令磯風航行不能となっていた。12時32分の空襲開始から約10分後に第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦矢矧被雷13前に航行不能となったこのため磯風は古司令官第二水雷戦隊司令部移乗させるため幾度も矢矧接近試みており、そのため矢矧巻き添えとなって被弾しのである15時35分に磯風初霜対し速力12ノット報告帰路誘導依頼していた。17僚艦雪風磯風救援おもむき合流したその後、古司令官初霜座乗)は磯風曳航許可求める第17駆逐隊司令部対し磯風放棄自沈命令する翌日の再空襲潜水艦襲撃により、更に被害増えることを避ける為とされる2240分、初霜からの下令従い雪風姉妹艦磯風砲撃処分した。これにより陽炎型駆逐艦5隻(雪風磯風浜風浦風谷風)が所属した17駆逐隊雪風1隻となった。また古司令官初霜より冬月対し涼月護衛命じるが、同時に状況によっては涼月処分しても差支なし』と下令していた。だが涼月冬月遭遇せず、単艦で佐世保への航海続けた酒匂(初霜艦長)の回想では初霜涼月後方について針路指示したとするが、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦雪風初霜)』から方位教えて貰っただけとしている。翌日二水残存艦(初霜雪風冬月)は佐世保帰投その後行方不明とされていた涼月辛うじて同港へ帰還した。 なお、吉田満『戦艦大和ノ最期』では初霜救助艇の指揮官が、沈没艦生存者救助の際に『軍刀生存者の手首を切った』という記述存在する。しかし、2005年平成17年4月7日、『朝日新聞』の「天声人語」でこの行動について書かれると、同年6月20日産経新聞朝刊一面松井一彦(初霜短艇指揮官)の反論掲載された。戦闘詳報によれば大和救助行った艦は雪風冬月である。初霜浜風乗組員救助中のため大和救助には従事しておらず、記述矛盾生じている。 4月20日初霜艦上解散が行われ、第二水雷戦隊解隊された。同日附で初霜は第21駆逐隊から、磯風浜風喪失したばかりの第17駆逐隊編入され、同隊は2隻(雪風初霜となった。なお坊ノ岬沖海戦時の17司令新谷喜一大佐4月15日附で呉鎮守府となっている。5月10日、第21駆逐隊除籍された。 5月15日17駆(雪風初霜)は佐世保から舞鶴移動する5月下旬には阿賀野型軽巡洋艦4番酒匂第十一水戦隊旗艦)も舞鶴到着した6月初霜宮津湾砲術学校練習艦となった7月1日第十一水戦隊司令官高間少将から松本毅少将交代。だが7月15日第十一水戦隊解隊された。十一水戦先任参謀松原三郎大佐駆逐艦五月雨艦長第二水雷戦隊参謀多号作戦島風乗艦》等を歴任)は第17駆逐隊司令任命される松原司令雪風司令駆逐艦指定した

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