ヨーロッパ人支配者への反感
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:07 UTC 版)
「ジャワ戦争」の記事における「ヨーロッパ人支配者への反感」の解説
1795年、それまでジャワを支配していたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)はフランス革命軍に征服され、ジャワの支配権はフランスに移った。1808年1月5日にフランス帝国から派遣された東インド総督ヘルマン・ウィレム・ダーンデルス(英語版)は、ジャワ宮廷の儀礼を無視する態度を示したため、ジャワ宮廷からの反感を買った。さらに、ダーンデルスはジャワ貴族や地方領主の収入源だったチークの貿易権を取り上げ植民地政庁に独占させたためジャワ貴族たちの不満は募り、1810年11月にラデン・ランガの乱(インドネシア語版)が勃発する。乱の鎮圧後、ダーンデルスは鎮圧に消極的姿勢を示していたスルタン家(英語版)のハメンクブウォノ2世(インドネシア語版)を退位させ、スルタン家の収入源だった東北海岸領の賃借料廃止、領土の一部割譲などを定めたジョグジャカルタ処分を言い渡した。割譲された領土にはスルタン家を治めるハメンクブウォノ家(英語版)の墓があり、王家の誇りを著しく傷付けることになった。 1811年8月にイギリス軍がジャワのフランス軍を駆逐して1812年6月にジョグジャカルタを占領し、ジャワの支配権がイギリスに移った。ジャワ副総督に就任したトーマス・ラッフルズはジョグジャカルタ王侯領のスルタン家、スラカルタ王侯領のススフナン家(英語版)・マンク・ヌゴロ家(英語版)から領土を割譲させ、さらに徴税権を奪ったため、ジャワ王家の財政は悪化した。 ナポレオン戦争の終結により締結されたウィーン議定書に基き、ジャワの統治権をイギリスから返還されたオランダは、疲弊した本国を立て直すための財源を確保するためジャワに重税を課した。1818年10月4日、オランダ植民地政庁のジョグジャカルタ駐在官ナフス・ファン・ビュルフストはジャワの王族・貴族たちの領土を農園としてヨーロッパ人や華僑に貸し与えることを認めさせ、大規模なプランテーションを展開した。しかし、1823年5月6日にビュルフストの対立派閥に属する総督ゴデルト・ファン・デル・カペレン(英語版)はジャワの王族・貴族たちが領土を貸し与えることを禁止したため、賃貸料を返還する必要に迫られた王族・貴族たちの財政は悪化し、オランダへの不満は高まった。
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