戊辰戦争 東北戦争

戊辰戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 08:22 UTC 版)

東北戦争

会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手

新政府の会津藩・庄内藩の処遇

文久の改革後、京都守護職および京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩藩主・松平容保および桑名藩藩主・松平定敬の兄弟は、京都見廻組および新撰組を用いて尊王攘夷派の弾圧を行い、尊王攘夷派・のちの新政府(薩摩藩長州藩)から恨みを買っていた。また鳥羽・伏見の戦いにおいて会津藩と桑名藩は旧幕府軍の主力となり、この敗北によって朝敵と認定されていた。

また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩藩主・酒井忠篤は、新政府によって会津藩への報復と同様の報復がなされることを予期し、以後両藩は連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。

奥羽越列藩同盟の成立

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は、東北地方の大国である仙台藩の藩主・伊達慶邦に会津藩の追討を命令した。しかし仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。これらの行動を会津の天皇への“武装・恭順”なのだと主張する説もある。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩および庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督府および新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・九条道孝、副総督・澤為量、参謀・醍醐忠敬下参謀世良修蔵(長州藩)と大山綱良(薩摩藩)がいる。3月29日、奥羽鎮撫総督府は、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩および庄内藩への追討を命じた。

4月19日、藩主・伊達慶邦が率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り、戦闘状態になった。一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い、4月21日、会津藩は仙台藩に降伏した。降伏の条件は、会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎することおよび会津藩の削封、という内容だった。しかし数日後、会津藩は仙台藩に合意を翻す内容の嘆願書を渡し、これを見た仙台藩は会津藩の説得をあきらめた。

4月23日、奥羽鎮撫総督府副総督・澤為量および下参謀・大山綱良が率いる新政府軍は、庄内藩を攻撃するため仙台から出陣した。しかし庄内藩は新政府軍を撃退し、閏4月4日、庄内藩は天童城を攻め落とした。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東地方で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を一時占領した。この報が東北地方に伝わると、仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため、閏4月17日、新政府は嘆願書を却下した。奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。

閏4月20日未明、仙台藩と福島藩は新政府軍が庄内藩を攻撃するため出陣していった留守をつき、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵と報国隊の勝見善太郎を福島の金澤屋で捕縛して斬首し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。首は白石城へ送られ、但木土佐は当初児捨川へ首を投げ捨てるように命じたが寺へ葬られた。同日、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日に世良の馬丁の繁蔵も長楽寺で背後から斬殺した。閏4月21日、福島町の江戸口付近を醍醐参謀らと共に北行中だった醍醐参謀附士の長州藩士野村十郎を仙台藩士が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士中村小次郎も白河口の戦いで重傷を負って籃輿で福島へ向かう途中に伏拝坂付近で左右から刺殺された。さらに仙台藩は、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁した[18][19]

閏4月21日、薩摩藩士鮫島金兵衛が軍監として羽州への援軍の盛岡藩兵と共に七北田宿まで来ると、仙台藩は盛岡藩の進軍を遮った。仙台藩目付の熊谷齋宮と鈴木直記は、盛岡藩兵の隊長沢田斉安寧と留守居遠山礼蔵明則に、鮫島は薩摩藩士なので奥羽のために宜しくない者だから捕縛して引き渡すようにと伝えたが、盛岡藩が断って物別れに終わった。その後、仙台藩から引き続き盛岡藩兵の進軍を遅延させる旨の手紙が届いたので、鮫島金兵衛は九条総督と相談しようと出発したところを、待ち伏せていた仙台藩小人組の5人に殺害され、路傍に埋められた。仙台藩と戦端を開くのを避け、盛岡藩兵は撤兵した[20]

閏4月22日、薩摩藩士内山伊右衛門綱次、その従者の太郎、薩摩藩士西田十太郎の3人が、弾薬など7駄を羽州へ運ぶ途中に大深沢で、但木土佐の命令を受けた仙台藩士の荒井平之進、橋本豊之進、狭川公平と、小人組の松田三四郎、小田五郎の5人に待ち伏せされて斬殺された。首は荒井が仙台まで持ち帰り、七北田刑場へ捨てた[20]

これと並行して仙台藩・米沢藩を中心に、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書のための会議を新政府と敵対する軍事同盟へ改変させる工作が行われた。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたので天皇へ直接建白を行う方針に変更された。閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。

ここに旧幕府とも新政府とも異なる軍事同盟(地方政権)が、東北地方・北海道・新潟に誕生した。しかし、これは天皇への嘆願目的の各藩のルーズな連合であり、[要出典]また、恭順を勧めるための会議が途中で反新政府目的の軍事同盟に転化したため、本来軍事敵対を考えていなかった藩など各藩に思惑の違いがあり、統一された戦略を欠いていた。[21]

輪王寺宮と幻の仙台朝廷

仙台藩が仙台城下に軟禁した奥羽鎮撫総督府の九条総督らは、列藩同盟にとって重要な「錦の御旗」だった。ところが、九条総督らが新政府側の佐賀藩・小倉藩によって騙し取られてしまうという事件が起こる。そこで6月、仙台藩と会津藩は、上野戦争から逃れてきた孝明天皇の義弟・輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)を仙台城下に迎え入れ、輪王寺宮を「新たな錦の御旗」として、列藩同盟の盟主に据えた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請したが、6月16日に盟主のみの就任で決着した。

仙台藩と会津藩には、輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させる構想があった。ただし、史料が限られており、輪王寺宮の即位の有無には議論がある。この新朝廷においては、仙台藩主・伊達慶邦は征夷大将軍に、会津藩主・松平容保は征夷副将軍に就任する予定だったとされる。詳しくは北白川宮能久親王#「東武天皇」即位説の項を参照。

秋田・庄内戦線

奥羽鎮撫隊の集結

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため、副総督の澤為量および下参謀の大山綱良(薩摩藩)が率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし、大富豪・本間家からの献金で洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後、列藩同盟の成立に際し、仙台に駐屯していた下参謀の世良修蔵(長州藩)が仙台藩によって殺害され、総督の九条道孝・参謀の醍醐忠敬は軟禁された。

新政府は九条総督救出のため、佐賀藩士・前山長定(前山清一郎)率いる佐賀藩兵および小倉藩兵を仙台藩に派遣した。閏4月29日、前山の新政府部隊が船で仙台に到着すると、この部隊は薩長両藩ではなかったため、仙台藩は軟禁していた総督府要人を前山の部隊に引き渡した。こうして仙台藩は、新政府に九条総督らを騙し取られてしまった。

6月18日、救出された総督府の一行は盛岡藩に到着した。藩主・南部利剛は1万両を献金したが、態度は曖昧なままだった。続いて7月1日、総督府一行は久保田藩に入った。久保田藩は国学者・平田篤胤の出身地という影響もあって、尊王派が勢力を保っていた。総督府一行は、庄内藩討伐のため仙台に居らず生存していた澤為量・大山綱良ら残存部隊と合流した。澤為量副総督は分隊を率い弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、弘前藩の列藩同盟派によって矢立峠は封鎖されており、そのため澤の部隊は久保田藩に留まっていた。結果的に総督府一行は久保田藩で集結することになった。

秋田戦争

久保田藩の新政府への接近に気づいた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に世良修蔵を殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、東北地方における新政府軍の拠点となった。

久保田藩に続いて新庄藩本荘藩亀田藩矢島藩が新政府軍に恭順した。この状況に対して、南方へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、7月14日に新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。

また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、大館城を攻略した。

しかし、佐賀藩を中心とする援軍の到着により久保田軍は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏した。24日、最後まで領内に新政府軍の侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏した。

白河戦線

白河市は関東地方と東北地方の結節点であり、この地の白河城は両地方間の交通を管理可能な拠点だった。江戸無血開城以降の時点で、この地は新政府の管理下となっていた。仙台藩が列藩同盟設立の姿勢を顕にし総督府の下参謀・世良修蔵(長州藩)を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁したのと同じ閏4月20日、会津軍と仙台軍は呼応して新政府から白河城を奪い取った。

しかし5月1日、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍・約500人は、列藩同盟軍から白河城を奪還した。

以後100日余りに渡って、攻防戦(白河口の戦い)が行われた。新政府軍側には増援は一向に到着しなかった。会津藩・仙台藩を主力とする列藩同盟軍・約4,500人は司令官・西郷頼母(会津藩)のもと、7回にわたって白河城の奪取を試みた。しかし、いずれも失敗に終わった。この激戦で、両軍併せ約1,000人の死者が出た。この白河城奪還戦が、戊辰戦争の「天王山」だと言われている。

北越戦争

北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い(御館の乱)に見立てて描いたもの。新潟県立図書館[22]
北越戦争における薩摩藩戦死者の墓(新潟県上越市金谷山)

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したが、イタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟にとって武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で、長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた各種支援の受け入れを拒否し、獨立特行の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが、岩村はこれを新政府の権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。

長岡藩は河井により兵制改革が進められ武装も更新されていた。同盟軍は河井の指揮下で善戦したが、5月19日に長岡城が落城。7月25日に同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたが(八丁沖の戦い)、この際指揮をとっていた河井が負傷した(後に死亡)。新政府軍はすかさず長岡城を再奪取し、4日後の29日に長岡藩兵は撤退した。さらに新発田藩が寝返り、新政府軍が軍艦で上陸し、米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失い深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線

平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国茨城県平潟港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。

当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在だったが、新政府軍の軍艦を用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、新政府軍の兵力は約1,500人となった。

6月24日、東山道先鋒総督府参謀・板垣退助(土佐藩)が率いる新政府軍迅衝隊が白河から平潟との中間にあった棚倉城を接収した。さらに7月14日、迅衝隊は海岸に近い磐城平城を占領(平城の戦い)。16日には断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し無血開城し、三春城は新政府軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討総督・四条隆謌が増援を率いて平潟に到着、29日に二本松城を三春城から北上した新政府軍が占領した(二本松の戦い二本松少年隊)。8月7日、相馬中村藩が新政府軍に降伏。四条隆謌と参謀・河田景与および木梨精一郎らは相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の駒ヶ嶺を占拠、ここで仙台藩と戦闘を繰り広げた。

白河周辺に大軍を駐屯させ南下を伺っていた列藩同盟軍は、より北の浜通り及び中通りが新政府軍の支配下に入ったことに狼狽し、会津領内を通過して国許へと退却した。また仙台藩は列藩同盟の盟主でありながら恭順派が勢いを増していて、藩領外への進軍は中止された。

新政府軍の総司令官・大村益次郎長州藩)は、仙台藩の攻撃を優先するべきだと主張し、現地の司令官・伊地知正治薩摩藩)と板垣退助土佐藩)は会津藩を攻めるべきだと主張した。結果、伊地知・板垣の会津進攻策が通り、会津戦争が行われることになった。

東北戦争の終結

損傷した若松城(降伏後に撮影)

8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。当地には大鳥圭介ら旧幕府軍が防衛していたが兵力が小さく、敏速に突破され若松への進撃を許した。当時会津軍の主力は関東に近い領内南部の日光口(会津西街道)や領外の遠方にあり、若松に接近している新政府軍への備えが劣っていた。またこれらの軍は侵攻してきた新政府軍を側面から牽制することもなく若松への帰還を優先した。こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、白虎隊の悲劇などが発生した。

9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏[注釈 1]、22日に会津藩も新政府に降伏した。会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。

奥羽越列藩同盟諸藩の降伏後、行き場を失った水戸藩・諸生党を中心とする旧幕府方残党は水戸城に侵攻するが、10月1-2日の弘道館戦争で敗退した。旧幕府方残党は南に敗走し、10月6日、下総国匝瑳郡松山村付近の松山戦争で壊滅した。


注釈

  1. ^ ただし、仙台藩主伊達慶邦は既に、8月26日に新政府への謝罪降伏の手配を指示し、8月29日には熊本藩陣中へ仙台藩士2人を派遣して仙台藩の降伏交渉を始めさせている[23]

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 原口 1963, p. 239.
  3. ^ 原口 1963, p. 267.
  4. ^ 石井 1968, p. 46.
  5. ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」
  6. ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  7. ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  8. ^ 原田伊織『明治維新という過ち・完結編』講談社2018年
  9. ^ 水谷憲二 2011, p. 178.
  10. ^ 水谷憲二 2011, p. 220-224.
  11. ^ 水谷憲二 2011, p. 8-12, 22-24, 55.
  12. ^ 保谷 2007, p. 115-127.
  13. ^ 水谷憲二 2011, p. 391-394.
  14. ^ 水谷憲二 2011, p. 399-403.
  15. ^ 梁田戦争をご存知ですか(足利市公式サイト)
  16. ^ 水谷憲二 2011, p. 194-197.
  17. ^ 神奈川県企画調査部県史編集室(編)『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)』神奈川県弘済会、1980年、73-80頁。
  18. ^ 『復古記 第十二冊』390頁417頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。)
  19. ^ 『二本松藩史』148頁151頁 「齋藤淺之助翁談話」 (編著者・出版者:二本松藩史刊行會 再版発行:昭和2年(1927年)1月10日) (2018年10月11日閲覧。)
  20. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』417頁418頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月16日閲覧。)
  21. ^ 石井孝, 『戊辰戦争論』, 2008年
  22. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  23. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』459頁463頁 復古外記 平潟口戦記 第三 明治元年8月29日 「廿九日、伊達慶邦、使ヲ肥後藩ノ營ニ遣シ、情ヲ陳シ、帰順ノ事ヲ請フ。」 (編著者:太政官、長松幹、藤川三渓 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月17日閲覧。)
  24. ^ 保谷 2007, p. 274.
  25. ^ 保谷 2007, pp. 274-275.
  26. ^ 『田名部町誌』(1935年)
  27. ^ 野口信一 2010, p. 240-246.
  28. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 176頁






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