ヨーロッパ人到達後とは? わかりやすく解説

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ヨーロッパ人到達後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:16 UTC 版)

イースター島」の記事における「ヨーロッパ人到達後」の解説

1722年復活祭イースター)の夜、オランダ海軍提督ヤーコプ・ロッヘフェーンが、南太平洋上に浮かぶ小さな島発見する発見した日にちなみ島名付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーンは、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着け祈り捧げる島民の姿を目の当たりにする。なお、この時点では、まだ文明崩壊していなかったという説がある。 1774年には、イギリス人探検家ジェームズ・クック上陸しているが、倒れ壊されモアイ像数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後モアイ倒されとされる18世紀19世紀にかけてペルー副王領政府(→ペルー)の依頼受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチフランス人の手によって、島民奴隷として連れ出された。1862年襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時島民半数に当たる約1,500人が島外拉致された。また外部から持ち込まれ天然痘結核猛威振るった結果人口は更に激減し島民絶滅寸前まで追い込まれ1872年当時ではわずか111であった。この過程ロンゴロンゴ文字初めとする文化伝承断絶した1888年チリ領になり現在に至るが、1937年軍艦建造財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却検討され日本に対して打診があった。日本は主に漁業基地としての有用性認めたが、在チリ公使三宅哲一郎がアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ大統領面会したところ、アメリカ合衆国及びイギリスにも売却打診されているとの説明なされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見出されている。 2016年時点において独立運動起こっている。背景には急激に数を増しつつあるチリ本土からの移住者土地仕事文化乗っ取られつつあると考え現地住民懸念怒りがあるという。

※この「ヨーロッパ人到達後」の解説は、「イースター島」の解説の一部です。
「ヨーロッパ人到達後」を含む「イースター島」の記事については、「イースター島」の概要を参照ください。

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