昭和20年代後期のオート三輪の巨大化
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「オート三輪」の記事における「昭和20年代後期のオート三輪の巨大化」の解説
戦後1949年まではオート三輪について公定価格が設定されており、また燃料供給事情も良くなかったことや、戦前形の設計から大きく飛躍したモデルへのニーズがまだ薄かったこともあり、エンジン排気量や車体大型化はさほど顕著でなく、エンジンの主流も戦前以来の700cc前後の単気筒型が占めていた。 しかし、ドッジ・ライン以降の不況下でオート三輪の公定価格制は1949年10月に終了、以後各社間の自由競争時代へと突入する。そして1950年6月に勃発した朝鮮戦争に伴い、日本はいわゆる朝鮮特需による好況転換で中小零細企業までが一気に活況を呈し、末端の輸送手段としてのオート三輪への需要が高まった。時を同じくして燃料供給事情も急速な改善へと向かった。 また1951年7月施行の「道路運送車両法」で、オート三輪については、通常の四輪車と異なり、車体幅や車体長、さらには排気量について制約が撤廃された(監督官庁に「オート三輪は軽便車両」という先入観があり、四輪トラックほどの大型化を予想していなかった事情がある)。 同時期の世界的な四輪トラック市場は、1940年頃まで2t積み以下が主流だったところ、戦時中~終戦後にかけての輸送需要増大を受けて大型化が急激に進んでいた。モータリゼーションの遅れた日本でも、主要メーカーの大型トラックは戦前の1.5t~2tクラスが大型化、戦時中からは4tないし5t積みが主流になった。結果、750kg積み以下の在来型オート三輪との間、1~2t級トラックの市場が空白化したが、主要な四輪トラックメーカーのこのクラスへの対応は1t積み車の展開がせいぜいで、全般に立ち遅れていた。ここにユーザーの新たなニーズが生まれ、サイズの「たが」が外れたオート三輪の割り込む余地が出現したのであった。 こうして1952年以降のオート三輪は巨大化・長大化が一気に進んだ。制約は排気量に応じた荷重のみであり、750cc車は1952年以降従前の500kgから750kg積みへ、1000cc車は1t積み、1200cc車が1.5t、1500cc車が2tとなった。末端ユーザーはその規格も無視して過積載したが、メーカー側も過積載を折り込んでシャーシ強度を確保していた(そもそも過積載に耐えられなければ市場で認められなかった)。戦後しばらくのオート三輪で主流であった750kg積み車の市場比率は1952年の58%から、1957年には9%まで下がり、一方で1952年以降1955年度まで1t積み車の比率は50%~55%の高率になり、2t積み車は1952年の2%が1957年には同年の1t積み車と同等の38%に達した。 1953-54年には、幅1.9m級、全長6m弱、荷台13尺(約3.9m。戦後もしばらくの間、一般社会には尺貫法が根付いていたことから、トラックの荷台長は顧客向けの案内では尺単位で表現されることが多かった)という、サイズの上では上位クラスの4輪トラックを上回るような2t 積みのオート三輪が各メーカーから続々と出現する事態が生じた。エンジンについては大排気量化によるコストアップが厭われたことや、オート三輪で一般的であった単気筒ないし2気筒エンジンでは1500ccを超える大排気量化に適さないという事情もあり、車体ほどの大型化は生じなかった。エンジンに至るまで小型車の枠外で製造された普通三輪トラックは、高知県の高知自動車工業で4輪トラックの改造により限定生産されていたトクサン号のみである。 オート三輪はこうしてあまりに際限なく野放図に巨大化したため、当時の運輸省は1955年に至ってようやく「小型自動車扱いのオート三輪は、現存するモデル以上の大きさにしてはならない」と歯止めを掛けることになる。この運輸省通達が出た時点で、小型自動車扱いのオート三輪は最大例で、全長6.09m、幅員1.93mという度外れたサイズに達していた。オート三輪は元来軽便な貨物車であるという性質もあり、ほぼ全てのオート三輪メーカーは排気量抑制で小型車規格扱いとなるような車種設定に徹していた。
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