昭和20年以降の行動
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「利根 (重巡洋艦)」の記事における「昭和20年以降の行動」の解説
1945年(昭和20年)1月1日附で利根は練習艦に指定される。同日附で利根は呉練習戦隊(司令官堀江義一郎少将)に編入した。呉練習戦隊は4隻(利根、磐手、出雲、八雲)となる。2月15日、戦隊に軽巡大淀が加わったた18日、舞鶴港を出港し、20日に呉に到着した。 3月19日、利根は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中、アメリカ第58任務部隊による空襲で至近弾1発を受け、三番砲塔が使用不能となった。江田島湾の津久茂沖合に錨泊したのち、大破着底した場合に備えて能美島の海岸付近に移動する。松や小枝などで偽装を施した。7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け、左舷中央部に直撃弾を受ける(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により左舷後部に直撃弾2発と至近弾6発を受けた。左舷後部の直撃弾は1000ポンド爆弾で、地上施設破壊用の瞬発信管であり、利根の水平装甲板を貫通せずに爆発したが被害は甚大であり、至近弾もあいまって大浸水をきたした。一時は左舷に20度以上傾斜したが、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努め、転覆を防ぐため注水作業を実施。7月29日に着底。終戦を迎えた。 アメリカ軍による調査実施後、利根は同年11月20日に除籍された。1947年(昭和22年)4月7日から播磨造船所呉船渠により解体に着手。1948年(昭和23年)5月4日、浮揚に成功。同年9月30日、解体完了。利根の解体をもって呉地区沈没艦の解体は完了した。 現在、能美島(江田島湾)の利根着底場所付近には、慰霊碑が建てられている。また慰霊碑に隣接して「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。 利根の慰霊碑 軍艦利根資料館 艦内で使われていた浴槽
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