正岡子規 講談社「子規全集」事件

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正岡子規

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 10:32 UTC 版)

講談社「子規全集」事件

講談社は、1975年4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、1974年7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した[19]。このとき子規の俳句に「穢多」の語を使った句が5つあることがわかったため、1975年1月、編集担当者が大阪部落解放同盟本部へ赴いて協議した[19]。その結果、次の条件で折り合いがついた[19]

  • 部落解放同盟による監修を受け、監修料を支払うこと[19]
  • 第1回配本の「月報」パンフレットに部落解放同盟の主張を載せること[19]

そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし(西沢隆二)が加えられた[19]。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる[19]

講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある[19]

評価

短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においては以下のような課題も指摘されている[誰によって?]

  • 俳諧における豊かな言葉遊びや修辞技巧を強く否定したこと。
  • あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや、昭和期に山本健吉が述べた「挨拶」の心を失ったこと。
  • 連句(歌仙)にはきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念を作りあげたこと。

などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある[誰によって?]

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる[誰によって?]

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い[誰によって?]

子規の理論には文学を豊かに育てていく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。いまでも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割はすこぶる大きいとされる[20]

また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄陸羯南の娘婿で、子規とは新聞『日本』の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。

著作

近年




注釈

  1. ^ 天田愚庵が自由民権の思想を伝えたという。また、松山市立子規記念博物館には「子規の国会開設に関する演説」という資料があるという[1]
  2. ^ 森鴎外などとの交際は、「遼東五友の交わり」と称された。その五友とは、鴎外、『新聞 日本』の中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨、子規の5人である[2]。なお、子規と鴎外の交際は、没するまでつづいた[要出典]
  3. ^ 中国の故事「杜鵑の吐血」にちなむ。長江流域に(秦以前にあった)という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀がによって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。 =帰ることが出来ない)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。
  4. ^ 明治2年1月金沢生まれ。明治26年東京帝国大学卒業後大学院在学中の明治30年3月29日腹膜炎で死亡。
  5. ^ 子規記念博物館の展示でも確認できる。

出典

  1. ^ (中村政則 2010)
  2. ^ 佐谷眞木人『日清戦争』 講談社〈講談社現代新書〉、2009年、54頁。
  3. ^ a b 『水戸紀行』[要文献特定詳細情報]。国立国会図書館デジタルライブラリー等で閲覧可能。
  4. ^ 正岡子規, 『墨汁一滴』, 春陽堂, 1932年.
  5. ^ 処女作追懐談 夏目漱石青空文庫
  6. ^ 漱石と自分 狩野亨吉青空文庫
  7. ^ 上田正行「「哲学雑誌」と漱石」『金沢大学文学部論集 文学科篇』第8号、金沢大学、1988年2月、 1-37頁、 ISSN 02856530NAID 110000976302
  8. ^ 「哲学雑誌」124号、125号
  9. ^ 伊集院静 「それがどうした 男たちの流儀 第264回」『週刊現代』2015年5月23日号、講談社、pp.68-69。
  10. ^ 熱血!平成教育学院」(フジテレビ
  11. ^ 城井(1996年) pp.118-119
  12. ^ 城井(1996年) p.102
  13. ^ 君島(1972年) p.75
  14. ^ a b 殿堂入りリスト公益財団法人野球殿堂博物館、2020年10月13日閲覧
  15. ^ 正岡子規, 『香雪紫雲』, 春陽堂, 1932年.
  16. ^ 末延芳晴「従軍記者正岡子規」愛媛新聞 2010年2月7日付。のち『正岡子規、従軍す』平凡社
  17. ^ 『筆まかせ』 95頁。
  18. ^ 『筆まかせ』 97頁。
  19. ^ a b c d e f g h 『差別用語』(汐文社、1975年)p.76-77
  20. ^ 司馬遼太郎 『ひとびとの跫音』[要文献特定詳細情報]


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