画題
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スザンナはしばしば美術家の画題となった。中世では主に祈る姿が、またルネサンス以降では水浴場面が描かれた。水浴の場面の描写については、ヨーロッパの画家が、宗教心からではなく「裸婦スザンナ」に興味を持って描いたものである。
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画題
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江戸時代には浮世絵で金太郎図が数多く描かれ、新年には干支に添えた形で出版された。美人画・役者絵を得意とする鳥居清長(1752年(宝暦2年) - 1815年(文化12年))は天明・文化年間に数多くの金太郎図を描き、美人画で知られる喜多川歌麿(? - 1806年(文化3年))も山姥と組み合わせた金太郎図を描いている。また、歌川国芳(1797年(寛政9年) - 1861年(文久元年))も多くの金太郎図を描いている。
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画題
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歌川国芳作 月岡芳年作 源経信が自邸で鬼を見た伝説を題材とした、師弟の作品の対比。 100作の内容は武者絵・歴史画・名所絵・動物画・美人画・役者絵など多岐に渡り、採り上げた画題も布袋像や高砂などの伝統的なものから、実在・架空を問わず様々な人物、物語、伝説、風景、江戸時代の風俗など、幅広いものとなっている。能や歌舞伎に基づいた作品も多い。一部の画題については、発売当時の明治時代でも市民になじみの薄いものもあったようで、例えば「手友梅」(33) の発売時は、『読売新聞』に人物と伝承についての解説が掲載された。 唯一、明智光秀の家臣斎藤利三は100点のうちで二度画題として登場する。「月下の斥候」(8) は山崎の戦いを前に羽柴軍の偵察に出る姿であり、「堅田浦の月」(64) は山崎で敗走し、近江国堅田で捕縛される直前の利三を描いている。明智光秀に関連しては、他にも「明石儀太夫」(81) で秀吉暗殺失敗の責を取り自刃する家臣を、「山城小栗栖月」(17) では光秀が落ち武者狩りに遭う場面を農兵の視点から描いている。
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画題
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『モナ・リザ』に描かれている女性に関して、さまざまな説が唱えられてきた。聴覚障害者、喪に服す婦人、高級娼婦、人類の恋人、画家が患う神経症の産物、梅毒患者、伝染病患者、麻痺患者、歯痛病者などである。2010年1月には、パレルモ大学の解剖病理学教授ヴィトー・フランコが、イタリアの新聞『ラ・スタンパ』に『モナ・リザ』に関する記事を寄稿した。そしてフィレンツェで開催された医学学会で、『モナ・リザ』に描かれている女性には、コレステロール過多症の原因となる脂肪酸の明らかな蓄積が見られると指摘した。さらにフランコは、女性の右目には脂肪腫らしき症状も見られるともしている。 専門家や愛好家の間では「リザ」という名前で呼ばれていたレオナルドの絵画作品は、少なくとも4点存在すると考えられており、リザ・デル・ジョコンドが描かれているのはルーヴル美術館が所蔵しているのとは別の「モナ・リザ」だと主張する研究者もいる。 描かれている女性の特定にもさまざまな説があり、「リザ」のモデルではないかといわれた女性は10名以上の名前が挙げられている。ミラノ公妃イザベラ・ダラゴナ、ミラノ公の愛妾チェチーリア・ガッレラーニ、フランカヴィラ公爵夫人コンスタンツァ・ダヴァロス (en:Costanza d'Avalos, Duchess of Francavilla)、マントヴァ侯妃イザベラ・デステ、パシフィカ・ブランディーノ、イザベラ・グアランダ、カテリーナ・スフォルツァ、レオナルドの母カテリーナ、さらにはレオナルド自身だという説もある。 オーストラリア人芸術家スーザン・ドロテア・ホワイト (en:Susan Dorothea White) は『微笑みの解剖学、モナ・リザの頭骨 (Anatomy of a Smile: Mona's Bones )』(2002年)と『モナ・リザの噛み合わせ (Mona Masticating )』(2006年)で、『モナ・リザ』に描かれている女性の頭蓋の形状が、解剖学的に男性のものと酷似していると指摘した。ベル研究所のリリアン・シュワルツ (en:Lillian Schwartz) は、『モナ・リザ』は実質的にはレオナルドの自画像ではないかと主張している。『モナ・リザ』をデジタル解析した結果、『モナ・リザ』の女性の表情と自画像のドローイングの表情とが一致することが分かったとした。しかしながら、シュワルツが比較対象としたドローイングは、レオナルドの自画像ではないという説もある。レオナルドの伝記を書いた作家セルジュ・ブラムリー (en:Serge Bramly) は1994年に「(『モナ・リザ』の)モデルといわれる人物は、妥当か否かはともかくおよそ12名程度は存在する。なかには、モデルなどは存在せず、レオナルドが理想の女性を描いたと主張する者もいる」としている。 マイケ・フォクト=リュールセンは、『モナ・リザ』のモデルが、レオナルドがその宮廷画家を12年間勤めていたミラノ公妃イザベラ・ダラゴナであると主張した。フォクト=リュールセンは『モナ・リザ』に描かれている濃緑色の衣装は、この女性がスフォルツァ家の一員であることを示唆しているとし、『モナ・リザ』はミラノ公に輿入れしてきたイザベラを描いた最初の公式肖像画であり、1503年ではなく1489年の春か夏に描かれた作品であるという説を唱えている。 2004年に歴史家ジュゼッペ・パランティが『モナ・リザ、無邪気な女性 (Monna Lisa, Mulier Ingenua )』を出版した。この書籍は過去に『モナ・リザ』のモデルといわれてきた人物たちを、古文書を調査した証跡をもとにしてまとめ上げた文献となっている。パランティは証跡から、レオナルドの父がデル・ジョコンドの友人だったと考えられるとし「『モナ・リザ』は、リザ・デル・ジョコンドが24歳のときに描かれた作品で、レオナルドの父が友人のために制作を依頼した作品であろう。レオナルドの父は他にも息子に絵画制作を依頼したことがあった」としている。2007年には系図学者ドメニコ・サヴィーニが、ストロッツィ家の姫ナタリアとイリナがリザ・デル・ジョコンドの子孫であると特定した。 2010年10月に、美術史家シルヴァーノ・ヴェンチェッティが『モナ・リザ』の目の中にレオナルドのイニシャルなどの微細な文字を発見したと、英紙デイリー・メールが報じた。右目にレオナルドのイニシャルである「LV」が描かれ、左目には「CE」あるいは「B」と思われる記号、背景にある橋のアーチには「72」あるいは「L2」のような文字を、高度な拡大鏡を使用することで確認できるとする報道である。この発表から間もなく、ヴェンチェッティはこれらの文字からレオナルドの長年の弟子で愛人だったともいわれる、ジャン・ジャコモ・カプロッティ(通称サライ (en:Salaì))こそが、『モナ・リザ』のモデルであると主張し始めた。この主張に対しルーヴル美術館は、ヴェンチェッティが実際に『モナ・リザ』を精査していないことを指摘し、2004年と2009年の科学的分析時に「あらゆる研究機関が調査することが可能」だったにもかかわらず「調査中に、文字や数字はひとつも見つかっていない」「木の板に描かれている作品の経年変化により、絵画表面には無数のひび割れが生じている。このひび割れの形状が、行き過ぎた臆測のもとであたかも数字や文字であるかのように見えてしまう可能性があるのかもしれない」と反論している。
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画題
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「ヤーコブ・ヨルダーンス」の記事における「画題」の解説
ヨルダーンスはよく知られている人物画だけではなく、聖書のエピソード、ギリシア・ローマ神話、寓意などをモチーフにした絵画を描いており、さらには銅版画の分野にも作品を残している。神話画も含む歴史画を描くことが多かったが、『大人が歌えば子供が笛吹く』のようなフランドルに伝わることわざや格言を絵画化した作品や、『酒を飲む王様』のようなフランドルの祭りを描いた作品なども残している。動物画も好んでいたと考えられており、雌牛、馬、鶏、猫、犬、羊など生活に身近な動物を多く描いている。ヨルダーンスの動物や人々の日常的な暮らしぶりを描いた絵画群は、その生涯を語る上でつねに用いられ、引き合いに出される作品になっている。1640年にルーベンスが死去するとヨルダーンスはアントウェルペンの画家の第一人者となり、主に北ヨーロッパ諸国の宮廷から絵画制作依頼を受けるようになった。ルーベンスの遺産相続人から、スペイン王フェリペ5世の依頼による、未完のままに残されていたヘラクレスとアンドロメダを描いた作品の仕上げを依頼されたこともあった 1635年から1640年にかけてルーベンスが晩年の通風の発作に苦しんでいた時期に、フェルナンド・デ・アウストリアが新しくスペイン領ネーデルラント総督に就任し、1635年に赴任することを祝う式典のために、ヨルダーンスはルーベンスがデザインしたスケッチに従ってアントウェルペンで飾り付けの仕事を担当している。このときにヨルダーンスが担当した美術品は現存していない。ヨルダーンスは1639年から1640年に、イングランド王チャールズ1世からグリニッジにある王妃ヘンリエッタの別邸に飾る絵画製作依頼を受けたが、これももともとはルーベンスが依頼を受けかけていた仕事で、当時のルーベンスの健康状態が悪化していたためにヨルダーンスに依頼が回ってきたものである。 ヨルダーンスは1636年から1681年にかけて行われたスペインのエル・プラド王宮の装飾の一部を担当しており、ルーベンスの下絵をもとに描かれた『アポロンとパン』(1637年)と『ベルトムヌスとポモナ』(1638年)の2点の神話画がヨルダーンスの作品と考えられている。その他『ティタン族の滅亡』、『ペレウスとテティスの結婚』、『龍の牙を折るカドモス』もヨルダーンスの作品と見なす研究家もいるが、異論もあり定説を見ていない。1661年は新築されたアムステルダムの市庁舎に、3点のルネット壁画を描く依頼を受けている。
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画題
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「アムールとプシュケー、子供たち」の記事における「画題」の解説
18世紀半ばに、古代ギリシアや古代ローマの神話への関心が高まると、クピードーとプシューケー(英語版)の物語を描く作品が数多く制作されるようになった。クピードーとプシューケーの物語は、2世紀に成立したアプレイウスの『変容(または黄金のロバ)(ラテン語版、英語版)』で語られている。 王女として生まれたプシューケーは、その美しさで男たちから慕われるようになる。これが、クピードーの母で、美の女神であるウェヌス(ギリシア神話のアフロディーテに相当する)の怒りを買ってしまう。ウェヌスはクピードーを送り込み、その矢でプシューケーを射抜いて、何か醜い怪物に恋をさせようと仕向ける。ところがクピードーは、自身を矢で傷つけてしまい、プシューケーとの道ならぬ恋に落ちてしまう。クピードーは、決して彼女が自分の顔を見ないという条件で、プシューケーと密かに結婚する。しかし、彼女の好奇心が優ってしまった時、クピードーは彼女の元から飛び去ってしまう。プシューケーは、恋人であるクピードーを求めて、地上や地下世界を彷徨う。彼らは遂に再会し、彼女には永遠の命が与えられる。ウェヌスが差し向ける災難や、不死の神と死すべき人間という身分の違いに、二人が打ち勝つ物語が、この画題を人気の高いものとした。 本作でブグローは、クピードーとプシューケーを、ほとんど幼児と言ってよいような幼い子供たちとして描いている。クピードーは、ギリシア神話のエロースに相当するローマ神話の神であり、しばしば幻想的に、いたずら好きな幼児として、翼のある、弓矢を持った姿で描かれる。ギリシア神話のエロースは、しばしば青年の姿で描かれ、それを踏まえてプシューケーとの恋が始まる。しかし、クピードーは幼児なので、プシューケーも本作では幼い姿で描かれているが、これは一般的に彼女を若い女性として描く美術史上の原則からは外れている。ブグローは、プシューケーを蝶の翅を持った姿に描いているが、これは「プシューケー (ギリシア語: Ψυχή)」がアリストテレスが蝶に付けた呼称であったことを踏まえている。人間から不死の存在になったプシューケーは、人間の魂の変容の象徴である。登場人物たちを子供として描くという画家の決断は、ウェヌスによって引き裂かれる前の、彼らの無垢な姿を表現するものである。こうした描き方は、本作が展示されたサロンで、広く受け入れられることとなった。ブグローは他にも、我々により馴染みが深い、若い恋人たちの姿でクピードーとプシューケーを描いた作品も複数残している。
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画題
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タンカを初めとするチベットの仏教画は、仏教理論に基づいて題材、構成と幾何学的配置が決められる。仏教画は仏教と共に7世紀頃にインドから伝わったものと考えられ:8、初期の作品は必ずしも現代のチベット美術様式と一致しないが、現存するチベットのタンカのほとんどは14~15世紀以降の作であり:35、チベットの仏教画は15世紀に一応の完成を見せているため:41、結果として現存するほとんどの仏教画が現代のチベット美術様式とほぼ一致している。 タンカの起源ははっきりしない。タンカの起源と思われる絵画のほとんどは失われてしまっているが、8世紀末から9世紀半ばまでチベット民族の吐蕃に支配されていた敦煌からチベット仏教に関する絵画がいくつか見つかっており、それがタンカの源流の一つと考えられている:9。 タンカは目的に応じ、曼荼羅、ツォクシン、その他の形で描かれる:74。その他の形としては、ラマなどの偉人、仏陀など仏教上の神や人物、仏法について描かれることが多い:IV。チベット医学の解説もタンカで残されている:75。 曼荼羅は幾何学模様の中に人物や物体を描いた絵で、描かれた物に想や行など仏教の抽象的概念を意味付けしたものである。ツォクシンは中心人物とその関連人物との関係を樹木のように並べて描いたものである。その他の絵の多くは、中心に主題となる人物を書いたもので、その周りに関連する人物やその人物にまつわる物語などが書かれることもある。 チベットの仏教画製作は、15世紀に無名の職人から名のある画家によるものへと代わっていき、形式も時代が下ると共に厳密化していった。 タンカの構成の例 曼荼羅の例 ツォクシンの例
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画題
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画題としての赤富士は、江戸時代後期から取り上げられており、明和8年(1771年)には文人画家の鈴木芙蓉が『赤富士に昇竜龍図』を描いている。文政4年(1821年)には野呂介石が『紅玉芙蓉峰図』において赤富士を描いている。 浮世絵師・葛飾北斎は、天保2年(1831年)に『富嶽三十六景』の1図として、「凱風快晴」と題する赤富士を描いている。 明治以降も、林武・横山操・片岡球子・絹谷幸二らによって、赤富士が描かれている。
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画題
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「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「画題」の解説
ルネサンス期に描かれた絵画作品は、ローマ・カトリック教会からの依頼で制作されたものが多い。大規模な作品も多く、「キリストの生涯」や「聖母マリアの生涯」あるいは聖人、とくにアッシジの聖フランチェスコといったテーマが、フレスコ画で繰り返し描かれた。他にもキリスト教的救済と、現世において救済の役割を担う教会をテーマにした寓意画も多数描かれている。教会が注文した作品には板に描かれた祭壇画もあり、これは後にキャンバスを支持体として油彩で制作されるようになった。このような大規模な祭壇画とは別に、小さな宗教画も非常に多く描かれている。これらは教会ならびに個人による注文で描かれたもので、画題としては聖母子が多い。 ルネサンス全期を通じて、教会、個人以外に都市国家からの絵画制作依頼も重要で、公的な建造物の内装はフレスコ画などの美術品で装飾された。例えばシエーナ共和国の庁舎として建てられたプブリコ宮殿(現在のシエーナ市庁舎 (en:Palazzo Pubblico))には、アンブロージョ・ロレンツェッティによる世俗的な題材である『善政の寓意』の一連のフレスコ画が、シモーネ・マルティーニによる宗教的な題材である『荘厳の聖母(マエスタ)』のフレスコ画がある。 実在する特定の個人を描いた肖像画は14世紀、15世紀初頭にはあまり描かれておらず、都市国家に貢献した重要人物を記念する肖像画が描かれた程度である。このような記念肖像画として、シモーネ・マルティーニの『グイドリッチョ・ダ・フォリアーノ騎馬像』(シエナ市庁舎、1327年)、パオロ・ウッチェロの『ジョン・ホークウッド騎馬像』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、1436年)、アンドレア・デル・カスターニョの『ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、1456年)などがあげられる。15世紀半ば以降になると肖像画は一般的なジャンルとなり、当初は横顔、のちに斜め前を向いた胸から上の肖像画が多く描かれた。有力なパトロンが祭壇画やフレスコ画に描かれた場面の登場人物として描かれることもあり、ドメニコ・ギルランダイオがフィレンツェのサンタ・トリニタ教会サセッティ礼拝堂 (en:Sassetti Chapel) のフレスコ画に描いた、フランチェスコ・サセッティ (en:Francesco Sassetti) とメディチ一族が有名な人物像となっている。盛期ルネサンスのころには肖像画はますます多く描かれるようになっていき、ラファエロ、ティツィアーノら重要な画家が肖像画を制作し、マニエリスム期でもブロンズィーノといった画家が肖像画の名作を残している。 ルネサンス人文主義の成熟とともに、画家たちが絵画作品に描く題材もギリシア・ローマ神話などの古典的なものになっていった。富裕なパトロンの私邸を飾るために描かれた作品にこの傾向は顕著で、メディチ家の一員ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ (en:Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici) の別荘カステッロ邸装飾絵画として描かれたボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』などが有名な作品である。このような古典的題材は、都市国家からの依頼作品にも特定の寓意を表すモチーフとして採用されるようになった。ルネサンス人文主義は宗教画にも影響を及ぼしており、ミケランジェロが描いたバチカン宮殿システィーナ礼拝堂の天井画がその好例となっている。 当時の風俗、暮らしぶりを描いた絵画作品もあり、そのなかには何らかの寓意を意味する作品も、純粋に装飾用に描かれた作品も存在する。マントヴァの領主ゴンザーガ公爵家の邸宅であるドゥカーレ宮殿の「夫婦の間」(en:Camera degli Sposi) にマンテーニャが描いたフレスコ画は、当時のゴンザーガ家の生活を記録した貴重な資料ともなっている。 ウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』のように、重要な出来事を記念して制作された絵画作品も多い。また、当時のイベントや実在の人物を、歴史的な出来事や歴史上の人物に仮託して描いた作品もあり、歴史上の人物の外観で描かれた肖像画が存在する。ダンテの著作、ウォラギネの『黄金伝説』、ボッカッチョの『デカメロン』といった文学作品が、このような構成で描かれた作品の主たる取材源となっている。その他にも、ルネサンス期にはさまざまなものが画題となっていった。自然の観察、解剖学の研究、光の描写、遠近法の発達などにより、画家たちの力量は向上し、優れた作品が生み出されていった。
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画題
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黄山谷による題記によれば、元祐元年(1086年)から元祐3年(1088年)にかけて西域から献上された馬で、うち4頭には鳳頭驄・錦膊驄・好頭赤・照夜白と馬名が記されている。馬はそれぞれ一人の男に引かれている。 清の乾隆帝は最後の一頭の満川花が後世の補筆であると指摘しているが、鈴木敬によればそれ以外は李公麟の真筆だとする。
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画題
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