ヨーロッパ人入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 10:04 UTC 版)
1788年1月、イギリス人入植者の艦隊は、シドニー・コーブに到着し定住を開始したが、持ち込んだ食料はわずかであった。乗船していた受刑者1000人と兵士や士官が生き延びるためには直ちに農業生産を開始しなければならなかった。しかし、シドニー・コーブは土地が痩せており、農業には適していないことが明らかとなった。総督のアーサー・フィリップはより広大で肥沃な土地を求めてポート・ジャクソン湾内の幾つかの土地を調査した。湾の最奥部は淡水が流れる川となっており航行可能な地点の中では最も内陸にあり、川の河口は農地に適した平地となっていた。 1788年11月2日の日曜日に、フィリップ総督は測量を行なっていた彼の艦隊から離れてボートで川を遡上し、川が蛇行している地点に防衛拠点となりえる丘 (現在のパラマタ公園)を見つけた。その場所をクレセント (Crescent)と名付け、総督の官邸用地に指定した。 街造りが始まると、フィリップ総督は町を"ローズヒル"と命名した(現在でもパラマタ郊外の地名に使用されている)。1791年にフィリップ総督は、土着のアボリジニの人々が使用していた地名に近い「パラマタ」へと改名した。 1789年、フィリップ総督は食糧危機の対策としてジェームズ・ルースと言う名の受刑者に農場を与えるという異例の措置をとった。ルースは農場を経営し、穀物作りを行ったオーストラリアで最初の人物となった。この農場はエクスペリメント・ファームと呼ばれ、農家が現存している。1790年代には、後にオーストラリアの羊毛産業の先駆者となったジョン・マッカーサーと妻のエリザベスがパラマタで農場経営を始めた。このエリザベス・ファームの農家も現存する。 フィリップ総督はクレセントの丘に小さな家を建てた。1799年にハンター 総督がより大きな建物へと建て替え、さらにマッコーリー総督によって増築された。1820年代の短い期間ブリスベン総督の宿舎となった他は1850年代まで静養先として用いられており、現代までその面影を残している。「パラマッタの旧総督官邸」は現在パラマタ公園内にあり歴史的な建造物に指定されており、オーストラリアで最も古い公共建築物となっている。 1803年に、パラマタでイングランド出身のジョセフ・サミュエルという犯罪者による不思議な出来事があった。サミュエルは殺人罪により有罪判決を受け、絞首刑が言い渡されていたが、絞首刑用のロープはほどけてしまった。二度目の絞首刑執行の際にも結び縄は首から抜け落ち、ほどけてしまった。フィリップ総督はサミュエルを呼び出し、彼に起こった不思議な出来事について尋ねた。
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