名称と歴史
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古代日本ではワカメはニキメ、ニギメとよばれ、「和布」、「和海藻」などを充てたが、原義では海産の藻類一般を指す漢語の「海藻」をニギメとも読んだ。「メ(布、軍布)」は食用海藻の総称の1つであったが、ニギメ(ワカメ)の意味でも用いられた。またおそらくニギメの若いものをワカメとよび、「稚海藻」、「稚和布」、「若海藻」、「若布」、「和可米」などを充てた。ただし「ワカ」を「タマ(玉)」などと同様に美称と捉えれば、古代にあっては「ワカメ」は海藻類一般を指す美称であった可能性があり、それがワカメを特定する名称となったのは中世以降である可能性も指摘されている。他に別名としてメノハ(海布葉、布の葉)がある。貝原益軒の『大和本草』などでは漢名の「裙蔕菜(裙蒂菜)」を挙げているが、日本ではほとんど使われない。またワカメの胞子葉(メカブ)は「マナカシ(海藻根)」とよばれていた。 日本ではワカメは古くから食用とされてきた。縄文時代の遺跡からはワカメを含む海藻の遺存体が見つかっており、この時代から食されていたと考えられている。藤原京跡や平城京跡からは「軍布」や「海藻」、「若海藻」、「稚海藻」、「和海藻」、「海藻根」と記された木簡が見つかっている。『万葉集』にも、下記のようにワカメを詠んだ歌がいくつかある。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}角島の 迫門の稚海藻は 人のむた 荒かりしかど わがむたは若海藻 —作者未詳『万葉集』巻十六 3871 『大宝律令』(701年)にはニギメ(ワカメ)が記されており、『養老律令』(757年)でも調の1つに指定されている。『延喜式』(927年完成) ではニギメの貢納国として関東、東海、北陸、近畿、四国の16カ国が、マナカシの貢納国として東海、近畿、山陰、四国、九州の10カ国が指定されており、海藻の中では最も国数が多い。ワカメは役人(公卿から下級役人まで含む)や寺社にも広く支給されていた。またワカメは神事や宮中の儀にも広く用いられていた。和布刈神社(めかりじんじゃ)は神功皇后による創建と伝えられ、旧正月の未明にワカメを刈りとり、これを神前に供える。平城京には「海藻店(にぎめだな)」があり、他の海藻と共にワカメが売られていたと考えられている。またワカメの名産地も認識されるようになり、平安時代中期から後期の資料には「丹後和布」(京都)や「鳴門和布」(徳島)、「加田和布」(和歌山あ)が記されている。さらに『毛吹草』(1645年)では和布の産地として三河国、伊勢国、志摩国、紀伊国、阿波国、若狭国、出雲国、肥前国が挙げられている。 『和名類聚抄』(平安時代中期)では、ワカメの調理法として海菜(おそらく佃煮)が記されている。室町時代には、茶の子として油煎和布や泥和布(ぬため、和布の酢味噌和え)が挙げられている。さらに江戸時代の『料理物語』(1643年)では、ワカメの料理として「汁」や「さしみ」(おそらく酢の物)、「あぶりさかな」(炙ったもの)、「きざみ」、「酒に入れる」が記されている。
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名称は広島弁の「がんす」(「~です」「~でございます」)の意味で、目上の方に対して扱う謙譲語の意味を持つ丁寧な言葉遣いである。広島市西区の蒲鉾屋または呉市広の蒲鉾店が最初に名づけたなどの説がある。 呉市の三宅水産は、がんすを1950年代から製造しており、蒲鉾向けのすり身の余りにタマネギや一味唐辛子を合わせて作ったのが始まりだった。バブル崩壊後、蒲鉾の消費量が減り、呉以外ではあまり知られていなかったがんすに着目して、2006年からがんす娘。を広島市内のスーパーマーケットや駅頭、広島空港(三原市)などに派遣して対面販売や㏚に力を入れたところ知名度や売上高が増し、蒲鉾をしのぐ主力商品となった。2020年代においては、東京都内でも広島産品アンテナショップで販売されたり、広島出身者が経営する居酒屋やお好み焼店でメニューに並んだりしている。 広島ローカル局ではアンガールズの決め台詞として「うまいでがんす」が使われているが、商標登録は三宅水産の「うまいでがんす」の方が先だとがんす娘。と共に番組内で紹介された。 広島県は安芸国(西部)と備後国(東部)に分かれているが、備後地区ではがんすの文化は浅く、食す習慣もあまりない。
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ケプラー4bという名称は、ケプラー4という恒星の周回軌道上で初めて発見された惑星である事に因む。恒星名は、ケプラーが惑星のトランジット(恒星面通過)を観測した順番に名づけられる。ケプラーは、はくちょう座とこと座の周辺を観測する。その観測視野内に位置する恒星が、惑星がトランジットを起こすと、恒星の視等級がわずかに減少する。ケプラーは、それを利用して観測を行い、地球に似た惑星を発見する事を目標としている。存在が正式に確認される前の名称、Kepler object of interest(英語版)におけるケプラー4bの名称はKOI-7.01である。ケプラー4bは、ケプラーが観測を始めて6週間以内に得られたデータより発見された。 その後、W・M・ケック天文台の干渉計によるドップラー分光法を使った観測が行われ、ケプラー4bの質量を求めることに成功した。ケプラー4bの発見は、ケプラーが発見した別の惑星、ケプラー5b、6b、7b、8bと共に、ワシントンD.C.で行われたアメリカ天文学会 第215回会合(英語版)にて公表された。
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K2-72は、2MASSカタログ番号J22182923-0936444、EPIC(Ecliptic Plane Input Catalog)カタログ番号206209135という名称もある。 K2-72の周囲を公転する惑星は、NASAのケプラーミッションによって発見された。このミッションは、恒星の周囲のトランジットを起こす惑星を発見することを任務としている。ケプラーが使用するトランジット法では、恒星の明るさの低下を検出する。これらの明るさの低下は、地球の観点から、軌道が恒星の前を横切る惑星として解釈できる。K2-72という名称は、この恒星が、惑星候補を確認したK2ミッションによって発見されカタログ化された72番目の恒星であるという事実に直接由来している。 名称b、c、d、およびeは、発見の順序に由来する。bの指定は、対象の恒星の周囲を公転する最初の惑星に与えられ、以後c、dとアルファベットが続く。K2-72の場合、惑星は4つあるため、bからeの文字のみが使用される。当初、惑星はすべて地球よりも小さいと考えられていた。しかし、2017年にMartinezらによる新しい分析が行われた。Courtney Dressingは、K2-72が以前の推定値よりも大幅に大きいことを発見し、それによってすべての惑星が地球よりも大きいことが判明したが、それでもすべて地球型惑星である。
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「ブラック川 (オハイオ州)」の記事における「名称と歴史」の解説
18世紀、フランスやイギリスの探検家たちの間で、ブラック川は「レネシュア川 (Reneshoua River)」として知られ、ラ・キュリエール川 (la Riviere de la Cuiliere) とも称されていた。こうした名称の由来ははっきりしていないが、「キュリエール (Cuilliere)」は、1760年頃にエリー湖沿岸の各地で頻繁に活動していたフランス人の毛皮商人の名でもあった。この川は、カヤホガ川河口以西で何マイルにもわたって、小さな船でさえ上陸できる浜もなく、よじ登りようもないほど高く急峻な崖 (the cliffs) が続くエリー湖南岸で、崖の西端に位置する最も安全な停泊地として、初期のヨーロッパ人入植者たちの間ではよく知られていた。 1787年、モラヴィア兄弟団の宣教師デイヴィッド・ザイスベルガー(英語版)が、キリスト教に改宗したネイティブ・アメリカンの一団を率いて、カヤホガ川沿いにあった彼らの居留地を出発し、おそらくはブラック川をエリー湖から5-6マイル (8-10km) 遡ったあたりに新たな居留地を設けようとした。しかし、到着からわずか12日後、この一団は入植先の地元の部族から、いずれは「白人」入植者たちが来るのは必至だから、ここには入植しない方がいい、と警告され、ヒューロン川(英語版)沿いの、後のオハイオ州マイランに移った。(ザイスベルガーは、この一時的に滞在した川の名を記しておらず、それがカヤホガ川からヒューロン川への行程の中程 (halfway between) にあったとだけ記している。) ブラック川には、印象的な滝が2ヶ所、エリリアにあるが、これらの滝は19世紀の歴史家たちによって、1756年にジェームズ・スミス(英語版)がネイティブ・アメリカンたちとともに生活していたカネサドゥーハリー川のものとされた。しかし、スミスがカネサドゥーハリー川として言及していたのは、実際にはヒューロン川であり、先住民たちの呼称は、他のヨーロッパ人入植者たちによって「グアハダフリ (Guahadahuri)」とも記された。「カネサドゥーハリー (Canesadooharie)」と記した唯一の原典資料は、ネイティブ・アメリカンたちに捕らえられてサンダスキー湾(英語版)近くで彼らと生活することになったジェームズ・スミス大佐が書き記した、「カネサドゥーハリー」川の滝を訪れたとする記述である。これを踏まえて、19世紀の歴史家たちは、スミスの言及している滝は現在のオハイオ州エリリアにある滝のことであろうと考えた。さらに別の歴史家は、「カネサドゥーハリー」とは「黒い真珠 (black pearl)」という意味であろうと推測したり、よりロマンティックに「黒い真珠を連ねたひも (string of black pearls)」と考え、この「カネサドゥーハリー」とはブラック川のことに相違ないと結論づけた。こうした古い時代の推論は、その後「事実」として扱われるようになったが、遺憾ながらこれは不正確であった。ジェームズ・スミスが記述した滝は、「12から15フィートの落差があり、垂直に近い (12 to 15 feet high, and nearly perpendicular)」と記されている。しかし、エリリアにある二つの滝はいずれもそんなに小さな落差ではなく、垂直に「近い」と描写されそうな形状でもない。いずれも落差は40フィートで、完全に垂直な滝である。これらのブラック川の二つの滝は、ごく近い場所にあり、簡単に歩いていける距離にあるが、スミスがそうしたように、その一帯で釣りや狩をしながら数週間過ごせば、誰でももう一つの滝の存在に気づきそうなものである。スミスはまた、「カネサドゥーハリー」が「サンダスキーから8マイルほど東 (about 8 miles east of Sandusky)」とも記しているが、サンダスキー湾の入り口から10マイル東にはヒューロン川があり、さらに「マスキンガム川(英語版)の西支流と噛み合うような配置にある (interlocks with the West Branch of the Muskingum)」とも記されている。これらを踏まえれば、スミスが何週間も滞在する間に目にした「12から15フィートの落差があり、垂直に近い」滝、すなわち高く急峻な沢の急流は、おそらくは源内のオハイオ州ミランの近傍にあったもので、その後の自然な変化によって19世紀半ばには最早その場所が分からなくなっていたのであろうと考えられる。いずれにせよ、1756年にジェームズ・スミスが訪れた場所とは異なっていたとしても、このブラック川の双子の滝は美しく、今日でも訪れるに値する場所となっている。 GNIS がブラック川の別名としているもう一つの名称「リヴィエール・アン・グリュ (Riviere en Grys)」は、実際には、ブラック川から数マイル西側に位置する、今日のビーバー・クリーク川(英語版)を指していた名称であった。
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ボロミアン環という名称は北イタリアの貴族であるボッロメオ家の紋章からきている。ボロミアン環自体はより古くから使われており、7世紀のノース人の絵画石碑にも見られる。 ボロミアン環は結束力の象徴として宗教や芸術など様々な文脈で用いられてきた。その中でも特にトリニティの象徴として用いられた。精神分析家のジャック・ラカンはボロミアン環は人の心を現実界・象徴界・想像界の3つに分類し、晩年のラカンはこれら3界の関係をボロミアン環で表した。 バランタイン・ブルワリーのロゴにも用いられており、現在でもビールのロゴに残っている。 ボロミアン環の数学的な特性についてマーティン・ガードナーは1961年にサイエンティフィック・アメリカンで取り上げた。 2006年には国際数学連合がボロミアン環を連合のロゴに決定した。 インドでは、6世紀以前のティルバンミュールにあるマランディズワラ寺院の石柱にも似た図形が見られる
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 09:04 UTC 版)
主星ケプラー10はりゅう座の方向に560光年離れた位置にある恒星である。大きさは太陽とほぼ同じだが、誕生から120億年が経過した古い恒星である。惑星はケプラー10を公転する惑星として最初に発見された。このため「ケプラー10b」という名称が付与された。恒星ケプラー10という名称はこの恒星がケプラー宇宙望遠鏡の観測視野内に位置し、ケプラーが10番目に惑星を発見した事を示す。ケプラー10bがその前を横切る(トランジット)ことが確認されてケプラー10bと共にこの名称が付与された。惑星の発見は2011年1月10日に公表された。 発見方法であるトランジット法は主星の光度、すなわち明るさに依存する。仮に、主星と地球との間に惑星があると、主星の光がわずかに遮られ減少する。また、惑星の公転周期は一定なので、光度が減少する間隔も一定である。この方法なら、惑星の半径を知る事が出来る。惑星の質量はトランジット法からは求めることが出来ず、ドップラー分光法(視線速度法)での観測が必要になる。 ケプラー10bの発見は2009年5月から2010年1月までの8か月間の観測データを基に発見され、最初にトランジットを起こすことが確認されたのは2009年7月であった。分析の結果、ケプラー10はわずか0.83日という短い間隔で減光を繰り返していた。ケプラー10bはケプラー宇宙望遠鏡の観測視野内で最初に発見された、トランジットを起こす地球サイズの惑星であった。その後、ケプラー10の観測が優先的に行われた。2009年から2010年にかけて、W・M・ケック天文台のケックI望遠鏡でケプラー10の視線速度が計測され、ケプラー10bの質量を求めることに成功した 公表から3日後の2011年1月13日、週刊雑誌エコノミストは記事内で、この惑星を非公式に「バルカン (Vulcan)」と呼ぶ事を提案した。これはローマ神話の火の神ウゥルカーヌス(Vulcānus)と水星の内側を公転するとされた仮説上の惑星バルカン(Vulcan)とを掛け合わせている。 2011年9月には、2回目の観測結果が発表された。この観測で惑星のアルベドを測定する事に成功し、惑星の表面温度を決定する重要な鍵となった。これは地上から観測された太陽系外惑星としては初めてである。
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同流は「無闘流」「天武暁無闘流」「天武無斗流」など、いくつかの名称で呼ばれる。それぞれ使い分けがなされる場合もあるが、広義には同一の流派である。(ここでは「斗」は「闘」の略字ではなく、別の意味を持って用いられている) 古伝の無闘流は、平家一門の流れを汲み、越中に三百十数年以前に、流祖・佐々木家束柾奈が伝承したもので、佐々木家代々に一子相伝で伝えられてきた流派である。 流祖は幼少の頃より武術を好み、夢の中に探し求めた妙術を開かんと、昼夜わかたず魂気を投じて修業に精進したが、ようとして察する所あらず、ほとほと思案に暮れ、諸国に出て実践を貴重する修行中、所作に頼むまず心を以って当たらば、身は陰陽に従い絶妙を成す也との神伝を授かり、後に天、文、理、陰、陽に至る兵法を開眼し、一領一党を守護する武術として相伝されてきた。 「無闘流」は後述のように、柔術のみならず幾種類もの武器術を含む総合武術であり、九代目・十代目の宗家が同流の拍打術・体挫術を母体に整理したものが、狭義の「天武無闘流柔術」とも言える。 十代目の佐々木武久亡き後、柔術としての天武無闘流を愛知県名古屋市において、愛知県本部首席範士の井上泰が継承し、天武無闘流柔術会の看板で開講している。その様子は同会のウェブサイトから知ることができる。 また、佐々木武久は存命中に「相生道」という名称で現代武道としても発展・分派させており、こちらは相生道本院の指導のもと、大学(多摩美術大学及び南山大学)の部活動のほか、愛知県下数カ所のスポーツセンターなどで開講されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 06:19 UTC 版)
サレハルドとはサリヤ・ハルド(Саля-хард)、サモイェード語で「岬の集落」を意味する地名である。1595年に、ハンティ人の集落ポルノヴァト・ヴォジ(Полноват-вож)のあった場所に、ロシア人によって町が建設された。ちなみにポルノヴァト・ヴォジもまたハンティ語で「ポルイ岬の集落(Пулинг-авот-вош)」を意味し、いずれもオビ川にポルイ川が注ぎ込むところに位置するサレハルドの立地条件を端的に表現した地名になっている。 町は建設後、オブドルスク(Обдорск)と呼ばれた。オブドルスクの名は、オビ川からとられたものと考えられる。一帯は、ロシア帝国時代はオブドルスキ県と呼ばれた。 1930年12月10日、新しく設置されたヤマル民族管区の行政の中心となり、1933年にサレハルドと改称された。1938年に都市として登録された。
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フレンチトーストに類似する料理は、ヨーロッパの様々な国で作られていたことが記録に残っている。最古の記録は4世紀終わりから5世紀初めにかけて編纂されたローマ帝国時代の料理書アピキウスの中で「アリテル・ドゥルキア」(Aliter Dulcia) つまり「もう一つの甘い料理」とのみ呼ばれるものである。パンを牛乳にひたして作るが、鶏卵の使用については言及されていない。 中世ヨーロッパではスッペ・ドラーテ(suppe dorate、「黄金のスープ」)、スーピス・イン・ドリェ(soupys yn dorye、同左)、トステ・ドレ(tostées dorées、「黄金のトースト」)、パン・ペルデュ(pain perdu、フランス語の「失われたパン」の転訛)などの名で広く知られていた。15世紀イタリアの料理人マルティーノ・ダ・コモ(英語版)も調理法を書き残している。この料理がしばしば「スープ」と呼ばれたのは、パンを液体に浸す(ソップ(英語版))からである。 フランスやベルギー、コンゴ共和国、カナダのニューファンドランド・ラブラドール州、アメリカのニューオーリンズやアケイディアナでは、フレンチ・トーストはフランス語でパン・ペルデュ、すなわち「失われたパン」(フランス語: pain perdu)と呼ばれる。ミルクや卵に漬けることで硬くなったパン(「失われたパン」)を「生き返らせる」ものであることがその理由である。フランスでは朝食としてではなくデザートとして食べられている。日本でも、「パンペルデュ」の名で脚光を浴びるようになってきている。一方、ケベック州やアカディアではパン・ドレ(pain doré、「黄金のパン」)と呼ばれる。かつて「パン・ペルデュ」はフランス語で埋没費用を指す隠喩でもあった。15世紀に英語で書かれたパン・ペルデュの料理法も存在する。 14世紀のドイツではアルメ・リッター(Arme Ritter、「貧乏騎士」)と呼ばれており、英語の別名プア・ナイト(Poor knight)、スウェーデンのファッティガ・リッダレ(Fattiga riddare)やフィンランドのクーハト・リタリット(Köyhät ritarit)なども同じ意味である(北欧にはクリームなどを使ったより贅沢な「金持ち騎士」というデザートもある)。同じく14世紀には、ギヨーム・ティレルが「トステ・ドレ」のレシピを著書「レ・ヴィアンディエ」に書いている。 オーストリアとバイエルン州ではイタリア語のズッパ・パヴェーゼ(イタリア語版、英語版)(「パヴィーアのスープ」)に由来するパフェーゼ(Pafese)もしくはポフェーゼ(Pofese)と呼ばれる。 2003年頃にイラク問題をめぐってアメリカとフランスの関係が悪化した際、反仏活動の一環として民間の食堂がフレンチポテトをフリーダムフライに改称したことが話題になった。アメリカ合衆国下院議会でもこれに追随し、ボブ・ナイ(英語版)下院議員が主導して下院の食堂のメニューにあったフレンチポテトをフリーダムフライに改称したが、これにあわせてフレンチトーストもフリーダムトーストに改称されたことがある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 04:13 UTC 版)
"micrometer" という単語は、ギリシア語の "micros"(小さい)と "metron"(測定)を組み合わせた造語である。Merriam-Webster Collegiate Dictionary によれば、この単語はフランス語から英語に取り入れられたもので、1670年に初めて用いられたとされている。そのころメートル法もマイクロメートルという単位も存在しなかった。しかし、当時の人々は細かいものを測定する必要に迫られ、またそのような測定法に興味を持っていた。 マイクロメータの原型となるねじの原理を使った測定器具は、ウィリアム・ガスコイン (1612年 - 1644年)がノギスの改良版として発明した。ガスコインは、これを望遠鏡で星と星の角距離や惑星の直径を測定するのに使った。しかし、イングランド内戦が勃発するとガスコインは国王軍に参加し、マーストン・ムーアの戦いで若くして戦死した。 ジェームズ・ワットは1772年、自分用にマイクロメータのような測定器具を作った。ヘンリー・モーズリーは初の実用的なねじ切り旋盤を開発し、マイクロメータの発達に寄与している。また、1805年に自らもマイクロメータ的な器具を発明し「大法官 (Lord Chancellor)」と名付けた。 現在の形のマイクロメータは、パリのジャン・ローラン・パルメール (Jean Laurent Palmer) が1848年に発明している。このため、フランス語ではマイクロメータを palmer、スペイン語では tornillo de Palmer(Palmerのねじ)とも呼ぶ。英語圏では、1867年に Brown & Sharpe がマイクロメータを発売し、広く普及するようになった。1888年、エドワード・モーリーがマイクロメータの精度をさらに高め、複雑な実験でその測定値が正確であることを証明した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:05 UTC 版)
この場所に公園が最初に作られたのは1886年で、単純に「パブリック・ガーデン」(Public Garden、公共花園)と呼ばれ、中国で初めて一般人も利用できる公園になった。スコットランド人の庭師がヨーロッパ式にデザインし、休憩所、テニスコートが作られたが、それは1840年代に上海が国際貿易港となって以降増え続ける外国人租界の居住者の利用を意図したものだった。[要出典] パブリック・ガーデンは1890年から1928年の間、中国人の立入を禁じたが、よく知られた作り話として、公園の入口に「犬と中国人は立ち入るべからず」という注意書きがあったというものがある。しかしその時期の写真によると、注意書きは10項目あり、その1番目は「この公園は外国人が利用するためのものである」、4番目は「犬と自転車は禁止する」というものだった。いずれにせよ、黄浦公園や中国の他の公園で中国人の立入が禁じられたことは、19世紀から20世紀前半にかけて西洋列強から中国が辱めを受けた多くの例のひとつとして、一般民衆の心に残った[リンク切れ]。例えばブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』では、黄浦公園のゲートのシーンで(作り物だが)「狗與華人不得進内(犬と中国人は入るべからず)」という注意書きが見られる。 第二次世界大戦後、パブリック・ガーデンは「黄浦公園」に改名された。公園は北は呉淞江、東は黄浦江と接しており、本流となる後者から名前が採られた。[要出典] 1990年代に公園は改装され、人民英雄紀念碑と外灘歴史博物館が建てられた。[要出典] 公園は様変わりしたが、黄浦公園の歴史的な名前は、隣の「ガーデン・ブリッジ」(外白渡橋)や虹口区の高層マンション「ニュー・バンド・ガーデン」といった地名に今も残っている。[要出典]
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